5話

 颯太にとって幸せとは、『まだ遠い先にあるもの』という認識だった。

 裕福とまではいかないが、決して貧しくはない一般的な家庭に産まれ、健全な両親と年の離れた姉を家族に持つ颯太のこれまでは、充分に傍から見れば幸せと称するに値するものだったが、颯太自身、自分が幸せだったという認識はない。

 幸せとは、その渦中にある限り自覚はできないものだからだ。単身で異世界へと放り出されたからこそ、これまでの颯太の人生が「特筆してずば抜けてたわけではないけど、それなりに幸せだったな」と振り返れるように、耳に馴染んだ言い回しの如く、失ってから気づくのだ。

 颯太が何気なく抱いていた未来への展望。良い仕事に就いて、結婚して、子どもができて。そんなありきたりな想像が、颯太が思い描いていた幸せだった。

 これからの颯太に、そんな幸せはありえない。誰からも視認されなくなった颯太に、そんな人並みの幸せなど起こり得ないと、颯太自身が誰よりも痛感している。


「幸せねぇ……」


 人通りの多い市場の中でも平然な顔で人波を縫うように歩けるようになった颯太は、思案顔でそう呟いた。そんな呟きには誰一人として反応する者はなく、たった二人の颯太の理解者は、颯太を置いて市場に広がる様々な物品を眺めながら先を進んでいた。

 三人は、まだ日が真上に差し掛かる前の午前、街に連れ立って繰り出していた。目的はリアの日用品の買い物が主だが、実際はまだ街を見たことがないリアに対し、まだ二週間と一日しか経験のないクインがお姉さん風を吹かせて案内したがっていただけという、なんとも微笑ましい理由だった。

 先を歩いていくクインの表情は、最初に市場にやって来た頃と負けず劣らず華やかだ。共にするリアの表情は見たこともない光景や人の多さに圧倒されているのか、若干怯えた感情が見え隠れしているが、瞳の中には好奇心の光が煌いていて、楽しめていないわけではないようだ。


「二人とも、俺のこと忘れてるわけじゃないよな……まぁ、楽しいならそれでいいけどさ」


 悲しいほどに身の程を弁えている颯太は、二人の会話に入ろうとすることすら考えていない。ため息を吐きながらも表情は笑顔で、颯太は二人の後をついて行く。

 リアが語った曖昧な望み。幸せになりたいという漠然とした願いを叶えるにはどうすればいいか。願いを胸に抱えるリアよりも、颯太の方が思い悩んでいた。

 何をもって幸せとするか。その指標を、平凡な男子高校生だった颯太は持ち合わせていない。持っているとしても、それは現代日本で培われた感性であり、颯太には想像することしかできない環境下で生きてきたリアの感性と合致するとは思えない。

 安請け合いをしたな、などとは微塵も思っていないが、先が不明瞭なのは変わらない。今日の夜にでもある程度の方針は決めておきたいな、と思いながら平然と人波を避け、先を行く二人に近づいていく。

 近づいてきた颯太に目線だけ向け、クインがリアに向けて口を開く。


「リアの服を買いに行きましょう。いつまでもそんな服じゃ、目立ってしまうもの」


 と、真っ黒なローブを頭まで被ったクインが言うと説得力というものが見当たらないが、実際にリアの服装はお世辞にも状態の良いものとは言えなかった。


「でも、僕の場合は服も自分で用意できますし……」


 初めて聞いた時は颯太もクインも驚いたが、幻獣の子どもであるリアは自身の肉体を変化させる際、体だけではなくその生き物が身に着けているであろう衣服なども再現ができるらしい。颯太の驚きは「なんて経済的なんだ」という目線だったが、クインにとってはマナの緻密な操作による驚きの技法だ、というものだった。

 二週間前のあの夜。颯太の刺し傷に触れ、流れる血液を凝固させた時のように。魔導はあくまで物体や生命に宿るマナを、その物体や生命が可能な範囲での再現しかできない。

 幻獣という生命に宿ったマナは、永い時間の間集積された、様々な生命の情報そのものだ。その情報を再現できるという離れ業は、魔導士として研鑽してきたクインからすれば青天の霹靂ともいえる衝撃だった。


「必要のないものにお金をかけるのも、申し訳ないです」

「そうかもしれないけど、いつまでもその格好のままってわけにもいかないでしょ?」

「服屋で商品に触れて、それを再現すればいいんじゃ……」


 と、提案をした颯太を口に出して言葉にはしないが、クインの視線が若干の非難を含んで睨む。そんな経済を回さない方法は選べないと、元とはいえ国の王女らしい正当性は捨て切れていないらしい。


「いいの。私が選んであげたいの。私も最近知ったのだけど、誰かが自分のために何かを選んでくれるって、とっても嬉しいことなのよ」


 自身が着たローブの端を摘んで笑うクイン。そのローブを選んで買ってきたのは誰なのか、顔を逸らして頭を掻く颯太の姿を見て、リアは自ずとわかって笑う。


「……それじゃ、お願いします」


 はにかみながらそうお願いしてくるリアを見て、クインもニッコリと笑って頷いた。そうして二人は仲良く手を繋ぎ、街の服屋へと足を向ける。


「……本当はもっと良いものを買ってあげたかったんだけどな」


 未だにクインの装いは、彼女の長い黒髪が目立たないためのフード付きの黒いローブだ。似合っていないわけではないが、城で着ていた真っ白なドレスのクインの姿が、まだ颯太の脳裏に焼きついて離れていない。


「頑張らないとなぁ……」


 クインが自身の見た目をまったく気にすることなく生きられるように。リアが目指す幸せへと辿り着けるように。それが、今の颯太の生きる意味であり。理不尽に連れて来られた異世界での目標だ。

 ため息を吐きながら、颯太は頭を掻いて衣服を取り扱う商店へと入って行った二人を見送り。

 その二人の後をずっとつけるように張り付いていた、一人の男の腕を掴んだ。


「なっ!?」


 どこにでもいそうな、街中でいくらでも見かけるような風貌の男は、突然何者かに腕を掴まれて驚きの声を上げる。非力な颯太の腕力でも、不意を突くことで容易に体勢を崩され、そのまま路地の奥へと引っ張ることができた。


「な、なんだ!?」

「はいはい、いいからこっち来て」


 聞こえていないのがわかっていながらもそう口にして、ズルズルと勢い良く男を引きずる颯太。そのまま人気のない路地へと連れて行き、腕を放す。解放された男はすぐさま逃げようとはせず、自分をここまで引きずってきた相手を慌しく顔を動かして探していた。


「……連れてきたのはいいけど、どうしたものかな」


 クインに対してなのか、リアに対してなのか。どちらにせよ、颯太の先を歩く二人に付きまとっていた男の存在に気づいたのは颯太の洞察力が優れていたとかそういうものでは決してなく、純然たる偶然だった。


「ちょこちょこ視界に入るんだもんな。まぁ、俺だって尾行してたようなもんだし」


 堂々と後ろを歩くか、忍ぶように後ろを歩くかだけの違いだ。同じ相手を見ながら歩いていれば、自然と視界に入る機会も多くなる。

 いらない心労を増やしたくないから、二人が屋内に入ったタイミングを見計らってはみたが、連れてきた後のことはあまり考えていなかった。

 姿も見えない。声も聞こえない。このままではただ連れ込んだだけでお終いだ。


「あんまり無駄遣いしたくないけど、仕方ないか」


 一日経ったことにより体内に戻り始めたマナ。その残量が、一日経っただけにしてはことを不思議に思いつつ、


「――声よ、届け」


 目に見えぬ存在である颯太が唯一、無理矢理にでも交流を図れる方法を取る。


『……俺の声が聞こえるか』


 魔法を行使するために意識するせいか、普段よりも幾分か低くなる声。颯太の喉から発せられたマナは音へと変質し、いまだ周囲を窺う男の耳朶に直接響き渡る。


「ひっ、だ、誰だ!」

『聞こえてるならいい。俺の質問にだけ答えてくれ――何が狙いだ』


 一番嫌な答えが、王城の関係者であることだ。秘匿され、無かったことにされた忌まれたクインの存在を、王城から離れた今となっても良しとしない派閥がいないとも限らない。むしろ正当な跡取りである王子が産まれ、盛大なパレードが催されて国内全土に知らされた今となっては、より一層クインという不穏分子の存在を疎ましく思う者がいてもおかしくないのだ。

 どうせ旅に出てこの国を出て行くんだから放っておけよ、と颯太は思ってしまうが、向こうの都合など知ったことではないように、向こうだってこっちの都合など知ったことではないだろう。まだ旅の準備が整ってすらいない現状、国内で幅が利く王国関係者とのいざこざはごめん被りたい。


『クインか? それともリアか?』

「な、なんなんだおまえは! なんでおまえにそんなこと話さないといけねぇんだ!」

「尾行してたのは認めるのかよ……」


 意外と簡単に白状した男に、思わず魔法を使わず呟いてしまう。突然不可視の存在に言い寄られて正常な思考ができていないのか、男はひどく狼狽した様子を露にしている。

 ならば、その恐怖を利用させてもらう。


『……俺は、ゴーストだ』


 明確な名称を用いての自己紹介に、男は狼狽から一転、恐怖を表情に張り付かせる。


「ゴ、ゴースト!?」


 異世界に来た当初は、意味も訳もわからずに怯えられることに、理不尽さと悲しさを感じていた。けれど今は違う。

 この世界のゴーストへの凝り固められて根付いた恐怖はそっくりそのまま、颯太の武器となる。

 たった一人だけで生きてきた時とは違う。守るべきものも、目標もある。どこの誰とも知れない有象無象に怖がられて傷つくような精神は、もうどこにだって残っていない。


『知っていることは全部話せ。でないと』


 短くマナに呼びかけ、男の耳元で小さく風を破裂させる。小さな破裂音でも、相手を驚かせ心意的に優位に持っていくには充分だ。


『――おまえを呪う』


 明確な敵意の言葉。それだけで呪詛となりえるほどの強さとなって、颯太は問い詰める。


「ひっ」

『何が目的だ。クインか、それともリアか?』

「な、名前は知らねぇ! 本当だ! ただ、俺はあの亜人の寝床を調べろって言われただけだ!」

『……誰からだ』

「そ、それも知らねぇんだ! 俺たちのような奴が受ける仕事には、依頼主が明かされてない仕事なんていくらでもある! 俺が知らされたのはあの亜人の特徴だけで、その後あの娘をどうするかなんて、俺には関わりのないことなんだ!」


 予想外、と言えば予想外の展開に、颯太は口元に手を当てて考え込む。

 誰がいったいどんな目的でリアの存在を気にかける? リアはたまたま奴隷市場の檻の中に魔物の姿で転がり込んできただけで、誰とも関わっていないのではないのか?

 リアは、隠していることがあると言った。全てを明かす必要などないと言ったのはこちらなのだから、それを責めるつもりなど欠片もない。でももし、何者かに追われるような事態になってしまっているのならば、遠慮なんてしないで話をしてもらいたかった。

 一度約束をしたならば、それを違えるつもりなど颯太にはないのだから。


『おまえが何も知らないのはわかった。だから、その件からは手を引け。でないと』


 男の眼前で、風と化したマナが炸裂する。


『呪う程度じゃ、済まないかもな』


 そもそも呪うことすらできないくせに、大言壮語を並べて脅してみる。その効果は、怯えて逃げ出す男の後姿でよくわかった。


「……あー、やっぱこの魔法、すごく疲れるな」


 マナを声に変換して相手に届ける、おそらくこの世界で颯太以外使わないであろう魔法。この魔法のおかげで、クインやリアといった自分を視認してくれる存在以外とも交流を図ることはできるが、まず確実に恐れられる。

 使いどころが難しい魔法だが、利便性は随一だ。その分、行使時の集中の大変さや、マナの消費量も割高だが。

 さて、これからどうするかと思案しながら、颯太は男を引きずってきた道を戻る。街道の隅に留められた馬車の上へと何食わぬ顔で平然とよじ登り、周囲を見渡して他に追跡者がいないか確かめてみるも、颯太の素人な観察眼では見つけられないか、そもそもいないのか、判別ができなかった。


「……ソータさん、何やってるんですか」

「早く慣れた方がいいわ。ソータ、あれで意外と平気な顔してとんでもないことしでかしたりするから」


 クインとリアが馬車の上に堂々と立つ颯太の姿を見て、片方は困惑に、片方は呆れたように口にしていた。


「……僕たち以外から見えないって、本当なんですね。いえ、信じてなかったわけではないんですけど」


 リアの視界にはしっかりと映っている、馬車の上で堂々と立つ颯太の姿。こんなにもハッキリと見えているのに、周囲の人間は誰一人として視線を向けることはない。その光景の異様さを、リアは今更ながら理解する。

 早速買い物してきた衣服を身にまとったリアは、見た目はすっかりと奴隷らしさが失われ、年相応の愛らしさを振りまいていた。清潔そうな白いワンピースには、水色の刺繍が綺麗に施されている。見るだけで決して安価な代物ではないことが、ファッションに疎い颯太にもわかるぐらいだ。


「クインさん、やっぱり、僕にこんな高い服は……」


 ワンピースの裾を掴み、リアが申し訳なさそうに口にするも、クインは迫力すら感じる真顔で首を振る。


「いいの。せっかく可愛くてちゃんと似合う服があったのだもの。むしろもっと買っても良かったのに。リアったらすごく可愛いから、着せ甲斐があるし」

「ですから! 僕にそんな無駄なお金は使ってもらわなくてもいいですって……!」

「私、子どもの頃は城でお人形の着せ替えが趣味だったのよね」

「なんで今そんな事実を明かしたんですか!?」


 ……なんだか俺を置いて、二人とも仲良し度増してない? と思いつつも、顔には出さないよう努める颯太。


「それで、ソータ」


 街道の隅に寄り、クインとリアが颯太を挟むような形で立つ。これならばたとえ颯太の姿が周りに見えていなくても、クインとリアの二人が話し合っているようにしか見えない。


「私たちを追いかけてきた人、どうだったの?」

「……気づいてたの?」

「うん。なんだか颯太、キョロキョロして不自然だったし、お店の中にも入ってこなかったもの。何かあったんだろうなー、ってのはわかってたわ。ソータにもリアの服を選んで欲しかったのに」


 最後だけ不満げに口にするクイン。気づかれない内に処理できれば、二人にいらない心労を与えないだろうと思っていたのに、これでは徒労に終わってしまっていた。


「ソータが私たちを気にかけてくれるように、私だってあなたを気にかけてるもの。寂しそうになんてしないでね」


 と、一々思春期の青少年の心の琴線を掻き乱すような言葉を真顔で言う。


「それで、どうしたの?」

「あ、ああ。うん。一応理由聞き出して、近づかないよう釘は刺しておいたよ。それで、尾行してた理由だけど……」


 言葉尻を濁し、颯太は頭を掻いてリアを見る。

 責めるつもりは決して無いけど、問いただすような口調になってしまうのは、避けられない。


「リア。君は、自分が尾行される理由に心当たりはあるか?」


 リアの目を真っ直ぐ見つめ、問いかける。


「……はい」


 その颯太の視線から目を逸らすことなく、リアは頷いた。


「その理由を話さなかったのは、俺たちのことを信用できないからか? それとも、俺たちに危害が及ぶと思ったから?」


 二択を迫る質問に、リアはちょっとだけ答えあぐねるように俯いて、


「……すみません。どっちも、です」


 それでも答える時はしっかりと颯太の目を見ていた。


「……うん。素直で大変よろしい」


 などと偉ぶって言い、颯太はリアの頭にポンと掌を置いた。


「そんな申し訳なさそうにしなくたっていい。昨日会ったばかりの得体の知れない二人組を、心から信用できなくたって当たり前だ。たとえ、命を救われたって恩義があってもな。こっちだってまるっと全部心を預けてもらってるなんて思っちゃいないさ」


 恩があるとはいえ、そんなものは颯太からすればだったのだから、恩着せがましくすることなんてできやしないし、するつもりもない。口にせずとも颯太と同意のクインも、優しく笑顔で頷いてみせた。

 その二人を直視できず、リアは唇を噛んで俯く。


「むしろ俺たちの身を案じてくれたっていう、そのことの方がずっと嬉しいよ。ありがとうな」


 リアの小さな頭に乗せられた颯太の手が、優しく彼女の髪を撫でる。

 それはリアにとって、久しく感じたのことのない、懐かしい感触だった。


「でもな。君が何かしら面倒ごとを抱えてるのなんてこっちは百も承知で、わかってて手を貸したがったんだ。それで危険が及ぼうがなんだろうか、リアが責任を感じることじゃない」

「でも……」


 顔を上げず、それでもと言い淀むリアの目線まで腰を下げ、クインが颯太の言葉を継ぐ。


「でもじゃありません。子どもがそんなこと気にしちゃダメなんだから」

「……そういうクインだって、言うほど大人って年でもないでしょ」

「そんなのお互い様じゃない。ソータが周りに姿が見えてたら、全員が全員私の方が年上に見えるって言うわよ。きっと」

「定期的に人の気にしてるとこ平気な顔して突いてくるよね。やめてね。童顔と低身長のこと気にしてるんで」

「あら。私、颯太の顔、可愛くて好きよ?」

「気にしてるって言ってるでしょ!? 馬鹿にされてるわけじゃないのわかるけど、その言われ方は別の意味で心臓に悪いから!」

「……ふふっ、はははっ」


 空気を読んでいるのだか読んでいないのだか。二人の気の抜けた掛け合いに、リアが耐え切れず笑い出す。

 その笑顔を見て、颯太もクインも口角を上げて優しく笑う。

 やっぱり彼女は年相応に、朗らかに笑っている方がずっと似合っていた。


「……わかりました。お話しします」


 笑い過ぎたのか、それとも、別の何かによるものか。少しだけ涙に目を潤ませたリアが顔を上げる。


「僕が、どうしてこの街に来たのか。どうして……奴隷市場に逃げ込んだのかを」

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