第7章 厚顔無恥

 一週間が過ぎた。


 その間に、月夜は一日のルーティーンに慣れ、火花も自分の作業を進めた。大抵の場合、月夜は日中は家で過ごし、夜の十時頃になると家を出て、火花の待つ遊園地へと電車で向かった。高校生が補導されるのは午後十一時からだから、この時間に出ればぎりぎり間に合う。もっとも、今までの経験から、自分と関わりを持とうとする大人がいないことを、月夜は理解していた。


 園内の全景については、月夜はすでにほとんどすべて覚えていた。毎日通っていれば当然だが、道や建物の場所を覚えるのは、記憶の中でも比較的簡単な部類に入る。園内のマップを丸ごと頭の中に入れることは、普通はできない。しかしながら、Aの次にはBとCがあり、Cの先にはDがあるというふうに、Aに来たときに次に何があるのかを覚えることは、回数を重ねるだけで容易に覚えることが可能だ。この原理は、勉強にも応用できる。月夜の場合、世界史を専攻しているので、ストーリーを覚える際にこの手法は役に立った。


 その日は、月夜はジェットコースターの管理作業を行った。といっても、相変わらず専門的なことはしない。制御室に入ってチェックシートを取り出し、ポイントごとに確認をして、その旨をシートに記入するだけだ。異常があれば、後日彼女以外の人間が改めて確認することになる。彼女は異常の有無を確認するだけで、異常そのものの対処は、ほかの人間の仕事だった。産業で使われている典型的な手法といえる。


 一時間ほどですべての作業を済ませて、月夜が管理棟に戻ると、自分の作業も早々と終わらせた火花が、水族館に行かないかと誘ってきた。


「今日なら開いているそうです。何でも、月に一度の点検日とかで……」


 遊園地を担当する者以外にも、水族館にも管理人が数人いる。ただ、普通は夜まで残ることはない。今日は月に一度行われる重要な点検日で、昼間に活動している担当者が夜も引き続き作業を行うとのことだった。


 早く帰る必要はなかったので、月夜は火花の誘いに乗ることにした。


 水族館は、扇形の階段を下りた先の左手に存在する。正面ゲートは開いており、料金を支払わずに入ることができた。


 館内は不思議な色の照明で彩られていた。ブラックライトが使われている一帯もあるが、ほかの場所にも、一般的な室内で使われるのとは異なる照明が設置されている。


 入ってすぐの場所は、小型の魚が飼育されているエリアだった。海の生き物なので、メダカは存在しないが、ちょうどそれくらいの大きさの魚が群れを作って泳いでいる。魚には瞼がないので、眠っているのか月夜には分からなかった。彼らは、眠っている最中も懸命に泳ぎ続ける。まるで現代に生きる人間を端的に表わしているようだ。


 火花は、以前、夜に入る水族館はまた特別だと言っていたが、実際にこの時間帯に入ってみて、月夜にもそれが少し分かった。館内はいつでも暗く、どの時間帯に入っても明るさは変わらないが、空気感が日中とは明らかに異なる。空気感を醸成する要素としては、温度や湿度が挙げられるが、不思議と落ち着いた雰囲気に今の水族館は内包されているようだった。


 三人とも無言のまま、ゆったりとしたテンポで奥へと進んでいく。途中で一度もほかの人間には出会わなかった。


 階段を下り、一面が硝子で覆われたエリアへと辿り着く。硝子の向こう側では多種多様な水生生物が泳いでいて、まるで別の世界へと来たような感覚が、月夜の中に舞い降りてきた。


 そんな純粋な感情を抱いたのは、久し振りだった。


「素晴らしい光景だな」肩に載ったフィルが、小声で呟く。


 月夜は黙って頷いた


 魚たちは、とても活発に泳いでいるように見える。


 どこか無邪気な子どもじみていて、それでも生物に特有な精緻な行動パターンが垣間見える。


 とても綺麗だ。


 けれど……。


「少し、悲しい」


 月夜の言葉に反応して、すぐ傍にいた火花がこちらを振り返った。


「私もです」


 火花の言葉を聞いて、月夜は理由を尋ねてみる。


「どうして、そう感じるのかな?」


 火花は再び顔を硝子の向こうに向ける。


「きっと、彼らが閉じ込められているからだと思いますが……。……難しい感情で、簡単には言い表せませんね」


 深い色合いをした水の中で、海藻が人工的な水の流れに従って揺れている。優雅な光景だが、単純に美しいという言葉では済ませられない、微妙な哀愁感がそこには漂っている。


 顔を上に向けた。


 天井まで、生き物の群衆は続いている。


 広大な水の空間が、右にも、左にも、そして頭の上にも、ずっと広がっている。


 けれど、その水は溢れもしなければ、降ってくることもない。


 硝子で覆われているからだ。


 閉鎖されている。


 すべて、デザインされた環境だ。


 彼らは、ここで生まれ、ここで死んでいく運命にある。


 月夜は、横を向き、水槽の中をじっと見つめる火花の横顔を見た。


 彼女の瞳に照明の明かりが反射して、吸収されていく。


 暗闇を離散させるように、彼女の白い髪が輝いている。


 口を開きかけたが、月夜の口からは何の言葉も出てこなかった。


 ただ、華奢な少女の横顔を見つめることしかできなかった。


 先へと進み、今度は珍しい生き物が多数飼育されている場所に来た。珍しいといっても、月夜は生き物に関してほとんど知識がないので、どれくらいの稀少度なのか分からなかった。ただ、奇抜な見た目をしている生き物が多いのは分かる。細長い海老のような生き物や、灰色がかった平たい蟹など、節足動物が多く展示されていた。


 今度は階段を上って、開放的なエリアに出た。そこは海豚や海驢のショーに使われる場所だった。階段の先は橋のようになっていて、上から会場全体を見渡すことができる。


 少し遅れて火花がやって来た。


「ここは、今は何もやっていませんね」


 火花が先へと進んでいくので、月夜もそれについていく。


 天井は吹き抜けの構造になっており、頭の上には星空が広がっていた。こんな暗い中で海豚がジャンプする光景を観たら、きっと素敵だろうと月夜は想像する。


 火花は、会場の後方に位置する座席へと向かい、そこに腰を下ろした。


 月夜もその隣に座る。


 前方には、プールのように巨大な水槽、そしてその向こう側には動物が登場する舞台がある。


 水の流れる音が微かに聞こえた。観客がいなくても、生き物のために常に水は循環している。作られた環境があまりにも誇張されているように思えて、月夜は少し気持ちが悪くなった。


「どうですか? 楽しんでもらえましたか?」


 火花がこちらを向き、笑顔で月夜に質問する。


 月夜は頷いた。


「楽しかった」


「本当は、ここでショーお見せしたかったんですが……。さすがにそこまではできないみたいです」


 フィルは月夜のもとから離れ、今は会場内を自由気ままに散策している。何も珍しい発見はないだろうが、普段来られない場所に来て、歩いているだけで楽しいのかもしれない。


「あと五日です」火花が唐突に言った。「それまでには、私の方はどうにか終わりそうです。……月夜さんと一緒にいられるのも、それまでということになりますね」


 フィルの動向を目で追っていたが、火花の言葉を受けて月夜は隣を見た。


 火花がそこまでストレートに感情を出すのは、初めてのような気がしたからだ。


「寂しいの?」


「もちろん、寂しいです。でも……、それ以上に、この場所から離れなくてはならないのが、辛いんだと思います」


 火花は、ずっとこの遊園地の中で生きてきた。言い方を変えれば、ここが彼女の唯一の社会であり、世界だったのだ。


 この場所から離れるというよりも、彼女自身が死んで消えてしまうのだ。


 その事実は、月夜もあまり考えないようにしていた。それを意識すれば、どうにかしてそれを阻止しようとする気持ちが出てきてしまいそうな気がしたからだ。


 きっと、自分に火花の運命を変えることはできない。運命といえば大袈裟だが、火花の話し振りから察するに、それはどうしようもなく彼女に訪れる定めのようなものだ。止めることができるのなら、火花本人がそのための行動をとっているはずだ。寂しい寂しいと言っておきながら、それでも自分が消え行く未来を良しとする人間には、月夜には思えなかった。


「こんなに長い間一緒にいてくれた人は、月夜さんが初めてなんです」火花は話した。「それが、私には嬉しくて……」


「前にも、聞いたよ」


「ええ、そうですね……」火花は微笑む。「……でも、私が思うことは、それだけなんです」


「まだ、こんな状態が続けばいいって、思っているということ?」


「きっと、そうだと思います」


「私は、最後まで、傍にいるよ」


 月夜がそう言うと、火花はさらに笑みを深めた。


 火花は正面に向き直り、やがて無表情に戻って沈黙する。


「……私が消えてしまったあとも、時間があったら、ここに来てくれませんか?」


 月夜は顔を上げる。


「私が築いたプログラムが、上手く作動しているか確認してほしいんです。おそらく、作業が完了しても、その結果をすべて確認できるほどの時間はありません。ミスはないと思いますが、念のために確認してもらいたいんです」


「どうやって、確認すればいいの?」


「遊園地に来ているお客さんが、楽しそうにしてくれていれば、それが上手くいった証拠です」火花は話した。「月夜さん自身にも、楽しいと思ってもらえれば、成功したと自信を持って言えると思います」


 月夜は火花を見つめる。


 火花は、笑っている。


 だから、月夜も、少しだけ笑ってみた。


 彼女の表情の変化を見て、火花は驚いたような顔をする。


「今も、楽しい」月夜は言った。「火花と一緒にいられて、楽しいよ」


 火花は、ゆっくりと、自分の笑顔を取り戻していく。


「私もです」


 その場所で暫く過ごしてから、二人は水族館の外に出た。フィルはもう少し見学したいと言って、二人とは反対方向に進んでいった。


 水族館の外には、ビオトープのような場所があり、そこにはなぜか淡水に潜む生物も展示されていた。海水魚だけでは文句を言われるかもしれないから、ちゃんと淡水魚も展示しておいたという宣伝のつもりかもしれない(この思考の意味は、月夜自身にも理解できなかった)。


 先に進むと、左手にショップがあり、右手には連絡路が続いていた。この連絡路を通れば、管理棟までスムーズに戻ることができる。


 管理棟のカフェまで戻ってきて、月夜と火花はそこで休憩した。


 暫く無言だったが、火花が突然思い出したように立ち上がり、また新作のメニューが開発されたので、是非月夜に味見をしてもらいたいと言った。月夜は、自分が食に興味がないこと、それ故に自分の感想を聞いても何の参考にもならない可能性が高いことを火花に説明したが、火花はそれでも食べてほしいと言って聞かなかった。


 火花はカウンターの奥へと向かい、暗い空間に月夜一人が残される。


 どうやら、火花は自分に何かを提供したいようだな、と月夜はぼんやりと考える。以前もスープを飲んでほしいと言ってきたし、水族館に行こうと誘ったのも彼女だ。相手に何かを提供することで、自分の存在価値が明白になり、欲求が満たされることを望んでいるのかもしれない。それは酷く当たり前で、そして健全な感情だが、月夜にそうした感情が起こることはあまりなかった。


 一人で窓の外を眺める。管理棟に入る度に目にする光景だから、もう大分見慣れていた。桟橋に停泊しているボートの数は日によって違うが、それ以外の場所では何の変化もない。


 背後で入り口のドアが開く。振り返ると、フィルが帰ってきたところだった。


「おかえりなさい」月夜は呟く。


 フィルは月夜の傍まで来て、彼女の膝の上に載ろうとしたが、月夜は彼を抱き上げて自分の対面の席に座らせた。


「なんだ? また、何か食べ物を提供してもらえるのか?」


「うん、そう」


「ほう」フィルは少し瞳を輝かせる。「そいつはグッドタイミングだったな」


 カウンターの奥から火花が姿を現す。トレイを持って彼女は二人の傍に近づき、フィルの存在に気づいて、おかえりなさい、と言った。火花はトレイをテーブルの上に置き、それを月夜の方へと軽くスライドさせる。


 傍に来る前から分かっていたが、トレイの上からは湯気が漂っていた。丼ぶりが置かれていて、中には液体と、それに浸された麺と具材が入っている。どうやらラーメンみたいらしい。


「シーフードラーメンです」火花は言った。「以前にも同様のものがあったのですが、あまり好評ではなかったので、一時的に生産を中止していたんです。それを改良して、新しいメニューとして売り出そうとしているみたいです」


 火花の説明を聞いて、月夜は頷く。割り箸で食べるのかと思ったら、トレイにはフォークが置いてあった。箸に比べれば、フォークの方が圧倒的に使いやすいので、助かったと月夜は思った。


 手を合わせて、フォークで麺を巻きつけ、それを口に入れる。


 スープの味がした。


 遅れて、麺の味もする。


「うん、美味しい」火花の方に顔を向けて、月夜は感想を述べる。


 沈黙。


 スープをレンゲで掬って、月夜はそれをフィルに飲ませた。彼は猫だが、猫舌ではない。

「少し、薄味だな」彼は普通の口調で話す。「だが、俺は好きだ」


「イカとタコが入っています。どちらも近郊の海で獲れたものです」火花が説明した。


「これは、火花が料理したの?」疑問に思って、月夜は尋ねる。


「ええ、まあ……」火花は答えた。「レシピの通りに作ったので、誰が作っても同じ味になると思いますが……」


 お腹が空いていたわけではなかったが、月夜はラーメンをすべて食べた。食べ終わった頃には、お腹はいっぱいになっていた。食べたのだから当たり前だ。状態としてではなく、感覚として満腹になった、という意味だ。


 火花が食器を洗っている間、月夜はそのまま席に着いて待っていたが、どういうわけか、いつの間にか眠ってしまった。お腹が空いていなくても食べられるように、眠くなくても眠られるということかもしれない。少なくとも、それは彼女の意識的な選択ではなかった。自分でも気がつかない内に、自然と眠りに落ちてしまっていたのだ。


 目を覚ますと、対面の席に火花が座っていた。彼女はフィルを抱き抱え、頭を撫でている。


「あ、起きました?」月夜に気づいて、火花は声をかけた。


 目を擦り、月夜は伸びをする。疲れている感じはしなかったが、眠った、という感じはした。


「もう、帰ってもらっても大丈夫です」火花は笑顔で話す。「お疲れでしょうから……」


「特に、疲れてはいないよ」


「感じなくても、身体は疲れているはずです。……実は、私も今日は眠ろうと思っているんです」


「どこで寝るの?」


「そうですね……。今日は、どこかの芝生の上で寝たいです」


 芝生といえば、いくつか候補がある。ジェットコースターの手前にある広場と、海水浴場の北側のサッカーコート、それからその向こう側のキャンプ場の辺りにある丘だ。


 今日は家に帰らずに、月夜も火花と一緒に眠ることにした。気温は低いが、体調を崩すほどではない。万が一体調を崩しても、それで困るようなことはない。労働ができないほどの体調不良というものを、月夜は経験したことがなかった。


 道を進んで、ジェットコースターの裏側にやって来る。右手には丘が続いているが、左手にも芝生が広がっている。火花が今日はそこで眠ると言い出したので、月夜も一緒に横になった。


 今日も、星が見える。


 空が見える、とは普通いわない。


 背の高いジェットコースターに風が当たり、奇妙な音が辺りに響いていた。すぐ傍にある海からは、当然波の音が聞こえてくる。どこまでが人工的な音で、どこからが自然の音なのか、月夜には判別ができない。波は壁に当たって音を立てる。波は海水の動きだから、それは自然のものだが、壁は明らかに人工的なものだ。


 道に沿って、湾曲した三角形のパラソルのようなものが、向こうまでいくつも並んでいた。海の傍でよく目にするものだが、月夜はそれが何か知らなかった。


 火花はもう目を閉じている。


 月夜も彼女に倣って瞼を下ろした。


 視界が遮断され、音だけが認識できるようになる。


 腹部に圧を感じて目を開けると、フィルが自分の上に座っていた。


「寝ないの?」月夜は尋ねる。


「寝る」


「早く、横になったら?」


「マッハの速さで横になるのか?」彼は言った。「それじゃあ、忙しなくて仕方がないな」


 フィルを抱き締め、彼の体温を感じながら、月夜は眠りに就こうとした。それは彼女の日常の一場面で、特に特別なことではなかった。


 眠ろうとすればするほど、どうでも良いことばかりが頭に浮かぶようになる。


 フィルは、もともとある少女の恋人だった。人間とほかの動物が恋人になることは、生物学的な観点から絶対にありえないが、人間には、生物学的知見が通用しない、特別な事象が起こりえる。そこに説明をつけることは、おそらくは可能だろうが、それでどうこうなるような問題ではない。


 人間は、事実を目の当たりにしてから、それを起点として説明をつけようとする。何にも通用する絶対的な説明を考えてから、事実をそうしたものとして捉えようとするのではない。


 フィルの恋人だった少女は、どこかへ行ってしまった。彼女がまだ存在しているのか、それとも、次元の狭間に呑み込まれて消えてしまったのか、月夜には分からない。ただ、存在しているという感覚があるのは確かだった。根拠のない感覚だが、根拠がないから感覚は感覚たりえる。


 月夜には、自分が他者だと捉えている誰かが、本当は存在しないのではないかと思えることがある。意識的にそうした疑いを抱いているのではない。それは、ふとした瞬間に、蝋燭に灯る火のように彼女の中に唐突に生じる。誰かと話していると、突然、その相手が自分の頭が作り出した錯覚ではないか、と思えてくるのだ。その感覚は何の前触れもなくやって来て、そしてまた唐突に消え去る。幻想を抱いても、またすぐに日常を取り戻す過程を何度も繰り返してきた。


 フィルの恋人の少女が存在することは、月夜が大切に想っているある人物が、この世界に存在していることの証明になっている。しかしながら、その少女が単なる幻想であれば、その人物もまた幻想であることになってしまう。そして、その証明は成立せず、月夜は自身の存在すら疑うことになる。


 自分は、果たして、本当に存在しているのだろうか?


 神様と呼ばれる客観的な視点の、一部分にすぎないのではないか?


 そんなふうに思えることが、よくある。


 その感覚が、ほかの人にも起こりえるものなのか、月夜には分からない。


 それを確かめようとすれば、また、その他者が本当に存在するのか、疑わなくてはならなくなる。


 ……それは、怖い。


 自分を見失ってしまうようで、とてつもない恐怖を感じる。


 大抵の場合、そうした疑いは、恐怖を払拭しようとするのと同時に、自分の中から消える。


 けれど、いずれまた訪れる。


 そのループを断ち切る方法は、今のところ見つかっていない。


 それこそ、主観を捨てるしかない。完全な客観性を得るまで、絶対に抜け出すことのできないループだが、完全な客観性を得たと認識するのは、最終的にはやはり主観でしかないから、ここでやはり矛盾が生じる。


 月夜は、目を開く。


 目を開けば、現実がそこにある。


 少なくとも、現実があると認識できる。


 フィルがいなかった。


 彼の感覚が消えたことに気づかなかった自分に、月夜は多少困惑する。


 ゆっくりと身体を起こして周囲を見渡してみたが、フィルの姿はどこにも見つからなかった。闇に同化して見えなくなっているのかもしれないが、すぐ近くにいるのであれば、月夜には彼の居場所が分かる自信があった。


 火花を起こさないようにそっと立ち上がり、月夜は道に出て歩き始める。


 左手の丘にも彼の姿はない。そのまま直進し、ジェットコースターの傍に来る。レールの上を歩いているのではないかと思って上を見てみたが、彼の姿は見つからなかった。


 彼の行きそうな場所に、まったく心当たりがないわけではなかった。左右に別れる道を右に進み、海に沿ってまっすぐ歩く。左に芝生で覆われた広場が見え、そのまま進めば以前訪れたホテルへと辿り着く。


 ホテルの前を通り、行き止まりに至った。左手には今は閉ざされたゲートがある。火花に許可をとる必要があったが、月夜は気にせずにゲートの下を潜った。


 L字型の港を直進する。


 先端に、小さな黒い影があった。


 月夜はそちらに近づき、その影に向かって声をかける。


「フィル?」


 彼はこちらを振り返ったが、すぐに正面に顔を戻してしまう。


 港の最端までやって来て、月夜はフィルの傍にしゃがみ込んだ。


「どうして、こんな所に来たの?」月夜は尋ねる。


「寝なくていいのか?」


「フィルのせいで、目が覚めた」


「そうか。悪かったな。必要なら謝るが」


「必要はない」


 しゃがんだまま、月夜はフィルの頭を撫でる。彼が前を向いていたから、月夜も同じ方を向いた。


 水族館の壁面に、巨大な時計のプロジェクションマッピングが映し出されている。


 今日も、時刻は正しくなかった。


 長針が動く速度も、短針が動く速度も、一般的な時計とは明らかに異なっている。


 秒針は通常の反対方向に周り、途中で何度も長針と短針と擦れ違っていた。


「さっきまで、あの中にいたんだ」フィルが言った。「火花に誘われて、水族館を見物した」


「……どういうこと?」


 月夜が尋ねても、フィルは明確な返答をしない。


「別に、何でもない。ただ、思いついたから、呟いてみただけだ」


 立ち上がって、月夜は少し角度を変えて壁面を見てみる。しかし、たちまち時計の映像は消え、月夜には見えなくなった。


 水族館に行こうと言い出したのは、火花だ。そして、ジェットコースターの裏側にあるあの場所で寝ようと言ったのも、また彼女にほかならない。


 水族館の中は、静かで、暗くて、綺麗だった。しかし、それらは、やはり人工的に作られた環境だ。


 人工物と自然を区別し、そこに注目しようとするのは、どうしてだろう?


 本当にどちらでも良いのなら、そんなことを考える必要はない。それでも考えてしまうのは、何か気になることがあるからに違いない。それ以外の理由は考えられない。


 自分は……。


 興味がない振りをしていただけで、本当はそれがずっと気がかりだったのかもしれない。


 人工物と、自然の違いに、本当は拘りたいのだ。どちらかにきちんと分けたくて仕方がない自分が、確かに存在する。それが自分の欲求だとしたら、その欲求を遮断しようするのが思考だ。


 フィルは、ずっと無言だった。


 彼に自分の思考を読まれているのか、そうでないのか、それを読むことが、月夜にはできなかった。

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