Epilogue

エピローグ

〈時刻1209時。アメリカ、ニューヨーク〉


 夏の強い日差しが肌に突き刺さる。行き交う人々はサングラスや帽子で日差しを避けていた。


「今日も暑いな、全く……」


 アメリカのゴシップ雑誌アトランティック・サマー誌で編集長を務めるマイケル・レイズナーは昼食を食べるためにお気に入りの飲食店へ向かっていた。この暑い中、腕を組んで歩く男女のカップルを横切り、青になった横断歩道を渡る。


「結構混んでいるな。ハンバーガーにするか」


 お気に入りの店には人があふれており、待ち時間も長そうだ。マイケルは代わりに近くのハンバーガー店〈サンシャイン・バーガー〉へ入った。

 彼は今、毎日が楽しくてたまらなかった。もしかしたら世界にとどろく特ダネかもしれない。とにかく驚くべき発見を見つけ、そのネタの裏付けと更なる情報集めに日々尽くしていた。今日は日曜日で本来は休日なのだが、それさえも返上していた。このネタを見つけたのは偶然だ。

 彼は趣味でクラシック音楽を聴くのが好きだった。音楽に関してはプロでも何でもなかったが、彼は絶対音感を持ち記憶力が非常によく、印象的な演奏ははっきりと覚えていた。そして、彼をきつけて止まないのが、オペラ歌手〝アイリーン佐藤〟である。まさに完璧としか言いようがない歌声の持ち主だが、彼女のじょうには不明な点が多い。プライデートと仕事を分けるタイプの人間と言ってしまえばそれまでだ。実際、マイケルも気にしていなかった。

 しかし、アイリーン佐藤の声を聴いた時の感動と同じような感動をマイケルは以前にも感じたことがあった。それは二十五年前にラトビアで開催されたクラシック・コンサートである。〝ザイツ・フェル・アバナシー〟が演奏したピアノ曲、リスト〈ちょうぜつこう練習曲〉より第4番「マゼッパ」ニ短調。若かりし頃のマイケルはこれを聴いて、クラシック音楽に興味をいだくようになったのだ。


「お客様、一名でしょうか?」

「ああ」

「奥の席へどうぞ」


 マイケルがれ込んだザイツ・フェル・アバナシーはピアノだけでなく、ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラといった楽器での演奏も世界最高峰であり、〈孤高の音楽家〉の異名を持つ。これほど素晴らしい技量を持ちながら、彼女の存在は忘れ去られたかのように世間ではほとんど認知されていない。音楽史にも彼女の名前が残っておらず、観客は一種の集団催眠にかかり、意図的に記憶の忘却を誘発されたのではないかと思われた。

 人々が忘れてしまった人物が他にもいると考えたマイケルはスポーツ、ダンス、レース、武道、あらゆる分野へ調査の範囲を広げていき、同じように神がかった才能の持ち主を探していった。そして、彼独自の基準で人物を選抜し、その人物らのじょうについて調べていった。

 その結果、面白い事に歴史に名を残さなかった者達が次々と出てきた。事故あるいは病死、行方不明といった具合で長生きした者はいない。この世から皆、途中リタイアしている。出自や経歴についても偽装と疑われる部分が出てきた。ますます謎が深まり、同時に核心へと迫っているとマイケルは実感していた。


《忘れ去られた天才達(抜粋)》

〈孤高の音楽家〉ザイツ・フェル・アバナシー(ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ)

〈無敗の武闘家〉とうどうしゅんすけ(空手、柔道、合気道)

〈戦場の名医〉おんセレッサ(国境なき医師、難民医療支援活動、動物保護活動)

だいの魔術師〉ヴェネット・スウェン(マジシャン、ギャンブラー)

〈盤上の女神〉クロエ・オーウェル(将棋、囲碁、オセロ、チェス)

〈魔弾の射手〉たちばなゆう(クレー射撃、ライフル射撃、アーチェリー)


「君、注文をいいかな?」

「はい。うかがいます」

「サンシャイン・スペシャルを一つ、あと水を」

「ご注文を繰り返します。サンシャイン・スペシャルが一点、ミネラルウォーターでお間違いないでしょうか?」

「それで」

 マイケルは上着の左胸ポケットから手帳を取り出し、書かれた内容を確認する。この手帳は彼が自分の頭の中をまとめたものだ。マイケルは一つの大きな推測を立てていた。歴史に現れる飛び抜けた才能の持ち主は《》だと。馬鹿げているかもしれないが、不老不死の存在ではとも考えていた。現代まで生き続けている魔女伝説とでもいうべきか。


「水です」

「ありがとう」


 店員が持ってきたグラスには冷やされた水が入っている。汗をかき、暑さでのどかわいていたマイケルはさっそくグラスを持ち、水を口にした……



〈イギリス(某所)〉

 秘密情報局軍事情報統括部危機管理室〝ゼニス(ZENITH)〟はイギリスの誇る情報機関である。この組織はとくせいが高いだけでなく、独立性も高い。並外れて優秀かつ愛国心を持つ者のみが配属され、歴史上、闇にほうむられてきた任務を数多くこなしてきた。

「レイジー・メホラは実に残念だった」

 椅子に座っている高齢の女性は部屋に入って来た男性へそう告げた。

「ええ。ですが仕方がありません。結果としてみれば彼女の死は無駄ではありませんでした」

「Q3計画の阻止はし遂げられた。おそらくシェイド(Shade)によって」

「承知しております」

 レイジー・メホラはヒューザ社へ潜入していたゼニスのエージェントであった。彼女は表向きヒューザ社の忠実な社員としてロシアのQ3計画について探りを入れていたのだが、国家機密の漏えいに対処すべく派遣されたスミルノフによって、スウェーデンで暗殺された。真相を知らないゼニス内部ではブラックレインボーの手で殺害されたことになっている。

「シェイドは敵に回すべき相手ではない。それを理解しようとしないおろか者がいて困る」

「確かに。シェイドはマンハッタンでヒューザ社の警備部門幹部五人を暗殺するというを難なく遂行しました。世の中知らない方が良い真実というものはあるんですね」

「知るということが必ずしも正解というわけではない。でも私達は真実を知る必要がある」

「知り過ぎは毒ですよ。はごめんです。ヨルダンではSBS(Special Boat Service:特殊舟艇部隊)もお世話になったとか」

「その点は心配要らない。別件だ」

 そう言って彼女は新たな任務の詳細が入ったファイルを男へ渡した。

「イズニティへ向かいなさい。ここのところ軍部がASSと繋がりを強めている。組織としてはそれをこのまま見過ごすわけにはいかない」

「分かりました」

 ゼニスは国内や同盟国アメリカの防衛産業でアリュエット・グループが影響力を持ち始めていることに強い危機感をいだいていた。犯罪組織ブラックレインボーと世界企業連盟の黒い繋がりを暴くこと、それがゼニスの最優先課題である。




〝己の力を信じるんだ。信じられないのなら信じられる自分になれ。私がその助けとなろう〟


 ‐部下に対し、前スミルノフ隊長 故〈エカチェリーナ・フレンシア・セノーヴァナ〉




〝全てを極め、闇の住人からされる。不可能を可能にし、何者にも征服されない。それがシェイドなのだ〟


 ‐秘書に対し、ヒューザ・グループ 最高幹部シークレット・セブン〈ニコラウス・アルケスター〉


  

 2025年

〈時刻1850時。ポーランド、ワルシャワ(某ホテル)〉

 東欧の国、ポーランド共和国。首都ワルシャワの名は1955年に締結されたソ連と東欧諸国の軍事同盟〝ワルシャワ条約機構〟で知っている人も多いだろう。作曲家フレデリック・フランソワ・ショパンとも縁が深く、五年に一度、ショパン国際ピアノコンクールが開催されている。


『こちらジラント、標的を視認した。こちらはいつでも準備よし』

「ジラント、こちらカサートカ。合図をしたら行動を開始」

『ラジャー、ボス』


 駐車中の車内でアーニャに指示を出すスミルノフ隊長のマリナ。運転席にはヴァレンティーナがおり、カーナビのように表示されている四つの画面を見ていた。一つはアーニャが身に付けているメガネ型映像送受信装置(スマートグラス)からの視覚情報、残り三つはハッキングされた監視カメラの映像だ。

 アーニャは左手に暗殺用小型隠し銃Z‐1を忍ばせている。Z‐1専用弾頭は生分解性であり、スミルノフ愛用の毒薬ポロキックス5が内蔵されている。装弾数は一発。

 ホテルの中にいるアーニャが捉えた標的、それはヒューザ社のニコラウス・アルケスターであった。彼は秘書兼護衛を一人だけ付け、ここワルシャワに来ていた。シークレット・セブンの中でも年長で、物事を見通す能力、危機対応能力はシークレット・セブン一である。

 ロシアから見ればヒューザ社はQ3計画を盗み出そうとした盗人で、Q3計画を知る部外者が存在してはならない。シークレット・セブンの暗殺はロシアちょうほう機関の使命である。そのため、GRU、SVRによるシークレット・セブン暗殺任務がいくも行われたのだが、その全てが未達に終わっている。

 ホテルの大部屋では社交パーティーが行われており、著名人や財界の人間が集まっていた。

 机には多国籍料理が並び、ウェイターが食事やワインを運んでいる。


「ジラント、カウントする。備えて。ヴァレンティーナ、やってちょうだい」

「了解。3、2、1、消灯」


 ホテル内の照明が突然消え、どよめくパーティー客達。ただし外は暗くないため、暗闇ではなく、そこまで困ることはない。そう、この消灯は視界を奪うことが目的ではなかった。客の一瞬の混乱や驚きを誘うものだ。一瞬の動揺。それは人間として当たり前の反射反応だ。アルケスターも、彼の護衛も例外ではない。

 アーニャは驚いて出口を目指そうとする客を演じつつ、アルケスターへZ‐1を向ける。


(その命、もらった)


 アルケスターの暗殺成功を確信したアーニャ。

 装弾数は一発。

 一発で十分だ。


(なっ!)


 しかし、ここで想定外の問題が起こる。

 何者かがアーニャにぶつかってきた。

 そのせいでアーニャは身体を崩し、暗殺の機会を失ったのだ。

 完璧なタイミング。

 これを偶然というのは無理がある。


『お客様にご連絡します。電源が回復しましたのでご安心ください』


 ホテル内の照明は元通りとなり、再びパーティー客が動き出す。

「ごめんさない。お怪我はありませんか?」

 ぶつかってきたのは脚部の大きなスリットが特徴の濡羽色ドレスを着ている女性。

 間違いない、シェイドだ。

「……偶然というわけではなさそうね」

 アーニャの目つきが少し鋭くなる。隠そうとしてもシェイドへの警戒心は隠せない。とてつもない相手が目の前にいるのだ。シェイドがシークレット・セブン暗殺を妨害しているとなれば納得だ。暗殺なぞ成功するはずがない。

「何の事でしょう?」

 相手から殺意も警戒心も感じられない。隙がないというよりかはその逆。彼女は隙だらけだ。へんげんざいの存在感。アーニャはシェイドの恐ろしさを改めて実感した。

「誰かと間違えていませんか? それでは」

 シェイドはそれ以上言わず、パーティー会場を一人で出て行った。


『ジラント、貴方あなたはそのままアルケスターをマーク。私達が奴を追う』

 マリナとヴァレンティーナはすぐに車外へ出て、シェイドの行方を追う。

「まだホテルを出ていないはず。二手に」

 マリナがしていることは明確な命令違反である。今の優先事項はアルケスターの暗殺であり、シェイドを追うことではない。下手をすれば、いや十中八九、アルケスターの護衛は主人をパーティー会場から連れ出すだろう。それを理解した上での行動だ。


(あの女をここで逃がしてはならない!)


 本能が伝えるのだ。それは未知なる恐怖を超え、兵士としての使命感へ変わっていた。

 スミルノフとしての誇りもある。

 招待客のフリをしてホテルへ入ったマリナとヴァレンティーナはシェイドの姿を探す。


(あの後ろ姿)


 マリナは屋上へ続く階段にシェイドの後ろ姿を見た。

 戦場で無防備な後ろ姿を敵に見せるのはありえない。

 これは誘っている。

 そして罠かもしれない。

 罠ではないかもしれない。

 頭の中で光のごとく様々な可能性が駆け巡る。

 浮かぶ可能性の全てはゼロではない。

 ゼロでないのが問題だ。

 未知なる可能性が人間に恐怖を芽生えさせるのだ。

 だが、シェイドは無限の可能性を渡り歩き、生きてきた。

 伝説の賞金稼ぎと言われる由縁だろう。

 引き返すなら今だ。


(鍵が開いている……)


 屋上の扉に手をかけるマリナ。

 扉を引き、屋上へ出た。


 屋上には後ろ姿のシェイド。

 周囲の柵には羽を休めているのか多くのカラスが止まっていた。

 今、ここで銃を撃てば当たるかもしれない。

 その考えが浮かぶのは至って普通だ。

 しかし、マリナは隠している銃を引き抜かず、シェイドの方へ歩み寄る。

「ついてきたのね」

「任務を妨害されて黙っているわけにはいかない。こちらにもプライドがある」

 シェイドは振り返り、マリナを見る。

「私をどうする気?」

「私達に同行してもらう」

「残念ながらそれは無理。後の予定が入っている」

「私は貴方あなたを逃がさない」

 手を構え、格闘体勢へ移行するマリナ。

 それを見ても動じる様子はないシェイド。

 素早いマリナのこぶしが次々と繰り出されるが、シェイドは全てを完全に見切り、淡々と避けていく。蹴りもだ。面白いくらいに攻撃が当たらない。まるで思考を読まれているように感じられる。

「悪いけど、これで失礼するわ」

 シェイドがマリナの右こぶしを受け流すと同時にマリナのふところへ。そして右手による手刀を彼女の首筋へ入れた。おそらくマリナは何が起こったか分かっていないだろう。たった一撃でマリナはあっけなく気絶してしまった。

「じゃあね。若きロシアの英雄さん」

 その言葉を待っていたかのように屋上のカラス達が一斉に羽ばたく。シェイドの周りを包み、渦のようにカラスは飛び回る。全てのカラスが空につ頃にはシェイドの姿は跡形も無く消え去っていた。

 抜け落ちた黒い羽が数本、マリナの近くへ枯れ葉のようにゆっくりと落ちていく。


「マリナ、大丈夫!?」

 屋上に来たヴァレンティーナは倒れているマリナを見るやいなや、すぐにそばへ駆け付けた。

「気絶しているだけか……良かった」

「うぅ……ヴァレンティーナ」

「無理に動かないで」

「大丈夫よ。シェイドは去った」

貴方あなたの命あるだけで十分。アルケスターにも逃げられたけど。アーニャが車で待っている。肩を貸そうか?」

「大丈夫。一人で立てる」

 自分の近くに落ちていた黒い羽に気が付き、マリナはそれを一本拾った。

「完敗。でも次がある。次がね」

 マリナは手からカラスの羽を放し、ヴァレンティーナとともに屋上をあとにした。



 2026年

〈ロシア、某所(スミルノフ秘密基地)〉

 椅子に座りパソコンへ向き合うマリナ。

 彼女はGRU総局長の命令で〝ブラックリスト〟情報の更新を行っていた。

 シェイドの人物分類を〝最重要人物〟から〝きん〟へ移す作業だ。

 本音を言えばこの作業は気が進まない。

 〝きん〟指定になればスミルノフもシェイドへ手は出せないことになる。

 そもそも、ブラックリスト登録者なのに事実上の手出し無用扱いとはぜんだいもんだ。

 しかし総局長命令だ。仕方がない。


《GRU データベース》


 〈IDを入力〉

 〈・・・・・・・・・・〉

 〈一次パスワードを入力〉

 〈・・・・・・・・・・・・・・〉


 〈アクセス承認〉


《人物》

 〈フィルタ選択〉

 ↓《ブラックリスト》

 ↓《最重要人物》

 ↓《シェイド》


 〈二次パスワードを入力〉

 〈・・・・・・・・・・・・〉


〈情報編集:シェイド〉


 ↓《ブラックリスト》

 ↓《きん

 ↓《シェイド》


《シェイド》

 分類:きん(接近及び調査の一切禁止)

 本名:不明

 性別:女性(東洋アジア系)

 年齢:不明

 身長:165~168cm

 出身国:不明

 職業:賞金稼ぎ

 所属:フリーランス

 学歴:不明

 職歴:不明

 備考:国内において五日間にわたる追跡及び戦闘でもシェイドを暗殺することはかなわず。


「この顔、絶対に忘れないわ」

 マリナは情報を更新するとパソコンをシャットダウンし、椅子から立ち上がった。




〝人は面白い生き物です。理性的であろうとすればするほど、そこに感情的な思考が宿ります。自らの矛盾に苦しみ、進化していくのです〟


 ‐ボスに対し、ブラックレインボー プロジェクト・シャドウ研究主任〈アレックス・アンバー〉




〝誰しにも戦わねばならない時がある。その時、自分を小さな存在と悲観しないことだ。自分に潰されては話にならない〟


 ‐新兵に対し、マジェスティック・イージス社 ルシファー分遣隊〈ディラクス・グェン・メフィアン〉

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濡羽色の魔女 イズニティ紛争 夕凪あすか @Yunagi_Asuka

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