第6章 異口同音
夜になった。
園内から人々は消え去り、月夜と火花の二人だけが残される。フィルは人ではないから、この内にはカウントされない。そもそも、カウントする意味が分からなかったが、月夜は自分の思考を特に不思議だとは思わなかった。
今日月夜が任されたのは、高所に存在する花園の清掃作業だった。花園といったが、本当はそれほど立派なものではない。規模はあまり大きくないし、この季節に咲いている花はあまりないらしい。
管理棟から出て、扇形の階段を正面方向に降りる。そのまま道を右に進むと飲食店が密集した建物に至り、その連絡路の下を通ると、ジェットコースターへと続く道に合流する。ジェットコースターに至る前に道を右に逸れ、坂道を上る。傾斜は急ではなかったが、曲がりくねっていて、歩くのは少し大変だった。
花園の手前には、大きな鐘が設置してあった。神社の賽銭箱の前にぶら下がっているようなものではない。洋風な雰囲気で、真鍮が使われているように見える。二つの脚に支えられたアーチの中央に鐘が付いていて、そこから伸びた紐を左右に振ることで音が鳴る仕組みになっている。
月夜は試しに鐘を鳴らしてみようかと思ったが、夜なのでやめておいた。近隣に人家があるわけではないが、火花に聞かれたら何を言われるか分からない。彼女なら、美しい音色ですね、などと言いそうだが、そんな感想を述べられても困るので、彼女は鐘には手を触れないでおいた。
鐘の付いたアーチの向こうには、地面に花壇が敷き詰められている。真ん中に一本道があり、左右に分かれて花壇は配置されていた。途中で垂直に交わる横向きの道もあり、区画は全部で四つに分けられている。
やはり、季節のせいなのか、咲いている花は少なかった。全体的に白い色をした小さな花が目立つ。
月夜がしなくてはならないのは、花壇の隅に溜まった枯れ葉を集めて、花壇の土を整地することだった。なんというのか、当たり前の作業で、説明の必要すら感じられないが、作業とは普通そういうものだ。
フィルは花壇の周囲を歩き回っている。花を見るのが珍しいのかもしれない。
「綺麗だな、月夜」
遠くの方から、少し大きな声を出して、フィルが言った。
「その台詞は、前に違う意味で言われたことがあるから、今は答えない」
小さな声だったが、フィルには聞こえたようで、彼は薄く苦笑いした。
「花が綺麗だという意味だ」彼は話す。「これだけの花を管理する仕事を与えられるなんて、素敵だな」
素敵だと感じている暇はないので、月夜は早速作業に取りかかる。いつも通り箒と塵取りを使って花壇の周囲を掃いていった。落ち葉の類は想像していたよりは少ない。風で吹き飛ばされてしまったのかもしれない。
集めた塵をビニール袋へと移し、今度は花壇の中の土の手入れをする。ときどき、利用客が花に手を触れてしまうことがあるようで、そうすると土が若干掘り返されてしまうらしい。そうした状態を見つけたら、土を綺麗に平に均し、花のためにも見栄えを良くする必要があるとのことだった。
座り込んで素手で土を触っていると、フィルがすぐ傍まで戻ってきた。
「冷たくないか?」彼は尋ねる。
「冷たいけど、仕方がない」
「シャベルを持ってくればよかったな」
「そういうものを使うと、却って花を傷つけてしまうみたい」
手伝う気になったのか、フィルも月夜の隣で土を撫で始める。特に何の被害も受けていない箇所だったが、彼の誠意に感謝して、月夜は何も言わないでおいた。
「寒いな、月夜」
「そう?」フィルに言われて、月夜は応える。
「管理棟に戻ったら、また熱いスープを提供してもらわないとな」
「スープ、気に入ったの?」
「誰がそんなことを言った?」
「じゃあ、気に入らなかった?」
「そんなことを、誰が言った?」
「前後関係を入れ替えただけで、言っていることは、同じ」
「ああ、その通りだ」フィルは頷く。「学校での勉強は、ちゃんと私生活でも役に立っているようだな」
土が盛大に形を変えて、すでに花の根が見えているところがあった。花を傷つけようと思ってこんなことをする人は、おそらくいない。子どもがやってしまったのかもしれないと月夜は想像する。
「火花には、もう少し、彼女の仕事について訊いた方がいい」
突然声色を変えて、フィルがそんなことを言った。
月夜は顔を上げて、彼を見る。
「……どうして?」
「今は、意図的に干渉しないようにしているんだろう?」フィルは話した。「でも、本当は訊きたいと思っている。違うか?」
「違くは、ない」
「なら、訊いてみるんだ。その方が、後々お前のためにもなる」
月夜はフィルの横顔を見つめる。
「何か、知っているの?」
フィルは首を振った。
「俺は何も知らない。火花のことは、今はお前の方がよく知っている。俺は、自分の正体を彼女に明かしただけで、彼女は自分のことは話そうとしなかった」
「遊園地の、管理人だって、言っていたよ」
「まさか、それだけで納得したわけじゃないだろう?」
月夜は下を向く。
フィルの言っていることは間違いではなかった。火花の説明には、所々不可解なところがあり、すべてに納得したとは当然言いがたい。しかし、月夜はとりあえず彼女の説明をそのまま受け入れることにした。火花がそうした抽象的な説明をするのには、何か訳があるのではないかと考えたからだ。
「でも、彼女に直接訊くようなことはしたくない」
「まあ、今のお前ならそう言うだろう」フィルは言った。「だから、俺からのアドバイスとして受け留めてもらいたい」
「何か、気になることがあるの?」
「もちろん、ある。なければこんなことは言わない」
「フィルが、彼女に訊いたら?」
「俺はあくまでお前の付き人なんだ」手もとの土を弄りながら、フィルは話す。「火花の友達は月夜なんだから、月夜がどうにかしなくてはならない」
「フィルも、花火の友達だと思うよ」
「それはどうかな……。……俺は、あまりよく思われていないみたいだからな」
「……どういうこと?」
「深い意味はない」彼はそっぽを向く。「思ったことを、そのまま口にしただけだ」
沈黙。
フィルが作業を再開したから、月夜も整地作業に戻る。
それが彼の性格なのだろうが、フィルは自分の言いたいことを遠回しに表現する。言いたいことを直接口にしないのだ。反対に、ストレートに言葉を用いる場合は、大抵の場合嘘だ。嘘と断定するのは良くないが、自分のことを好きだと言ったり、自分だけのものだと言ったりするのは、彼の本音ではないということを、月夜は早い段階で理解していた。
フィルには、何か伝えたいことがあるに違いない。彼の真剣な口調がそれを物語っている。普段の彼は、本人には失礼だが、あまり真剣ではないと月夜は思っている。
一時間くらいその場所で手入れ作業を行って、月夜とフィルは花園から立ち去った。集めた塵と箒と塵取りのセットを持って、坂道を下りて道まで戻ってくる。
フィルの提案で、少しだけ寄り道をすることにした。
ジェットコースターの手前には、広大な芝生のエリアがある。そこを横切り、向かい側まで進むと、眼前には海が広がっている。行きに通った道、すなわち花園へと繋がる坂道に分岐する道と、こちら側にある道は、芝生のエリアを囲むように通っている。右手にはジェットコースターがあるが、二人はそちらには向かわずに、反対側に向かって足を進めた。
カーブした道の先には、ホテルがあった。
綺麗な雰囲気ではあるが、建物としては古い部類に入ると思われる。重厚な作りの建物で、今は扉は固く閉ざされているが、その向こう側に見えるロビーは、清潔感があって近代的だった。
「綺麗だね」
月夜は、思ったことを素直に口にした。
「そんな感想がお前の口から出るとは、珍しい」
月夜は首を傾げる。
「そう?」彼女は呟いた。「フィルの真似」
「もう少し、その言葉は高級だと思っていた」
ホテルのさらに先に進むと、行き止まりになっていたが、その左手にゲートが下りた通路が続いていた。奥には港がある。この港からは、一般の客は乗船できない。主に必要な物資が運ばれてくる場所で、水族館で飼育されている生き物の餌なども、ここから搬入されてくるらしい。
フィルは、そのゲートを潜って、中に入ろうと言い出した。
「どうして?」
立ち入り禁止の場所に入ろうとしているのだから、月夜は当然理由を尋ねた。
「なんとなく、入りたいからだ」
「入ったら、どうにかなるの?」
「たぶん、監視カメラに映って、取り調べを受けることになる」
「じゃあ、やめよう」月夜は首を振る。
「どうしてもと言ったら、どうする?」
月夜はフィルを見つめる。
「少し、考える」
「そうだ。そして、お前は、俺のために行動をともにしてくれるだろう?」
月夜は意識的に視線を鋭くし、彼を少し睨んだ。
「……何が、言いたいの?」
「怒っている振りをするな」フィルは笑った。「俺にはそんな芸は通用しない」
その場にしゃがみ、月夜はフィルを抱き上げる。
それから、トランシーバーの電源を入れて、火花に連絡をした。
フィルは、月夜を試したかったのかもしれない。火花に問い合わせたところ、ゲートは日中は開いていて、夜間の間関係者以外は立ち入れないだけだ、と説明した。つまり、入ったからといって、それだけで危険が及ぶような場所ではないということになる。
入っても良いが、なるべく周囲のものには手を触れないでほしいというのが、火花が要求したことだった。反対にいえば、それ以外は何も要求されなかった。
トランシーバーのスイッチを離し、月夜はフィルに尋ねる。
「どうして、こんなことをさせたかったの?」
フィルは退屈そうに欠伸をし、息を吐くように端的に答えた。
「お前に、信頼してほしかったから、かな」
ゲートの下を潜り、先へと進む。左手にはホテルの壁面があった。L字型に港は形成されており、今は船は一艘も停泊していない。
港の最端まで来て立ち止まり、月夜はフィルに尋ねた。
「これで、満足した?」
「まだ」彼は答える。「このまま、もう少しここにいるんだ」
足もとから波の音が聞こえる。水は粘性を持つようにゆっくりと動き、港の壁に当たって小さく飛沫を上げる。
空気は澄んでいた。冷気を纏った風が、右から左へと通過していく。二人は、掃除機に吸い込まれ損ねた塵のように、その風に乗り遅れる。
この位置からだと、正面に水族館が見えた。その左手に、今火花が作業をしている三角形のモニュメントが見える。夜の開園時間中は、水族館は紫色にライトアップされていたが、今は何の色彩も帯びずに、ただ暗闇の中に鎮座しているだけだ。
突然だった。
見慣れない光景を目の当たりにして、月夜は少し驚いた。
水族館の建物の外壁に、巨大な時計の映像が映し出されていた。
長針と短針、それに秒針が三つ揃い、それは確かに時計としての形をしている。
ただ、月夜は、その映像を見て、瞬時に違和感を覚えた。
ズボンのポケットに手を入れ、携帯電話を取り出して時刻を確認する。
眼前にある巨大な時計の映像は、現在の正しい時刻を表示していなかった。それどころか、それぞれの針の動く速度は、一般的な時計とはかなり異なっている。
「あれ、何?」
自分の腕の中にいるフィルに向かって、月夜は言葉を投げかけた。
「分からない」彼は答える。「実は、一昨日も見えていた」
「……いつ?」
「ちょうど、ジェットコースターの方に向かうときくらい」
フィルは、今壁面に映し出されている時計は、正面から見ないと人間の目では認識できないようだ、と説明した。一昨日二人がジェットコースターの付近までやって来たとき、道を歩く途中で、フィルは何度かこの映像を目にしていた。偶然にも後ろを振り返ったからだが、月夜にもそれくらいの機会はあったはずだ。だが、月夜はその存在に気づかなかった。フィルの目は、人間の目に比べて特殊だ。自分と彼が見ている世界が違うことを、月夜は知っている。
「火花に訊いてみるのはどうだ?」フィルは言った。「そのくらいなら、直接訊いてもお前の信念には何の支障も来さないだろう?」
「信念ではない」
「何でもいいさ。とりあえず、彼女に訊いてみる。理由は、気になったからだ。それくらいいいだろう?」
「知りたいの?」
「もちろん」フィルは頷く。「お前だって、知りたいはずだ」
暫くそこに立ち続けていたが、時計はずっとそこに映し出されていた。やはり、視認可能な角度がはっきりしているようだ。しかし、日中に投影が確認されたことはない、とフィルは説明した。あくまで夜の間だけらしい。
再びゲートを潜って、月夜とフィルはその場から立ち去った。途中でトランシーバーに連絡が入り、火花は今管理棟にいるとのことだった。二人はそちらへと向かう。
管理棟に到着し、カフェに入ると、火花はその内のテーブルの一つに着いていた。手もとの資料に何かを書き込んでいる最中だったらしく、二人がドアを開けたの確認すると、顔を上げてこちらに向かって軽く手を上げた。
月夜は、彼女に先ほど見た時計のことを質問した。フィルがゲートの先に行きたいと言ったのも、その確認のためだと説明した。
「ああ……。あれは、プロジェクションマッピングです」月夜が一通り質問し終えると、火花は答えた。「夜の間に点検作業を行っているみたいです……。……私は部署が違うので、詳しくは知りませんが、水族館側で点検するプログラムを組んだようです」
「時刻が、正しくないのは、どうして?」
月夜は気になっていたことを尋ねたが、火花の回答は端的だった。
「故障しているみたいです」彼女は言った。「調整作業が上手くいかず、現在のものとは違う時刻が表示されてしまっているとか……」
月夜は、時計のことについて、それ以上は火花には訊かなかった。フィルは首を傾げていたが、火花にそれ以上の説明を求める理由が、二人にはなかった。
待機場所へと移動し、今日の分の確認をする。
チェックシートにチェックを入れて、今日の分の作業は完了した。
「私の方も、今のところは順調です」火花は言った。「このまま進めば、どうにか期限内に間に合うと思います」
月夜は頷く。
「一日中付き合ってもらって、ありがとうございました」火花は笑い、囁くように告げた。「一緒にいられて、楽しかったです」
「今日は、一緒じゃなくていいの?」
「ええ……。充分楽しませてもらいましたから……。月夜さんも、家に帰ってゆっくり休んで下さい」
疲れている感覚はなかったので、休む必要はないと月夜は思った。
火花はまだ作業の続きがあるみたいだった。一度中断してここまで来てくれたらしい。
彼女に別れを告げ、月夜とフィルは遊園地の出口へと向かった。門を背にして足を進める。昨日通ったのと同じルートで海水浴場へと至り、砂浜と松林の間に通された幅の広い道を歩いた。
「火花が言っていることは、本当だと思うか?」フィルが尋ねた。
「火花が言っていること、というのは?」
「プロジェクションマッピングのことだ」
月夜は答える。
「判断する材料が少ないから、分からない」
「本当だと思いたいんだな?」
「それは、そうだよ」月夜は頷く。「それは、いつだってそう」
道を進んで、敷地の外に出る。そのまま歩道を歩き、駅までやって来た。今日はいつもより早いから、電車はまだ走っている。
ホームで数分待ち、月夜は電車に乗って席に着いた。
慣性の法則に従って揺られながら、月夜は思考を巡らせる。
今までは、フィルが自分に何らかのヒントをくれることが多かったが、今回は少し違うようだと月夜は考えていた。それは、ヒントというよりは、考えるべき方向性を決める指針のようなものだ。彼がそれを提供してくれないとなると、自分で考える以外に方法はない。反対にいえば、彼女はそれまで彼に甘えていたともいえる。甘えていたという言い方は微妙だが、どこか彼に頼ろうとしていたのは確かだ。
傍にある銀色の手摺りをなんとなく掴み、月夜はその表面をじっと見つめる。自分の湾曲した顔が映り込み、次元の狂った背景と同化している。
フィルに頼れないとなれば、ほかの誰かに頼るのもまた一つの方法かもしれない、と月夜は考える。自分一人で考えるのが正攻法なのだろうが、それができるほどのレベルには、まだ自分は達していないように思えた。かつての彼女は、どちらかというと無理をする方で、できることとできないことを見誤ることもあった。しかし、無理をしようとする理由が見つからず、その点について他者から何度か指摘を受けた結果、もう少し自分を見つめ直そうと思ったのだ。そんな思考は、今までの彼女に見られなかったものだ。だから、そういうふうに考えるようになったのには、他者の存在以外の異なる原因があると考えられる。
最寄り駅で電車を降り、改札を抜けて、左右に分かれた道を左に進む。一度立ち止まり、後ろを振り返った。そちらにも道は続いている。
その先に進んでみようかと思ったが、一瞬の判断で今は保留することにした。きっと、今右に曲がってしまえば、そちらに向かうことに慣れてしまうと思ったからだ。
それは、悩ましいことでもあった。
そう……。
人を好きになるとは、本来苦しいことなのだ。
玄関のドアを開けて室内に入り、洗面所で手を洗ってリビングに向かう。部屋の照明を灯し、すべてのシャッターを半分ほど上げて、室内の空気を入れ替えた。フィルと一緒にそのままソファへと腰を下ろす。
「夜勤、ご苦労様」フィルが言った。「俺にも、同じことを言ってくれ」
「夜勤、ご苦労様」月夜はコンピューターのように繰り返す。
ソファの背に首を預け、月夜はぼんやりと天井を眺める。
「学校がないと、しないといけないことがなくて、快適だな」
上を向いたまま、月夜はフィルの問いかけに応える。
「春休みの宿題をしないといけない」
「学年が上がるタイミングなのに、それでも宿題があるのか?」フィルは呆れたような声を出した。「世の大人たちは、いつの時代も子どもに対して残酷だな」
「そう?」
「そう思わないか? 休みと銘打っておきながら、全然休みになっていないじゃないか。いつもよりやらないといけないことの量が少なくなっただけで、それでは仕事量がゼロになったとはいえない。見た目だけのはったりだよ」
「完全に何かをストップさせるのは、よくないらしい」
「それ、誰が言っていたことだ?」
フィルに尋ねられ、月夜は首を傾げる。
「ソースは、忘れてしまった」
「お好み焼きでも食べるつもりか?」
「お好み焼きが、食べたいの?」
「俺はいらない」フィルは首を振る。「鰹節と青のりが口の周りについて、処理が面倒だからな」
ソファに座ったまま、月夜は暫くの間ぼうっとしていた。ぼうっとしているように見えても、頭が完全に思考を停止することはない。それは誰でも同じだろう。この点でも、仕事量が完全にゼロにはなっていないといえる。そう考えると、動き続けるのは人間、あるいは生物に与えられた使命のようにも思えてくる。
腕を伝って、フィルが月夜の首もとまで上がってきた。彼はそのまま彼女の頬を舐め始める。
「どうしたの?」
「構ってほしいんだ、月夜」
月夜は一度フィルの身体を強く抱き締め、それから彼の頭をゆっくりと撫でた。
「二人というのは、いいものだな」
「三人じゃ、駄目?」
「俺はあまり好きじゃない」フィルは答える。「俺の出番が少なくなるし、相手を独り占めできなくなるからな」
フィルは、もう生きていない。それでも、そこに確かにいるという感覚を抱く。
けれど、いくら誰かの写真を眺めても、その人物が自分の傍にいると錯覚することはできない。
その差は何だろう?
考えてみても、動いているか、止まっているかの違いくらいしか思い浮かばない。
それくらいの違いでしかない。
フィルは、もう死んでいるのだ。死んで、物の怪になった。彼を愛していた人物も、消えてどこかへと行ってしまった。
思考がシリアスな方に向きかけていると判断して、月夜は意識的にプラスのバイアスをかける。今はそんな気分になる必要はなかった。
「一日振りに、風呂に入ったらどうだ?」フィルが耳もとで囁く。「実際にそう感じなくても、身体は確実に疲労しているはずだ」
「感じない疲れを、解消する必要があるの?」
「後々感じるようになるかもしれない」
「それは、そうだね」
月夜はフィルを持ち上げ、今度は自分の頭の上に載せた。
「実は、俺が入りたいんだ」フィルは話す。
「それは、分かる」
「その台詞に、いったい何の意味がある?」彼は笑った。「まあ、いつものことだがな……」
「今すぐ、入る?」
「月夜が入るタイミングでいい」彼は告げる。「しかし、明日というのはなしだ」
特にするべきことはなかったから、フィルと一緒にすぐに風呂に入ることにした。風呂に入るとなれば、当然湯を沸かさなくてはならない。平均的にはだいたい十分前後で水は適温に調節される。その間に月夜は二階へと上がり、自室にざっと掃除機をかけた。
「掃除してばかりだな」
ベッドに大人しく腰をかけて、フィルが呟く。もしかすると、彼は掃除機が怖いのかもしれない。
「綺麗になるから、いいと思う」
「綺麗好きだな」
「好き、ではない」
「では、綺麗好みだな」
「意味は変わらないと思う」
「それなら、綺麗御礼か」
「意味が、分からない」
一通り掃除をし終え、この部屋の窓も開けた。月夜には、どういうわけか、空気が悪いと頭が痛くなる症状が見られる。空気が悪いというのはよく分からない日本語だが、酸素濃度が薄い、あるいは、不純物が多いといった感じだろうか。
風呂に入ると、当然、温かかった。ずっと寒い中にいたから、いつもより温かく感じられた。
「微温湯に浸かると、どうして風を引きやすいか、知っているか?」
湯船にぷかぷか浮きながら、フィルが豆知識を披露しようとする。
月夜は考え、それから発言する。
「自分の体温の方が、お湯の温度よりも高いから?」
「それでは、理由になっているとはいえないな。テストで書いたら不正解になる」
「その結果、自分の体温が、お湯の方に持っていかれるから?」
「まだ足りない」彼は笑う。「それは、原因であって、理由ではないだろう?」
暫くの間考えてみたが、月夜に答えは分からなかった。分からないのではなく、知らないのだ。
「ギブアップか?」
フィルに言われて、月夜は頷く。
「実は、俺も知らないんだ」彼は言った。「あとで、調べてみてくれ」
「知らないのに、どうして、問題を出そうなんて思うの?」
「多くの場合は、自分が知識人であると相手に錯覚させるためだな。最後に、調べてごらん、という言葉を付け足して、如何にも自分がすでに知っているかのように思わせるんだ。下品なことこのうえない」
「じゃあ、フィルは下品だね」
「少なくとも、上品ではないな」
「知識は、見せびらかすためのものじゃないよ」月夜は説明する。「自分のために、使うものだよ」
「自分さえよければ、いいのか?」
「じゃあ、自分たちのために、使うもの」
「結局、変わらないじゃないか」
月夜は首を傾げる。
「じゃあ、フィルは、何のためのものだと考えているの?」
「自己満足するためのものさ」彼は言った。「見せびらかせもしないし、自分たちのために使いもしない。ただ、知って、なるほどと思うだけだ。その一瞬のために、自分の知らないものはこの世界に存在しているんだ」
彼の答えは、月夜は嫌いではなかった。そういう諦めみたいなものが、月夜はどちらかといえば好きだ。
諦め……。
火花と接していると、彼女の内に同様のものを見る。
けれど、今は彼女のことは思い出さずに、フィルときちんと接しようと月夜は思った。
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