7話
何をもって、幸せだと思えばいいのだろうか。
世の中には、ありとあらゆる理不尽が転がっている。突拍子もなく、予鈴もなく。一切の前触れもなく突然、これまであったものが一瞬に消え去ってしまうことなど、広く世の中を見渡せば日常茶飯事なのだろう。
ある家では、狩りに出かけた父親が逆に食い殺された。ある家では、見た目がよく似ていて紛らわしい毒キノコを食べ、もう二度と出歩けなくなった母親がいた。ある家では、嫁いだ先の家で貶され蔑まれ、苦心の末に自殺した少女がいた。
そういう、色々な理不尽が、周囲にすらいくつもあった。全部、全くの関連性もない。言ってしまえば当人の不注意と、偶然による産物でしかないものであっても。
理不尽とは、そういうものなのだ。自分に心当たりがあってもなくても、脈絡すら欠片もなく襲い来る、取り返しのつかない崩壊。
そして、その理不尽を払拭するための手段が、何よりの理不尽となった。
珍しいものではないのだろう。ありふれて、これまでの歴史の中でいくつもあったことなのだろう。前時代的だと卑下されようとも、その時代遅れが精神の支柱となっている者には侮蔑は届かない。
ありふれて、どこにでもあって。珍しいものでもなくて、こうするしかない。
だが、もし仮に、それがありふれたものだとして。「だから仕方ない」と諦めてため息を吐くことが、正しいことだとは思いたくない。
だって、ずっと。正しく生きていこうと心がけて、生きてきたのに。
真面目に、正しく生きていこうとする精神を、覚悟を。さも、そんなものは間違っていると叩きつけるようにやってくる理不尽に対して、諦めてしまうことは、絶対に嫌だった。
諦めない。諦めたくない。生きることを。幸せになることを。たくさんの理不尽が舞い込んできても。
私は、幸せになることを、諦めたりなんてしない。
*
ゴリ、と自分の頭部から鈍い音がする経験は、一度もしたくなかった。
「いったぁ!」
「うわぁ!」
痛みと不気味な音で飛び起きた颯太の目に、数人の人間が自分たちの宿の一室に入り込んでいる光景が映った。
「なんだおまえら! いきなり部屋に、って……宿の従業員さんか」
彼らの見た目、服装を見て、一瞬気が抜けて素に戻る颯太。宿の部屋の一室にいてもおかしくない人たちではあるが、なぜこんな数人も入ってきているのか。
それに、いなければいけない二人がいない。
「――クイン! リア!」
颯太は部屋を見回し、名前を叫ぶ。宿の一室に乱れた様子はなく、おかしな点は記憶にある通りの割れた窓ガラスに、床に砕けたガラス瓶があるだけだ。意識を失う寸前に嗅いだ、不自然なまでの甘い匂いも今や霧散していてわからない。
颯太は他の人間がいることなど度外視して、風呂場に続く扉を勢い良く開ける。だが、そこにもいて欲しいと願った人の姿はない。
「やられた……くそっ!」
悪態を吐き、振り上げた拳を壁に叩きつける。当たり所が悪くて痛くなった小指の付け根も、突然のポルターガイストのような現象に怯える宿の従業員のこともどうでもいいぐらいに、頭の中に後悔が渦巻く。
尾行してきた者は一人じゃなかったのだ。どうして油断した。向こうが組織として動いている以上、たった一人の部外者を雇っただけで終わるなどという保証なんてどこにもなかったのに。
颯太だけが連れ去られなかった理由など明らかだ。見えもしない者も連れて行こうとする人間はいない。
守ると決めた少女二人は、もうここにいない。
……後悔するなら、走りながらでもできる。颯太は頭をもう一度壁に強く打ちつけ、意識を切り替えた。
こんな騒ぎを起こした宿に、今後も何食わぬ顔で泊まり続けられるわけがない。颯太は荷物からまとまった量の硬貨をテーブルの上に叩きつけ、自身への苛立ちをぶつけるように扉を蹴り開き、宿を飛び出した。
一人でこの広大な街の中を捜し歩く? そんなことは無理だ。不可能だ。できるわけがない。どこまで平均的な身体能力しか持たない颯太になど、できることの方が少ない。力を借りる宛もない。
借りる宛がないだけで、力がどこにあるかだけは知っているが。
「早速約束破るけど、仕方ないよな……穢れたゴーストに常識求める方が悪いってことで!」
特別な、強大な力などない。あるのは便利に扱える程度の魔法の技量と、見えない体だけだ。
後悔に顔を歪ませたまま、颯太はすっかり夜も更けた街の中を駆け出した。
*
「リア。起きて、リア」
優しい声色で、誰かが名前を呼んでくれていた。
耳元で囁くようなその響きはどこか懐かしく。
「……お母さん?」
「……ごめんね。お母さんじゃなくて」
過去を想起していた意識が一気に浮上する。リアの耳元で名前を囁いていた人物、クインは優しく微笑みながら、「おはよう」と声をかけた。
「クイン、さん? え、あの、ここは……」
「どうやら私たち、誘拐されちゃったみたいね」
自分の置かれた状況に混乱しながら辺りを見回すリアに比べ、クインの態度は穏やかだ。二人ともまとめて縄で縛られ、身動きが取れない状態だというのに。
二人が連れ去られた場所は薄暗く、部屋の広さも何が置かれているかもうまく判断できない。近くには積まれた木箱などが薄っすらと見えることから、もしかしたら何らかの倉庫として使われている一室なのかも、とだけしか予測できなかった。
窓もないから時間の経過もわからず、自分がどれだけ眠ってしまっていたのかすらわからなかったリアは、焦りながらクインを見る。
「ゆ、誘拐、ですか?」
「うん。私も目を覚ましたのはついさっきなんだけど……周りに見張りの者がいないってことは、よほどこの場所の秘匿性に自信があるのか、見張りを立てられるほど人数に余裕がないってことかしらね」
冷静に分析しているが、自分たちが置かれた状況は絶望的だ。どこに連れ去られたのかすらわからず、助けを呼ぶことすらできない。
「とりあえず。ソータがいるってことでパジャマや下着姿じゃなくてよかったね」
「……ごめんなさい。早速、巻き込んでしまって」
クインなりのプラス思考も、リアの浮かない顔を晴らすことはなかった。
「もう。ずっと言ってることだけど。私もソータだって、望んであなたの傍にいたのよ? 謝らなくたっていいってば」
不満げに口にするクインには、不気味なほどに怯えた感情が見えない。
「目を覚ましたか」
どこからか重厚な扉が開くような音がすると同時に、聞き覚えのない男の声が聞こえてくる。
「ええ。あなたが、私たちを攫った人、ってことでいいかしら?」
「……ああ、そうだ。なんだ、姉ちゃん、随分と落ち着いてるな」
「誘拐って、初めてじゃないから。まぁ、今までは全部未遂だったけど」
誘拐犯と何食わぬ顔で、体を少しも強張らせずに話すクイン。互いの腕が密着するほどきつく縛られているリアには、クインが本当に平常心そのままで誘拐犯と対峙しているのがわかり、驚きを隠せない。
「それで? あなたたちの目的は何? この子?」
「ああ。悪いがあんたは、言ってしまえばおまけみたいなもんだな。まぁ、あんたもあんたで、高く売れそうな気はするが」
男の目が、クインの肢体を値踏みするように細められる。見た目は上々で、しかも。
「そんなに長く伸ばした真っ黒な髪に、真っ黒な瞳をした人間なんて。物珍しさもあって、値段は跳ね上がるかもな」
「そうかしら。探せば意外とたくさんいるかもしれないわよ」
本気でそう思ってるのか、クインの言葉に白々しさは欠片も見えない。どこまでも態度を崩さないクインに対し、男は露骨に舌打ちしてみせた。
「それで? あなたは私たちをこれからどうするの?」
あまつさえ、会話の主導権を握ろうとするのだから気味が悪い。男は苛立たしげに、傍にあった木箱を蹴り飛ばして威圧する。
「さぁな。俺たちはこういう荒事を担当するだけで、手に入れてきた商品をどう扱うかなんて知らねぇんだよ」
複数を示す言葉を用いた証明のように、次々と別の男たちが姿を現す。目に見えるだけで、その数は十以上。息を呑むリアと、さすがに体を強張らすクインを見て、男が愉快げに笑う。
だがその笑顔も、すぐに歪むことになる。
「……そう。随分あくどい商売をする人たちもいたものね。嫌だわ。この街に出てから、楽しいことや綺麗なものはいっぱい見てきたけど、その分汚いものを見ると気分がげんなりしちゃう」
体の自由が利いていたら肩を竦めていました、と言わんばかりの、堂々としたため息。少しは精神的優位に立ったと思っていた男の神経を逆撫でするには、充分すぎるほどのおちょくり方だった。
「……姉ちゃん。ほんと良い度胸してるな」
露骨なまでに表情に怒りを表した男が、縛られ身動きが取れないクインに距離を詰め、顔を近づける。
「一応、商品を傷つけるなとは言われてるんだよ。だがな、おまえは今はまだ商品ですらない。あまりでかい口叩くのもそこらへんにしとけよ。そもそもそこの
化け物、と。男はリアを見てそう言った。
「姿を自由に変えられるってことは、傷つこうがなんだろうがなかったことにもできるんじゃねぇのか? それなら別にバレやしないからな。教育のためにも、ここで――」
「――訂正しなさい」
初めて、クインが怒りと侮蔑を視線に宿らせる。
「この子は、化け物ではないわ。命と健全な精神の宿る、見た目通りの女の子よ」
男は知りもしないだろう。目の前にいる少女の、縛られ、身動きが取れないはずの少女が放つ、威光のような迫力の正体を。
名を連ねることは許されなかったとしても、クインは王族の血と精神と誇りを継ぐ王女たる人間だということを。
クインの黒い瞳が、その絶対的な上位者の瞳が、男を捉えた。
「次にその言葉を放ったら、私はあなたを許さないわ」
「――っ、許さなかったらどうだって言うんだ!? ああ!?」
唾と共に恐れを飲み込み、男が吼える。この男にだって、この仕事をして生計を立ててきた意地とプライドがある。真っ当なものでもなく、間違ったものであろうとも、積み重ねた悪事と年月が男に怯えることを許さない。一歩踏み出し、更に威圧を込めてクインを睨みつけた。
「脅しじゃねぇんだぞ。てめぇの口から塞いだっていいんだからな?」
男の腕が伸び、無骨な手がクインの長く黒い髪を握り締める。
「まずはこの物珍しい髪だけ売り捌いたっていいな。ここまで長い黒髪なんて、それだけでも高値で売れそうだしな」
「……いいわよ。それよりも早く、さっきの言葉を訂正しなさい」
「――クインさんっ!」
耐え切れず、リアが叫ぶように声を上げる。
「もう、いいですから! 僕のことなんてどうでもいいんです! この人たちの言うとおり、僕なんて化け物で――」
「たとえあなた自身でも、その発言は許さないわ」
縛られ、自身の長い髪を男に握り締められ、それでも。
クインの黒い瞳は、リアをまっすぐと見つめていた。
「あなたは化け物なんかじゃない。たとえ父親が、姿すら判明されていない、幻のような存在でも。今ここにいるあなたは、リアというたった一人の女の子よ」
クインセル・フィン・リークテッドがその言葉を放つという意味は、リアにはわからない。
リアに向けた言葉であっても、その言葉は、自身に向けた紛れもない宣言だ。
「生まれなんて関係ない。生きていくためには、そんなものは必要ない。そんなものがなくたって、私たちは私たちよ。クインで、リアなんだから」
「てめぇ、さっきから何を――」
「訂正は、しないのね」
男の言葉を遮る、クインの黒い瞳。
たった一度。一度だけ、震える呼気と共に、一つの感情を吐き出す。
「ならもう。そんな汚い手で、ソータが褒めてくれたこの髪に触らないで」
初めて、自分の意思で誰かを傷つけるという恐怖を吐き出し。
「――命じる」
初めて、自分の意思で誰かを傷つけるという覚悟を吸い込んだ。
「その手を切り裂け」
クインのマナが髪を伝い、導く。
「っ、な!?」
マナの操作によって変じた黒く艶やかな髪は、細く鋭利な刃物の如き切れ味をもって、男の掌を深く切り裂く。
「――命じる」
続けて、クインの唇が命令を放つ。
「緩く、解けよ」
クインの命令こそが正しい自分の在り方だとでもいうように、二人を縛り付けていた縄が独りでに解ける。
「一つは、触れ続けること。そしてもう一つは、集中するための時間が必要なこと。この二つの条件を満たす時間を、あなたたちは私に与え過ぎよ」
触れてさえいれば、マナを通すことができる。自分の意を通すように、マナを通じて物体に命令を下し、導く。
「魔導士を、舐めないで」
クインの言葉を理解する素振りすらなく、十人以上の男がクインを取り押さえようと殺到する。その肉薄を、すでにこの空間を掌握した魔導士は許さない。
「――命じる。私たちを守って」
すでに道は通じているのだから、そこに向けて命令を下すだけでいい。端的に短い命令に、物体は恭しくクインに従ってみせる。木箱や割れたガラスの破片、倉庫にあったありとあらゆる物体が独りでに迫り出して男たちの行く手を阻む。
「――命じる」
自身を守った物体たちに、クインの右手が優しく触れる。
「死なない程度に、押し返して」
そのクインたちを守っていた雑多な物体の壁が、男たちに向けて動き出す。驚きの声を上げるよりも前に、男たちを宣言どおり死なない程度に優しく容赦なく、押し迫った。
「……やりすぎちゃったかしら」
頬に手を当て、困り顔で呟くクインと、目の前で起きた光景に唖然とするリア。
魔導の影響下から離れた倉庫内の様々な物体は、すでに元あった場所に、まるで最初からそこにずっと並べられていたとでも言わんばかりの正確さで自分から戻っていく。残されたのは、呻き声を上げて横たわる数十人の男たちだけ。
「すごい……」
「全然すごくなんかないわ。リアの方がとんでもないことしてるんだからね」
リアから見ればどんな離れ業でも、クインからしてみれば魔導は『できなければおかしい』という範疇だ。王族として疎まれながらも、目に見える繋がりとして心血を注いで会得した魔導。その行使に至っては息をするようにできなければならない。
「でも、これで――」
笑顔を浮かべたクインの膝が、突然力を失ったかのように崩れ、その場にへたり込む。
「ク、クインさん! 大丈夫ですか!?」
「ちょっと……力が抜けちゃった」
そう言って笑うクインの笑顔は、どこかぎこちない。さっきまでの堂々とした様子が嘘のように、笑顔の裏に隠れた本心が震える肩と足に表れる。
「はは……ソータがいないから頑張らないと、って思ったけど最後までもたなかったね」
「頑張らないと、って」
リアはようやく、ここに至って思い当たる。
外の世界を知らず、つい二週間前まで城の中で幽閉されるように暮らしていたと言っていたクインが、争いごとになど慣れているはずがない。今この場に、自分しかいないから。そんな理不尽に対して、ここにいれば誰よりも懸命に抗おうとする者の代わりに、威厳と誇りを持って立ち上がっていただけだ。
「……ありがとう、ございます」
そんなお礼だけで、足りるだろうか。見ず知らずの、得体も知れぬ自分に対して、ここまで懸命に抗おうとしてくれた人に対して。
「どういたしまして。あなたに怪我一つなくって、よかった」
そんなお礼の言葉一つだけで、こんなにも心からの笑顔を浮かべてくれる人に。
人の善意に慣れていないリアが、心から信用を置けなかったという事実を恥じるほどに高潔な人に。
「――っ!」
唸り声を上げて、突然立ち上がった男が飛びかかってくる。
その凶行を見たリアが取る行動など、一つだけだ。
「クインさん!」
この身は、いくら傷つこうがどうとでもなる。化け物という呼び名が自分にすら許されなくても、化け物に足る存在である自分を楯にしてでも守ろうと――
「何しようとしてやがるんだオラァ!!」
――する前に、もう一人の善意の塊のような人が、足を振り上げて割って入ってきた。
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