第4章 曖昧模糊

 三十分ほどが経過した頃、火花からトランシーバーで呼び出された。ちょうど商店街の清掃作業が終わったところだったので、ベストタイミングだった。


 一度管理棟に向かい、箒と塵取り、そして集めた塵を置いてから、火花が作業をしている三角形のモニュメント(これは正式名称ではないが、便宜上そう呼称することにしよう、と月夜は考えた)へと向かった。


 建物の前に立つと、自動で扉が開いた。上を見ると、こちらを窺うようにカメラが設置されているのが分かる。おそらく、火花が中から操作することで、扉を開閉することができるのだろう。


 火花は依然として椅子に座ったまま、正面のディスプレイとにらめっこをしていたが、月夜が戻ってきた気配を察知すると、すぐにこちらを振り返った。


「ご苦労様です」火花は言った。「少し、休憩してもらった方がいいかなと思いまして……」


 そう言って、火花は筐体の隅に置いてあるもう一つの椅子を持ってくる。


「私は、まだ、活動できるから、大丈夫」月夜は告げる。


「そうですか? でも……。えっと、まだ二日目だから……。無理にならないためにも、少しだけでも休憩していって下さい」


 特に無理をしている感覚はなかったが、火花の言うことも一理あると思い、月夜は大人しく椅子に腰を下ろすことにした。


「えっと、ちょっと、あまりリラックスできるものがないんですが……」そう言って、火花は筐体の向こう側に消える。彼女の声だけが、そちらの方から聞こえてきた。「お茶やコーヒーならあるので、よかったら、如何ですか?」


「喉は、渇いていないから、平気」


「そうですか? ……本当に、大丈夫ですか?」


「うん」


 左側の筐体を回って火花はこちら側に戻ってきたが、手にはお茶が入ったボトルが握られていた。


「よかったら、これを持っていって下さい。飲まないのなら、それで構いません。持っておいた方が、もし喉が渇いたときにも、どうにかなると思いますから……」


 自分が飲み物を必要とするシチュエーションは想像できなかったが、月夜は、今度も、火花の言うことに従った。それが、火花の優しさだと判断したからだ。それに、火花の言うもしもの事態が、絶対に起こりえないとはいえない。受け取っておいた方が懸命だといえる。


「遊園地の概観は、大体分かりましたか?」


 火花に訊かれ、月夜は頷く。


「大体は、分かった」


「フィルも手伝ってくれているみたいで、嬉しいです」


 彼は月夜の膝の上で丸まっていたが、火花の台詞を聞くと、目を開けて少しだけ笑った。


「まあ、お安い御用だ」


 火花は、今は椅子を回転させて、こちらを向いている。そのまま月夜の方に手を伸ばし、フィルの頭を軽く撫でた。彼は大きく欠伸をし、気持ち良さそうに喉を鳴らす。


「ねえ、火花」月夜は、多少声を大きくして、彼女に質問した。「自分が死ぬのは、怖くないの?」


 火花は顔を上げ、月夜に向けて微笑みかける。


「自分でも不思議ですけど、怖くはないんです。いつか死ぬことは、ずっと前から分かっていましたから……。ああ、もちろん、誰でもいつかは死ぬのは当たり前ですけど、私の場合、その時期が少し早いことは、すでに把握していたという意味です。……それが、予想外に速まってしまっただけですから……。……ショックではありませんでした」


「どうして、死んでしまうの?」


「原因は分かりません」火花は首を振る。「ただ、自分が消えていなくなることだけは、理解していました」


 火花の言葉の意味を理解しようと、月夜は努力する。原因も理由も分からず、それでも自分が死んでしまうことを理解しているとは、どのような状態なのだろう? 普通、そんなことを許容できる者はいない。たとえ原因や理由があったとしても、自己の死をそんなふうに客観的に捉えられる者は、限りなく少数であるといって良い。


「今のところ、悔いはありません」なんともないような表情で、火花は話す。「ここの管理人を務められたことは、光栄だったと考えていますし、私自身も面白かったと思っています。だから……。最後に、自分の最大の目標を果たせなかったら、それが最初で最後の悔いになると思います。それだけは、何としてでも達成しなくてはならないのです」


 椅子に座ったまま、月夜は火花の様子を観察する。彼女の透き通った髪は、まるで作り物のように綺麗だ。自分が人工的な存在に美を感じることを、月夜は理解している。彼女を綺麗だと感じるのは、彼女に人工的な面が見受けられるからだと考えることもできる。


 火花は、どちらかというと、弱々しい印象だ。彼女の言葉からも、その内容に反して、力強さは感じられない。使命感と呼ばれるものも、微塵も認められない。ただ、それだけを頼りに生きているような、そんな切なさを感じる。彼女からそれを奪ってしまえば、同時に彼女そのものも消えてしまうような、そんな寂しい存在に月夜には思える。


 その場で少し会話を交わしてから、またそれぞれの作業を再開した。火花は、今日はまだプログラミングを進めなくてはならないので、月夜と一緒に園内を周ることはできないと説明した。


 三角形のモニュメントを出て、道を右に曲がる。今度はアトラクションのメンテナンス作業をすることになった。


「何か、不思議な奴だな、月夜も、火花も」


 目的地に向かって歩いていると、フィルがぼんやりと呟いた。


「どんなところが?」


「そう訊かれると思った」


「私も、火花も、不思議?」


「なんだか、二人で化学反応を起こしているように見える」フィルは笑いながら話す。「本来なら遭遇するはずのなかった二人が、たまたま出会って、お互いに今までになかった性質を生じさせているような気がする」


「よく、分からない」


「俺もだ」フィルは話す。「それが、不思議ということだ」


「よく、分からない、というのが?」


「そう」


「私も、フィルのことは、よく分からないよ」


「この前、分かるようになったと言っていなかったか?」


「前よりは分かるようになったけど、全部を分かったわけではない」


「それはそうさ。すべて分かるようになってしまったら、もう、そいつと一緒にいる必要はない。そうやって、何もかも分かってしまって、人生がつまらなくなってしまった奴を、俺は知っている」


「誰?」


「ここにはいない、誰か」フィルは笑った。「御伽噺の世界の住人さ。気にするな」


 そう言われたので、月夜は気にしないことにした。


 遠くからでも充分目立つ青色の塔が、今回メンテナンスをするアトラクションだった。メンテナンスといっても、素人の月夜がすべてを担当するはずはないし、それほど規模の大きいメンテナンスは、年に数回の頻度でしか行われない。今日行う必要があるのは、操作室の状態確認と、アトラクションの座席の軽い消毒作業だった。


 このアトラクションは、この遊園地の代表的な存在でもある。一番高くまで上ったあと、垂直に落下するだけという、極めて単純な動作でスリルを味わうものだ。月夜は主体的にスリルを味わいたいとは思わないが、ジェットコースターみたいに複雑な挙動をされるよりも、こうした動きを予想できるものの方が、まだましだと考えていた。


 火花から受け取った鍵を使って操作室に入り、壁にある照明の電源を入れる。右手の壁に各種のスティックやボタンが付いている制御盤が設置され、正面と左手には巨大な硝子窓が嵌め込まれていた。稼働時には、従業員はここからアトラクションの動作状況を確認する。


 中央には、管理棟の待機場所と同じように、テーブルが一台置かれていた。その引き出しの中にチェックシートが入っている。月夜はそれを取り出し、一つ一つの項目を確認しながら、順番に室内の状態を確認していった。部屋は比較的綺麗だったので、それほど手間のかかる作業ではなかった。


 今度は消毒用のアルコールスプレーと、ダスターを手に持って外に出る。


 制御室から繋がる円状の階段を上り、施設の内部、アトラクションの座席がある前までやって来る。消毒用のスプレーをダスターに直接かけ、それを使って座面とバーを丁寧に拭いていく。ダスターは使い捨てのものなので、汚れればすぐに取り替えることができる。


 空は相変わらず晴れていたが、今日は少し寒かった。


 遠くの方から、微かに波の音が聞こえてくる。


 工場が発する、周期的な奇妙な音も、潮風に乗ってここまでやって来ていた。


 とても落ち着く夜だ。


 頭の上には、満天とはいえないが、それなりに密度の高い星空が広がっている。


「火花は、毎日、これを一人でやってきたんだな」フィルが呟いた。「たしかに、素敵な仕事だ」


「たしかに、とは、どういう意味?」アトラクションの座面を拭きながら、月夜は尋ねる。


「お前も、そう思わないのか?」


「素敵だと思うか、ということ?」


「そうだ」


「思わないことはない」


「そういうところは、素直じゃないんだな」


 月夜は数回瞬きをし、無表情のまま答える。


「素直に、答えているつもりだけど」


 アトラクションの座席は、四つで一つの纏まりになっており、その一セットが塔の頂上まで上がり、やがて高速で落下する。四つの纏まりが全部で三つで構成されているが、それらがすべて同時に稼働することは、あまりないと火花は話していた。


 火花がいなくなっても、この遊園地は存続し続ける。


 それは、火花が生きてきた証といえるかもしれない。


 けれど……。


 たとえ初めから火花が存在していなかったとしても、きっと、その代わりになる誰かが、この遊園地の管理を行ったに違いない。


 人とは、そういうものだ。


 他者と交換できる。


 自分にしかない価値というのは、自分は自分しかいないといった、酷く当たり前のものくらいしかない。


 それだけを大切に、人はずっと生きてきたのだ。


 それだけを……。


 すべての座席とガードの消毒を終え、月夜は管理棟に戻ることにした。数分前に火花から連絡が入って、彼女の方は作業は終わり、今から管理棟に向かうところとの報告を受けていた。


 持ち出したものをすべて所定の位置に仕舞い、操作室の鍵をかけて、月夜は塔型のアトラクションをあとにする。フィルを自分の肩の上に載せ、歩きながら火花から貰ったお茶を一口飲んだ。


「昨日は勉強をしなかったが、よかったのか?」


 フィルに訊かれて、月夜は頷いた。


「たぶん」


「まあ、無理に毎日やる必要もないからな」


「うん」


「お前は、好きで勉強をしているんじゃないみたいだし」


「そう」


「勉強は、楽しいか?」


「ときどき」


「楽しいと、またやりたくなるだろう?」


「ならない」月夜は話す。「そのとき楽しければ、それでいい」


 扇形の階段を上り、カフェの中に入った。すると、いつもより室内が暖かくなっているのが分かった。待機場所に入ろうとしたが、その手前で部屋に明かりが灯っていないのに気がつく。部屋に入り、アトラクションの操作室の鍵をテーブルの上に置いてから、月夜は再びカフェに戻った。


 カフェには、円形のテーブルと、それに付随した椅子がいくつか並べられいる。階段の弧の方に向かって硝子張りの壁があり、その向こう側には桟橋があるエリアと、さらに向こう側に広がる海を一望できる。今は暗黒の海が広がっているだけだが、昼間になれば、道行く人々と、遊園地に特有の喧騒を、一歩離れた場所から観察できる特等席になるはずだ。


 ぼんやりと硝子の向こう側を眺めていたが、ふと背後に気配を感じて、月夜は振り返った。


 カウンターの内側に、火花が立っている。カフェの照明は点いていなかったから、表情は確認できなかったが、彼女は少し驚いたようだった。


「ああ、月夜さん……」火花は言った。「さっきまで誰もいなかったので、びっくりしてしまいました」


 月夜は、歩いて壁際に向かい、カフェの照明を灯そうとしたが、火花がそれを制した。彼女曰く、夜のこの雰囲気を味わいたいらしい。


 火花は再びカウンターの向こうに消えたが、すぐにまた戻ってきた。手にプラスチック製のトレイを持っている。その上には少し深さのある器が載せられており、中から湯気が上がっているのが見えた。


「それ、何?」月夜は質問した。


 火花は月夜に壁際の席に座るように促し、テーブルの上にトレイを置く。器の中にはスープが入っていた。


「よかったら、召し上がって頂けませんか?」月夜を見下ろして、火花は笑顔で言った。「ここの新しいメニューなんです。まだ、開発段階だから、お客さんに飲んでもらったことがなくて……。今日は寒かったから、ちょうどいいと思って、月夜さんに飲んでもらおうと思ったんですけど……」


 月夜は眼前に置かれた皿を見る。スープには、ホウレンソウとベーコンが入っているのが分かる。ほかにも様々な材料が使われているのだろうが、今は暗くて分からなかった。電子レンジで温めたわけではないらしい。液体の広がり方でそれが分かった。


「火花は、飲まないの?」


「ええ、私はいいんです」彼女は答える。「どうぞ、飲んで下さい」


 断らなければならない理由はなかったので、月夜はそれを飲むことにした。静かに手を合わせ、一緒に運ばれてきたスプーンを手に取る。液体を掬い、少し息を吹きかけてから、ゆっくりとそれを喉に通した。


「どうですか?」小首を傾げて、火花が尋ねてくる。


 完全に液体が喉を通り抜けてから、月夜は一度頷いて、感想を述べた。


「美味しい」


 フィルは、今は月夜の対面の椅子に座っている。彼女の感想を聞いて、彼は短く息を漏らした。


「そんなんじゃ、何の参考にもならないじゃないか」


 フィルの指摘を受け、月夜は少し考える。


「そう、かな……」


「大丈夫です」火花がフォローする。「美味しいと思ってもらえるのなら、それで……」


「ホワイトソースのとろみが、シチューとスープの中間くらいになっていて、どちらか分からない感じが、とてもいいと思う」月夜は、感想を述べ直す。


 月夜の感想を聞いて、火花は笑った。


「そうですか……。それなら、よかったです」


 小さな光の群衆が、海の向こうで煌めいている。こんな時間になっても、まだ働いている人達がいる。本当なら、身体が冷えてスープを必要としているのは、彼らのはずだ。そんな彼らを差し置いてスープを飲んでいる自分が、図々しく感じられて、月夜は少しだけ申し訳ないような気持ちになった。


 ときどき、スプーンを使って、月夜はフィルにもスープを分けた。それを飲んで、フィルは月夜よりは幾分ましな感想を述べた。しかしながら、フィルは人間ではないので、彼の感想が当てになるとは思えなかった。


 スープをすべて飲み終え、月夜は火花に礼を述べる。火花はトレイを持ってカウンターの奥に消え、数分するとまたこちらに戻ってきた。三人で待機場所へと向かい、部屋の照明を点けて、今日の確認をした。


「今日もありがとうございました」


 すべての確認をし終えて、管理棟の外に出たタイミングで、火花が言った。


 月夜は軽く頷く。


「こんな夜遅くまで一緒に作業をしてくれて、本当に助かります」


 先ほどとは反対方向に階段を下り、三人で遊園地の出口へと向かう。


 歩きながら、火花は典型的なコミュニケーションを好むようだな、と月夜はぼんやりと考えた。挨拶というのがその最たる例だが、火花はそうした形式的なやり取りを好むようだ。彼女の言葉遣いからもそれが感じられる。火花が話す内容はいつも薄味だが、表現の方法については、彼女に特有な丁寧さが確立されているように思える。


 昨日もそうだったが、最後には遊園地の出入り口の門を閉める必要がある。ここは常時監視カメラで撮影されているから、今の月夜や火花の姿も捉えられているに違いない。


 鍵は電子的なものではなく、原始的なもので、左右の格子状の扉を閉めたあと、三本のバーを横にスライドさせることで施錠される。一般的に閂と呼ばれている機構で、防御としては脆弱だが、門は越えようと思えば簡単に越えられるようなものだから、この程度のものでも良いのかもしれない。


 左には簡易な松林が広がり、このまま道を進めば、モノレールの駅に到着する。しかし、今はそちらには向かわず、左手の階段を下りて、海沿いの道を歩くことにした。火花は、今日も夜になるまでこの辺りを散策すると話していた。


「ずっと外にいて、大丈夫?」


 気になったから、月夜は火花に質問した。


「ええ、大丈夫です。もう、慣れているので……」


 夜になるまで海の傍で過ごすというのが、月夜にはあまり理解できなかった。何をして過ごすのか、想像できない。たしかに、海は眺めているだけで心地の良いものだが、同時に時間の流れをゆっくりと感じさせる。やれと言われればできるできるかもしれないが、月夜には、一日中そうしていることで、相応の利益を得られるようには思えなかった。


「火花」月夜は声を発する。「よかったら、うちに来る?」


 月夜の提案を受けて、火花は驚いたような顔をした。それから時間をかけて笑顔に戻り、彼女らしい口振りで言葉を発する。


「嬉しいですが、遠慮させて頂きます」彼女は答えた。「私は、ここで充分ですから……」


「寒くない?」


「もうすぐ春になりますし……。少しずつ暖かくなっていくのを感じるのも、いいものです」


「そう……」


「月夜にしては、精一杯の勇気を振り絞ったんだがな」横を歩いているフィルが、呟くように言った。


「……そうなんですか?」火花は月夜の顔をじっと見つめる。


「自分では、そうは思わないけど、フィルがそう言うのなら、きっとそう」


 線香花火のようにやんわりと、しかし声を上げて、花火は笑った。


「それは、ごめんなさい……。でも、私のことは気にしないで下さい」


 まだ太陽は昇っていない。ここにいれば日の出を見られるかもしれないが、月夜は特に見たいとは思わなかった。


 静寂に包まれた砂浜を、火花と一緒にゆっくりと歩く。フィルは、今は月夜の腕に抱かれて、気持ち良さそうに目を閉じていた。


 海は、生命の原初とされているが、本当にそうだろうか、と月夜は考える。もしそうなら、人間も少しくらい泳げても良いはずだ。もちろん、そんなことは生命の進化とは関係がない。ただ、海に対する憧れはあるのに、実際に入ると溺れてしまうというのが、若干不自然なように月夜には思える。


 海や空を見て、美しいと感じるのは、人間に初めからそういうプログラムが組み込まれているからなのか、それとも、誰かにそう教えられたからそう感じるのか、そのどちらだろうか。月夜には、誰かからそうした言葉を吹き込まれた覚えはない。けれど、海や空は、なんとなく見ているだけで心が落ち着く。


 火花は、ずっと海の傍で生活してきたから、もう、海には飽きてしまったかもしれない。しかし、人間は皆同じ空の下で暮らしている。見上げることが少ないから、飽きるには至らないだけかもしれないが、それでも、毎日天気のことを気にする人は多い。


 理由のつかないことや、説明のできないことが、この世界には溢れている。それらに理由をつけ、説明をし、そうやって謎をどんどん解消していくのも悪くはないが、そのままにしておくのも、また一つの方法かもしれない。


 でも……。


 自分にはそれができないことを、月夜は知っていた。


 どんなものにも、理由を求めてしまう。


 どんなものにも、説明を求めてしまう。


 それらの精度には、実のところあまり拘りはない。ただ単純に、何でも良いから、理由や説明が欲しいだけだ。


 そう……。


 そうやって、自分は今まで安心を得てきた。


 理由や説明がないものを目の当たりにすると、不安になる。だから、そういうものに直面したら、理由や説明を探すか、自分から逃げてしまうか、どちらかを選ばなくてはならない。


 今は、どちらだろう?


 ……?


 今?


 唐突に火花が立ち止まり、その場にしゃがんで砂の中に手を伸ばす。彼女の手の先には白い大きな貝殻が埋まっていた。耳に当てれば波の音が聞こえるといわれる、あまりにも典型的すぎる巻き貝の一種だ。彼女はそれを持って立ち上がり、月夜に向かって笑いかけた。


「こんな貝を見つけられたのは、初めてです」彼女は言った。「月夜さんと一緒だと、運がいいのかもしれませんね」


 巻き貝を耳もとへ持っていき、火花は黙って目を閉じる。月夜はそんな火花の姿を見つめていた。


 月夜は、彼女を綺麗だと思った。


 綺麗……。


 どんなものにも肯定的な態度を示せる、便利な言葉だ。


「波の音は、聞こえませんね」目を開き、火花は月夜を見て話す。「どういう原理で聞こえるんでしょう?」


 月夜は黙って首を振る。


 火花がまた歩き始めたから、月夜も彼女の隣に並んで足を進めた。


 先ほどの喜んだ様子が嘘だったかのように、火花はすぐにもとの表情に戻る。足もとを見つめながら一歩ずつ歩いていく姿は、姿勢制御が上手くいかないロボットのようにも見えた。


「火花」月夜は呟く。「やっぱり、私の家に来ていいよ」


 火花はゆっくりと顔を上げ、また月夜の顔を見る。少し困ったような目をしていた。


「嬉しいですけど……。でも、やはり、遠慮させて頂きます」


「本当は、来たいんじゃないの?」


 沈黙。


 火花は微笑む。


「ええ、そうなんです……。そんなふうに誘われることはなかったから、実は、今、とても嬉しいんです。けれど、私にはそれは叶いません。できないんです」


「どうして?」


「これ以上は言えません」


 そう言ったきり、火花はまた黙り込んでしまう。


 月夜の腕の中で、フィルが大きく欠伸をした。まるで、二人の会話が途切れたタイミングを見計らっていたようだ。そうやって空気を一定の濃度に保つことに、彼は自分の役割を見出しているのかもしれない。


「じゃあ、分かった」月夜は言った。「今日は、私が、火花と一緒にここにいる」


 火花は、また顔を上げる。


 そして、月夜の顔を見た。


 また、笑っていた。


「……本当ですか?」


 否定されると思っていたから、月夜は火花の返答が意外だった。


「うん」


 再び否定されないように、月夜はすぐに肯定しておく。


「家に帰っても、することはない。それなら、今日くらいは、火花と一緒にいるのも、いいかもしれない、と思った」


 火花は、また、下を向く。


 考える素振り。


「それなら、一緒にいてもらいたいです」


 歩く速度に合わせて生じる、一時的なブランク。


「自分勝手な願望ですけど……、……いいですか?」


「私が提案したんだから、自分勝手な願望ではないよ」


 月夜の答えを聞いて、火花は笑った。


「そうですね……。それなら、そういうことにして、一緒にいてもらいたいです」


「分かった」


 砂浜の終わりはまだ見えない。太陽が姿を見せる気配もなかった。


 頭上に広がるのは、満天の星空。


 今日も、月は見えなかった。

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