【気絶する母】~夜条風華家~
崇爛城周囲の崇泰内地は複数の大寺院、市場があり、貴族など上位階級者が多く居住している。市街地に近いほど階級が低く、皇宮に近いほど身分が高い。
最奥の外壁付近は名門が付く貴族の屋敷が立ち並んでおり、中でも一際目立つ屋敷は夜条風華家だ。先祖代々皇帝に粉骨砕身仕え、戦時、生涯を捧げてきた夜条風華家は、揺るがぬ忠誠心と功績が称えられ爵位の恩賞を授かった。加えて責任を尽くす子孫に他の爵位家と比べられない広大な土地が与えられている。皇帝の寵愛を受けた夜条風華家の屋敷の存在感は言わずもがなであった。
――戌の刻の初刻、上弦の月が帝国の空に薄っすら現れる。
いつもは静かな夜条風華家の屋敷、しかし今夜は少し事情が違った。
「え、縁談を受けるですって!?」
驚愕した叫びが敷地を優に飛び越える。普段はお淑やかな夜条風華円の妻、
「茜音様!」
「茜音様お怪我は!?」
女中達が茜音に駆け寄った。けれど茜音は右手で「濡れていないわ」と仕草をし、物凄い剣幕で夫の円に詰め寄る。
「円! 説明してちょうだい! 脅されているの!?」
「足元に気を付けて、早く雑巾持ってきて! 旦那様っ、お話はあちらでなさって下さい!」
「ああ、すまん」
女中達が濡れた床の掃除に取り掛かり、場は途轍もなく騒がしい。円は首裏を摩って謝ると茜音の背中を押して隣の部屋に移動した。
「母上、落ち着いて下さい」
数週間ぶりに帰宅した煌侃が宥めるが効果はない。
「やっと帰ったと思ったら
怒鳴ったかと思いきや、茜音が二人を交互に見、さっと青ざめる。あらぬ方向に捉えているのか、精神的に追い詰められた様子だ。
「茜音、落ち着きなさい。私も煌侃も脅されていない。はあ……、実は――」
茜音の荒立つ気を逆なでしないよう、両肩に手を置き、円はゆっくり丁寧に経緯を説明した。昌映が夜条風華家の未来と煌侃の気持ちを汲んで持ち掛けてくれた縁談の事、煌侃の想い人の麗優淑と言う平民の
相槌も打たず黙していた茜音が口を開いた。やや俯き加減がこわい。
「煌侃、
「……はい」
「誰かの強要や脅しでなく、貴方が望む婚姻なのですね?」
「……はい」
「縁談のお相手、優淑ちゃんも、
「……幸運に」
煌侃が肯定する。数秒の沈黙後、茜音が独り言ちた。
「煌侃に好きな子が……、その子と煌侃が……、ようやくこの日が……」
「茜音?」
円がぶつぶつ呟く茜音を覗き込んだ。刹那、茜音の体が崩れ落ちる。
「――っと」
「母上!」
円がしっかり受け止め茜音は無事だ。
「気絶したな……」
「……気絶、ですか」
「まったく……」
頬を伝う涙に円が苦笑した。夫ならわかる、これは嬉し涙だ。諦めかけていた息子の縁談が良い形で決まり、歓喜の気絶と言うべきか、余程安堵したに違いない。
息子の煌侃はいまいち状況が理解できず、茜音の涙を拭い円に問うた。
「母上は賛成してくれるでしょうか」
親不孝はしたくない。煌侃の懸念を纏う語調に、円は意地悪な物言いで返す。
「反対すれば諦めるか?」
「いえ、説得できると信じています」
「宜しい。安心しろ、お前の杞憂だ。心の準備をしておけ、茜音が起きたら煩いぞ」
そして円の言った通り、目覚めた茜音は矢継ぎ早に優淑に関する質問をし続けた。茜音に捕まっている煌侃が円に助けを求めたが、円は素知らぬふりで「ほどほどにな」などと欠伸をし先に休む始末だ。
「早く会いたいわ、優淑ちゃんに」
喜色満面の茜音に無論、煌侃も悪い気はしない。されど明日の朝が早い煌侃、疲れた身体で侍衛は務まらない故に悩みに悩んで、胸いっぱいに空気を吸い込み、告げる。
「恐らく武道演武大会で会えますよ、母上」
結局、母親に付き合う決心をした。優しい選択だ。よもや徹夜する羽目になるとは、煌侃は夢にも思わなかっただろう。
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