第3章 諸行無常

 海水浴場の敷地を出て、行きに来たのとは反対方向に道を進む。空はまだ暗い。住宅街に入っても、家の窓に明かりは灯っていなかった。街灯は変わらず光を発し続け、規則的な光の羅列が向こうまで続いている。


「気に入ってもらえたみたいで、よかったな」


 暫くの間無言だったが、唐突にフィルが口を開いた。


「火花に?」月夜は訊き返す。


「そう……。彼女、どちらかというと気が弱い方だからな。お前に会うまで、少し心配していたんだ」


「そういえば、どうやって、フィルは彼女と知り合ったの?」


 月夜の質問を受け、フィルは数秒間沈黙する。


「散歩をしていて、偶然出会ったと言ったら、信じてくれるか?」


 顔を少し傾けて、月夜は肩に載っているフィルを見る。


「信じようとは努力するけど、信じられるかは、分からない」


「まあ、そうだろうな」


「本当に、そういう経緯で、彼女に出会ったの?」


「その質問に対する回答は、今のところは保留だ」フィルは言った。「隠すようなことではないが、余計に混乱を招くだけだ。まあ、お前が想像しているように、一緒に過ごした時間が短いわけではない。彼女は俺の正体も知っているし、お前のことも、俺ほどではないが知っている」


「どうして?」


「今は答えられない」


「答えたくないの?」


「端的に言えば、そうだ」


 月夜は顔を正面に戻す。


「分かった」


「気分を害したのなら、謝る」


「害されるような気分が、私にはない」


 フィルは月夜の肩から飛び降り、彼女の隣を歩き始める。猫の歩行速度は、大小関係を人間のそれに合わせて考えれば、それなりに速い。比較の対象が小さくなるほど速度は上がるから、蟻くらいのサイズになると、驚異的な速度で歩いていることになる。


 住宅街を進み、横断歩道を渡って反対側の歩道に至る。そのまま直進して角を曲がり、やがて最初の大通りに戻ってきた。


 自動車の走行音が聞こえる。周囲に立ち並ぶ建造物が、それらを上手い具合に緩衝しているようだった。


「少し、休んでいかないか?」フィルが言った。


「どこで? なぜ?」月夜は尋ねる。


「場所は、どこでも。まあ、でも、海に近い所がいいな。理由はない。しいていえば、疲れたからだ」


「じゃあ、どこかで、休んでいくことにする」


「素直で結構」


「それは、素直イコール結構、という意味?」


 大通りを直進し、駅の前にあるバスターミナルの手前で左に曲がる。その道の頭上には、モノレールの線路が通っている。モノレールに乗れば、先ほどまでいた海水浴場まですぐに行ける。


 駅の近くにあるこの一帯は、ちょっとした港のような扱いになっている。といっても、一般人を乗せる船が来ることはない。漁をするための船がほとんどで、ときどき環境関連の団体が調査に来ることもあった。


 海に沿って作られた遊歩道を、二人で暫く歩く。途中で現れた椅子に腰を下して、そこで休むことにした。


 この時間帯は、モノレールは走っていない。海の中に建てられた線路を支える脚が、何本か遠くの方に見える。


 風は少し冷たかった。ただ、月夜には、それでちょうど良く感じられた。


「いいな、こういう感じ」一丁前に一人用の椅子に座ったフィルが、誰にともなく呟いた。「落ち着いていて、心が洗われるような感じがする」


「心が洗われる、とは?」


「清々しい感じがして、何もかもどうでも良くなって、ついには、自分が存在するのかどうかも分からなくなるような感じだ」


 月夜は黙り、フィルが言った言葉の意味を考える。


 フィルは、そんな月夜の横顔を見つめていた。


 月夜は、フィルに自分の横顔を見つめられていた。


 彼女は彼の方を向く。


「何?」


「考え事をしている少女の横顔は、綺麗だ」


「そう?」


「ああ」


「どうして、そう感じるのかな?」


「理由を求めてはいけない。理由を探し始めた途端に、それは綺麗ではなくなる」


「綺麗が、消えてしまう?」


「そうだ」


「それは、どうしてだろう?」


 フィルは苦笑いする。


「また、お前のよくない癖が出たな」


「うん……。あまり、自分の制御は得意じゃない」


 今は潮は引いているが、雨が降ったり、満潮になると、この遊歩道まで海水に浸ることがある。


 月夜は、水の上を歩いてみたいと、唐突にそんなことを思った。


 それは、よくあることだ。


 本当は、歩いていみたい、と、願望として感じるのではない。


 そうとしか表現できないだけだ。


 水の上を歩く行為を試みる、そのプロセスを客観的に観察することを、体験する。


 それを、実行に移すことを、してみたい、と表現するしかないが、本当は、してみたいのではない。


 そこまで強い気持ちではない。


「火花と自分の間に、どんな関係があるのか、考えているのか?」


 フィルに問われ、月夜は頷いた。


「そう……。……よく、分かったね」


「お前のことは、大体分かるようになった」


 月夜はフィルを見る。


「それは、純粋に、嬉しい」


「そんなことを普通に言えるのも、お前の美点だ」


「そうかな?」


「そうさ」


 背後の通りを、自動車が走り抜けていく。やがて走行音は遠ざかり、完全に聞こえなくなる。救急車のサイレンのように、音の変化を認識することはできない。


「火花がお前に手伝ってもらおうとしていることは、それなりに重要だ」フィルは言った。「彼女一人ではとてもできない。……彼女が自分の寿命が長くないことを知ったのは、本当に最近のことなんだ。だから、準備が間に合わなかった。そんなに突然時間が限られるとは、彼女も想像していなかったんだろうな」


「どうして、急にそんなことになったの?」


「詳しいことは、俺にも分からない。ただ、彼女は、自分でそう悟ったと話していた。彼女にだけ分かる何かが、起きたんだろう」


「手伝うのは、私じゃないと、駄目なの?」


「作業そのものは、お前じゃなくても、二人いればどうにかなる。ただ……。もう、火花はお前を気に入ってしまったんだ、月夜。最後まで付き合ってくれないか?」


「私は、構わない」


「彼女の使命は、あの遊園地の設備を維持することだ。遊園地に来る客のためと言えば聞こえはいいが……、本当は、彼女自身のためなんだろうな。それが、彼女に与えられたただ一つの役割だったのだから……」


 その場で暫くの間風に当たっていたが、家に帰ることにした。しかし、今の時間はもう電車は走っていない。だから歩いて帰るしかなかった。


 ここから月夜の家までは、歩いて帰れないほどの距離ではない。ただ、少し遠い。普通なら電車で帰る道程を歩くのだから、それなりに時間はかかるし、その分労力も使う。良い運動になると思って歩くしかない。


 駅に向かい、階段を上がって、再び下りる。道はずっと向こうまで線路沿いに続いている。


 暫く進むと、彼女が通う高校の校舎が見えてきた。当然、今は誰もいないはずだ。春休みとなると、出勤する教師もあまり多くはない。部活動に関しては、昼間の時間帯にはいくつか校舎内で行われている。もちろん、この時間帯に実施しているところはない。


 途中で歩道橋が現れたが、今は渡る必要はなかった。


「月夜は、あと、何回この道を歩くんだろうな」フィルが言った。


「二回か、三回くらいだと思う」月夜は答える。「いつも、電車を使うから、歩くことは、今後もあまりないと思う」


「でも、明日も同じような状況になるかもしれないぜ」


「そう……。それなら、もう少し、あるかも」


「もう、一年もしたら卒業だな」フィルは言った。「進学先は、決めているのか?」


「まだ、決めていない」


「未来への想定は、なるべく早い方がいい」


「計画しても、その通りになるとは限らないよ」


「偶然に頼るってことか?」


「そういう生き方も、ありだと思う」


「なるほど。柔軟に考えられるようになったんだな」


 月夜は沈黙する。


「毎日勉強しているから、月夜なら、大丈夫さ」


「何が?」


「いざ、受験をすることになっても、何も戸惑うことはない、という意味だ」


「そうかもしれないけど、大学に行っても、自分がしたいことはない」


「じゃあ、就職するのか?」


「仕事も、する必要はない」


「次にお前が言うことは、分かった」


「うん……。……私は、どうしたらいいのかな?」


「とりあえず、あと二年半くらいは、行きていかなきゃならないんじゃないのか?」


「そうだね」


「それまでの辛抱だ。あとは、どうにでもなる」


「どうにでもなる、というのは少し違う気がするけど」


「彼に、会いたいのか?」


 月夜は顔を横に向け、フィルを見る。


「会いたい」


「素直な願望だな」


 月夜は頷く。


 彼女の中で最も強い願望が、それだった。それくらいしか、生きていく目的はないといっても過言ではない。けれど、本当は違った。それすらも、自分の正直な願いではないかもしれない。実際に、今日まで一度も会わなくても何も困らなかったし、会いたいと心の内で思っているだけで、実際に行動に移そうとしたことは一度もなかった。


 自分がしたいと思うことは、所詮その程度なのかもしれない、と月夜は思う。


 生きている理由や意味、そして目的というものは、最終的には、自分がどうしたいのか、その願望に頼って答えを出すしかない。他人から与えられたものに従事しているだけでは、死んでいるのと同じだから、それなら死を選んだ方が良い、といえる。あくまでそう考えられるだけだが、事実として月夜はその通りだと思っていた。


 死んでも、楽にはなれない。死んだら、楽だと感じる自分も、どこかへと消えてしまう。それでも死を選ぶのは、自分の存在が完全になくなって、それでもなお、その状態が良いと思える場合だけだ。多くの人間は、自分が死んでも、その死を認識できる自分がどこかに存在すると考えている。意識的に考えてはいなくても、心のどこかでそんなことを想定している。自殺とは、そうした考えから生じる行為だ。楽になりたいのであれば、自殺をするのが最適解だとはどうしてもいえない。


「まあ、ゆっくり考えるといいさ。まだ、時間はある。特に、お前なら、時間の流れも、あまり意識しないで済むんだろうから」


「どういう意味?」


 疑問に思って、月夜は尋ねる。


「別に」フィルはそっぽを向く。「そのままの意味だ」


 一時間半ほど歩き続けて、二人は家に帰ってきた。


 自分の部屋に入り、月夜はそのままベッドに横になる。


 風呂に入る気にはなれなかった。今入っても、明日の朝に入っても、何も変わらない。

 そこまで考える前に、すでに彼女は眠りに就いていた。





 次の日の夜も、月夜はフィルと一緒に遊園地に向かった。電車に乗って、昨日と同じ道を歩く。今日も空は晴れており、空気もあまり冷えていなかった。昨日と同様に、月夜は今日もシャツにズボンを身につけている。ただし、昨日とまったく同じ色ではなかったし、趣向も少し異なっていた。


 海水浴場を抜け、斜張橋を渡って遊園地に入る。管理棟に向かう前に、噴水の傍の傾斜地帯で、火花が待っていてくれた。彼女について一緒に遊園地の中を歩き、管理棟がある場所までやって来る。


 カフェの中に入り、待機場所に入ってから、月夜は火花からトランシーバーを受け取った。ごく単純な機構のもので、特に免許は必要ない。周波数はすでに揃えられているから、話すときにはボタンを長押しするだけだ。電話との違いは、同時に双方から声を発することができない点だろう。一方の話を聞いて、もう一方がそれに対する応答をする。齟齬が生じにくいので、月夜はそのシステムが好きだと感じた(明確に、好き、といえるほどではないが)。


「今日は、まず案内したい所があるんです」再び管理棟の外に出たところで、火花が月夜に言った。「期限までに私が何を完了させなくてはならないのか、その説明をするためには、実際にそこまで来てもらった方がいいと思うので……」


「場所が、重要なの?」


「秘密なんです」火花は少し笑った。「これを知っているのは、ここの従業員の中でも限られた人たちだけです。私と、あとは、管理人の中の数人くらい……」


「それを、私に教えてしまって、いいの?」


「ええ、もちろん。そのためにお呼びしたので……」


 分かったという意味を込めて、月夜は頷いた。


 扇形の階段を正面側に降り、月夜は火花について歩いた。現在では、月夜とフィルは二人で一セットだから、その秘密とやらは必ず彼も目にすることになる。それについて火花に尋ねたところ、彼女はまったく問題ないと返答した。彼が秘密を漏らさないと確信しているのか、それとも、彼にそこまで考え及ぶ知能がないと思っているのか、どちらだろうか、と歩きながら月夜は考える。


「そんな失礼なことを考えるな」


 月夜の隣を歩きながら、フィルが呟いた。


「うん、ごめん。自分でも、変だな、と思った」月夜は応じる。


「変だな、では済まされない。お前にそんなレッテルを貼られたら、俺はもう一生立ち直れない」


「それは、さすがにオーバーだと思う」


「本気だ」


「そう?」月夜は彼を見て、謝った。「ごめんね」


 道を左に進み、巨大な建物の前にやって来る。青と水色が印象的な箱型の建物で、それが水族館だった。どこかの美術館に似ている形をした建造物が、そのすぐ傍にある。それは三角形の平面を三枚組み合わせたような形をしていて、白い小さな三角形のパネルがさらにその表面を覆っていた。


 火花は、その建物の壁に触れる。どうやら、生体認証システムが導入されているらしい。それは、この中にあるものが、それほど重要であることを意味している。それほどどは、どれくらいだろうかと月夜は思ったが、今は余計なことは考えないことにした。


 壁面の一部にスリットが入り、隠されていた扉が現れる。この建物は水族館のシンボル的なもので、はっきりいって周囲から目立つ。目立つ場所に重要なものを隠すのは、機密の隠蔽に関する典型的な手法だ。諺では、灯台下暗しという。


 扉の先は真っ暗だった。火花が足を踏み入れても、照明は灯らない。もしかすると、そもそも照明自体存在していないのかもしれない。


「暗いので、足もとに注意して下さい」火花の声が空間に木霊する。


 火花が手を差し出してきたので、背後で扉が完全に閉まる前に、月夜は彼女の手を握った。


 火花に手を引かれたまま、月夜は前へと進む。フィルは猫だから、暗闇でも周囲の様子を観察できるらしい。猫だから、というのは理由になっていないが、その原理を月夜は詳しく知らないので、仕方がない。


 暗闇の先は階段だった。一段ずつ、転ばないように注意して進んでいく。火花がペースを合わせてくれたお陰で、月夜はなんとか下層まで下りることができた。


 唐突に、火花の手が離れる。


 彼女の足音が響いた。


 周囲が強烈な光に照らされ、月夜は思わず目を瞑りかける。


 それから、ゆっくりと確かめるように瞼を持ち上げ、彼女は目の前に広がる光景を目の当たりにした。


 箱型の巨大な筐体が、壁を埋め尽くしている。赤や緑のランプが一定の周期で点滅し、まるで生きているように信号を発し続けていた。箱型の筐体は、全部で三つ配置されている。すべて壁際に寄せて置かれており、中心の筐体の前に椅子が一台あった。


「ここが私の作業場所です」椅子に近寄りながら、火花が言った。「大抵はここで作業を進めています」


 火花の後ろ姿を眺めながら、月夜は周囲に注意を向ける。こうしたものを目にしたことは、彼女はほとんどなかった。自分とは関わりがないし、学校の情報室でも、これほどのコンピューターが並べられている部屋はない。


「これは、何のためのもの?」


 気になったことを、月夜はそのまま口に出した。


「私がいなくなっても、この遊園地を管理できるようにするための装置です」


 火花は椅子に腰かけ、その前にあるディスプレイに向かう。手もとにはキーボードがあり、彼女はそれを操作した。


 何度かキーが叩かれると、筐体の上、頭上の空間にスクリーンが投影された。そこには数々の文字列が並び、人間では視認できないほどの速度で上へスクロールしていく。終わりは見えず、どこまでも記号が並んでいた。


 火花は後ろを振り返り、月夜に笑いかける。


「私の役割は、この遊園地の管理をオートで行うための、プログラムを完成させることです」


 火花は、自分が一人のプログラマーとしてこの遊園地の運営に携わっていること、その作業がほかの者にはできないことを、掻い摘んで説明した。彼女が言ったように、今制作しているのは遊園地の設備をコンピューターで完全に制御するためのプログラムだ。普通なら、コンピューターで、しかも完全に、人が扱うものを管理することはできない。しかし、現段階ではすべてを人が管理しており、そして、それを完全にコンピューターで管理する術を生み出せる可能性を持つ者は、自分のほかには存在しない。だから自分がそれをするしかないのだ、と火花は説明した。


「ごめん……。よく、分からない」入り口の付近に立ったまま、月夜は感想を述べる。


「ええ……。私も、そうだと思います。実は、私自身よく分かっていないんです。でも……、これが、生まれたときから定められていた、私の唯一の役割なんです。アトラクションの管理をしたり、園内の掃除をしたりというのもそうですけど、私の一番の目標はこれなんです……」


 月夜には、火花の説明の三分の一ほどしか理解できなかった。その内のほとんどが、事実に対する理解でしかない。その事実を支える理由については、彼女の説明からは分からなかった。


 なぜ、それらのプログラムを組むことが、彼女にしかできないのだろう?


 月夜が一番疑問に思ったのは、そこだ。それ以外にも、遊園地の管理をすべてコンピューターで行わなければならない理由など、不思議に思うところはある。けれど、火花の説明を聞いて月夜が真っ先に知りたいと思ったのは、その役割を与えられたのが、その目標を達成できるのが、火花であること、火花一人しかいないこと、その理由だった。


 しかし……。


 火花は、それすらも、分かっていないと言った。


 では……。


 分かっていないということを、どうして、彼女は分かっているのか?


「月夜さんには……。昨日手伝ってもらったように、園内のメンテナンスをしてもらいたいんです」椅子に座ってこちらを向き、火花は月夜に説明する。「今までは、このプログラムを完成させるための作業と、それらのメンテナンスを、夜の間私一人で担当してきました。けれど……。もう、私には両方を並行してできる時間がありません。だから、私がこちらの作業に集中できるように、手伝ってもらいたいんです」


 立ったまま、月夜は隣にいるフィルに目配せする。


 彼は少し首を傾げ、目を細めた。


「私は、構わない」月夜は応える。「火花が、それでいいと言うのなら……」


「手伝って、もらえるんですね?」


 月夜は頷く。


「どうもありがとう」火花は笑った。「助かります」


 火花は、自分に残された時間は二週間だと月夜に伝えた。二週間といえば、ちょうど春休みと同じくらいだ。それまでに、プログラムを完成させ、彼女は自分に与えられた役割を全うしなくてはならない。


「我々にどんな事情があっても、お客さんは毎日やって来ます。その人のためにも、設備の維持や、園内の清掃は欠かせません。……どうか、よろしくお願いしますね、月夜さん」


 そう言って、火花は、にっこりと微笑む。


 今までも、何度か、そんな表情を、月夜はほかの誰かの内に見てきた。


 しかし……。


 彼女ほど純粋にその中に秘める感情を表す者は、誰もいなかった。


「火花は、本当に、それでいいの?」


 月夜は同じ質問を繰り返す。


「いいんです。それだけで、私は充分嬉しいんです」火花は答える。


「分かった」月夜は、今度は少し大きく頷いた。「私は、火花の代わりに、園内の管理をします」


 三角形のモニュメントの外に出て、月夜は管理棟に向かった。鍵は今は開いている。トランシーバーを洋服の襟の辺りに装着し、箒と塵取りを持って、月夜は再び管理棟の外に出た。


 今日の仕事は、土産ものなどが売られている、商店街の清掃だった。商店街といっても、それは室内にあるから、それほど広いわけではない。桟橋のあるエリアから右手に向かい、階段を上ると、その商店街へと続く硝子扉に到着した。


 室内に入り、月夜は早速作業を開始する。


 こちらには、大きな塵はあまり目立たなかった。しかし、室内故に少しでも砂や落ち葉があると、汚れている印象を受けやすい。箒と塵取りを使ってそれらを回収し、一定量溜まったらビニール袋へと移す。その単純な作業を、商店街の端から端まで行う必要があった。


 当然、すべて店舗は閉まっている。店内まで掃除をする必要はないので、十時状になった道を掃けばそれで良かった。


「何の戸惑いも見せずに、他人の要望を受け入れるのは、如何なものかな」


 掃除をしていると、フィルが唐突に口を開いた。彼は、今は月夜の肩に載っている。箒で掃く際に邪魔にならないようにするためだ。


「火花のこと?」掃除を続けながら、月夜は彼の指摘に応じる。


「まさか、あんなことを言われるとはな。色々と想像していたが、あまりにもスケールが大きすぎて、俺は驚いたぜ、月夜」


「私も」


 フィルは月夜を見る。


「全然そんなふうには見えないが」


 客は外から入ってくるから、床は意外と汚れている。海も近いから、靴が濡れることもあるのか、砂や泥が付着しやすいのかもしれない。


「フィルは、火花のことを、どこまで、知っているの?」


「俺か?」フィルは首を傾げる。「あまり深くは知らない。彼女がどのような環境にいて、どのような状態なのか、事実を把握しているだけだ」


 把握できるのが事実だけというのは、先ほど火花から説明を受けて、月夜も感じたことだった。それらを支える理由については、明らかになっていない。


「フィルなら、それでも、火花に協力するって、言うんじゃないの?」


 フィルは不思議そうな目で月夜を見る。


「どうしてそう思う?」


「いつも、そうだから」


「俺がか?」


「うん……」


 月夜の肩で喉を鳴らしながら、フィルは息を吐き出すように笑った。


「たしかに、そうかもしれないな」彼は話す。「それはお前の性質かと思っていたが、どうやら、俺にもそういう面があるみたいだ。反省しないといけない」


「反省? 何を、どう、反省するの? 反省する必要があるの?」


「ないとはいえない」


「それは、どんなことでも、どんなときでも、同じ」


「俺は、きっと、火花が好きなんだ」フィルは説明した。「好きでさえあれば、どんなことを頼まれても、できるだけ協力しようとする。そうか……。俺は、自分で思っている以上に他者の存在を好むみたいだな。いや……、すぐ傍に他者がいる状態を、好む傾向があるといった方がいいのか……」


「フィルが、そんなふうに内省するのは、珍しい」


「お前とずっと一緒にいたせいで、自分の姿が見えづらくなっているんだな、きっと」


「どういう意味?」


 月夜が尋ねると、フィルは鋭い目つきで彼女を睨んだ。


「俺とお前は、似ているってことだ」


 フィルにそう指摘されても、月夜はなるほどとは思わなかった。過去に、すでにそう感じたことがあったからだ。


 どこがどのように似ている、と具体的に説明することはできない。ただ、今日までこんな微妙な関係を維持できたのは、お互いに似ている部分があり、それを確かめ合うようにしてきたからだと考えることもできる。


 相手が自分と似ているのなら、わざわざ大嫌いな自分を見なくて済む。


 相手が、どれほど自分と似ていていも、相手は相手だ。


 だから、自分たちは一緒にいたのかもしれない。


「しかし、それもまた、捉え方によっては、プラスになるな」


 フィルの言う通りだと思ったので、月夜は頷いた。


「今回ばかりは、俺も協力的になるとしよう」フィルは言った。「お前が火花の望みを叶えるのを手伝うと言うのなら、俺も全力で加担する」


「それは、今までも、そうだったんじゃない?」


 月夜がそう言っても、フィルは何の反応も示さなかった。


 けれど、数秒経過した頃、彼は声を上げて小さく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る