第十話:私情


 武道演武大会を二日後に控え、武官達がこなす演練量は日に日に増していた。崇爛城に仕える武官達が肉体的、精神的に追い込まれ始めた頃、何故かひとり活力の損失がない男――煌侃は演練が終わった後、休憩がてら宿泊、仮眠、待機、する兵留房へいりゅうぼうに向かう疲労困憊な侍衛とは異なり、演服を着替え終えると兵軍処へいぐんしょでやり残していた雑務作業に取り掛かる。


 煌侃の正面に座るフォンネスが愚痴を零した。部屋にトントン響く音の出所はフォンネスの人差し指、彼の行儀が悪い癖だ。


 げっそり両頬をしぼませるフォンネスに生気は欠片とない。


 「何で俺達、仕事してるのかな~」


 「私に構わず休め、フォン」


 場面は一転、煌侃は生き生きと筆を走らせている。フォンは不満を塗った相形そうぎょうだ。


 「何があった?」


 「――?」


 煌侃は無言で片方の眉尻を上げた。


 「何かなきゃ頑張れないじゃん。金? 遊び?」


 「お前はな」


 「ごめんなさい」


 ぐうの音も出ない。フォンネスは白銀の頭を抱え、再度、へし折れた心を奮い立たせる。彼が書く日誌は一行も進んでいない。


 「何があったんだよ煌侃、あ――さては優淑ちゃん?」


 「――ッ」


 煌侃の色素の薄い茶色の瞳が揺れた。


 「優淑ちゃんと何があったんだ?」


 「…………」


 フォンネスの追及に煌侃は無視を決め込んだ。


 「ばったり遭遇しちゃった?」


 「…………」


 フォンネスは完全に場に存在しない者として扱われている。自分を度外視する煌侃に膨れっ面で痺れを切らしかけたとき、扉代わりのカーテンがバサリ羽を広げ、「失礼」と男が無遠慮にずかずか入ってきた。


 縦襟型の軍服は深縹色こきはなだいろだ。官帽のバンド部分にスミレに囲まれた内務省専用独自の帽章が描かれている。


 「夜条風華侍衛はいるか?」


 内務府大臣、格式ある官職を担う夜条風華円だ。兵軍省は崇爛城内城の宮中、内務省は崇爛城・黄竜門正面の外城に拠点がある。管轄が多少違うため、何かしらの機会で陛下の御前に呼ばれない限り滅多に遭遇しない。


 故に煌侃は自分を訪ねた父が珍しく、驚いた様子だ。煌侃とフォンネスは起立し、胸に右手の拳を当て敬意を示した。


 「内務卿ないむきょう


 「いい、いい、適当に休みなさい」


 円が指先で払う仕草をする。円は芯が強く生き方にポリシーがあり、少々の問題では動じない。自分に厳しく失敗を真正面から受け止め、修正し、次に生かす強い精神力がある。常に謙虚、階級が下であっても横暴な態度にならない。

 実力、実績、人格ともに申し分なく、上層下層に好かれる彼の所以ゆえんを煌侃の幼馴染フォンネスはよく理解していた。


 「ご無沙汰しております、内務卿」


 挨拶したフォンネスの肩を叩く円が笑みを瞼に浮かべる。


 「フォンネス、恙無つづがなくやっているか」


 「はい。お陰様で」


 「結構」


 円にとってフォンネスも又、息子同然の存在だ。満足気に頷く円は早速、自分が兵軍処へ来た目的を果たすべく、煌侃に前触れもなく告げた。


 「煌侃、お前に縁談だ」


 「―――!」


 唐突な報告に煌侃は無論、フォンネスも驚愕する。


 「私の母上がお前に選んで下さった女子おなごだ」

 

 「大母おおはは様が!?」


 更なる事実に煌侃は狼狽した。自分の意思は伝えたはずだ。


 「お前も母上の縁談は断れんだろう」


 「……父上、大母おおはは様の縁談だろうと私は……」


 口籠る煌侃に円が「虐めすぎたか」と顎を摩る。円の呟きを疑問に思い、煌侃が眉根を寄せ、端整な顔立ちをしかめた。


 「縁談の相手は、優淑うしゅくだ」


 「―――!」


 最後に盛大な爆弾を投下され、煌侃とフォンネスは絶句した。けれど、瞬時に煌侃が聞き間違いか否か確かめる。


 「相手はまこと、麗優淑なのですか?」


 「ああ。先日、母上に手紙を頂いてな。久方ぶり陽敬宮に足を運んだ。いやはや、彼女と話したが母上や姉上が気に入るだけはあった。お前と優淑、二人が良い関係ならばこの縁談に異論あるまい?」


 「はい、有難く存じます」


 初めて煌侃が縁談を承諾した。タイミングを見計らい、フォンネスは煌侃の肩に腕を回し喜んだ。


 「やったな! 煌侃!!」


 「ありがとう」


 フォンネスに感謝を述べ、煌侃は唇を結び満更でない顔で肺を膨らませる。舞い込んだ幸福に煌侃の心臓は鳴り止まない。


 「そもそも母上に頂いた縁談は数日前になる。煌侃お前、兵留房へいりゅうぼうに寝泊まりせず帰って来い。茜音せんいんが首を長くして待ってるぞ、縁談の話を進めなくてはな」


 煌侃は一週間、と数日、崇泰内地の屋敷に帰っていなかった。しばしばある所謂、仕事病だ。此度こたびばかりは帰宅しなかった後悔が煌侃を襲う。


 「すみません。今日、必ず」


 「――よし。じゃあ、ご苦労」


 颯爽と円は兵軍処を後にした。部屋に残る妙な静けさを、フォンネスが断ち切る。興奮冷めやらぬ口調だ。


 「は~っ、法が改正したとは言えさ、優淑ちゃんが天女とは言えさ、家の格が低い女子にょかんを快く迎える夜条風華一族なんってカッコよさだよ! 円さん渋すぎだろ……、煌侃と優淑ちゃんの祝言楽しみだな~。って優淑ちゃんの花嫁衣裳悩みどころじゃん、崇爛城随一の縫い師に花嫁衣装作らせよう」


 「……落ち着けフォン、気が早いぞ」


 「あ、そっか。やっぱり恋人期間は必須だよな、うん」


 フォンネスと煌侃、どこか噛み合わないが楽しそうにあれこれ語る。そんな二人の会話を、とある女官が壁を挟んだ外側で聞いていた。


 「……夜条風華侍衛が結婚?」


 黒漆くろうるしを綺麗に塗った木製の御盆が、彼女が両腕を下したせいでどころを無くし、地面に滑り落ちる。折り畳まれた衣や手巾がバサリ石畳をい、彼女の憤怒ふんどで流れる涙が点々と地面に滲んだ。

 

 「――誰だ」


 フォンネスが出てきた。後ろに煌侃もいる。


 「……夜条風華侍衛、下位階級の女官を娶るなんて、戯話おどけばなしでございましょう」


 柔らかい青みの紫、クロッカス色の女房装束を纏う上位階級女官、中の中顔のはん杏林きょうりんは下唇を白い前歯で噛み、煌侃を鋭い眼差しで睨んだ。


 「私情だ。君に何の関係がある」


 「わたくしさきひん様、けいに仕える上位階級女官、内閣学士・はんぎょくの娘、はん杏林きょうりんでございます! 品性のない平民の雑種にございません! 屋敷は帝都・崇泰内地に構え格式高く貴方アナタに釣り合う令嬢です! 咲濱様に進言し夜条風華煌侃に嫁ぐ者として皇后様に推挙して頂く女子おなごなのでございます!」


 「恥を晒すな、咲濱様が君の泥を被るんだぞ」


 「夜条風華侍衛!! わたくしは!!」


 「――黙れ、私が娶る女子おなごは君じゃない」


 目に角を立てた煌侃が棘がある物言いで断言した。フォンネスは半狂乱に陥る杏林の傍で屈んだ。見下ろす白銀の双眼は酷く冷たい。


 「名前を憶えられていない時点で場外でしょ、藩杏林さん。俺嫌いなんだよね、親の権力振り翳す女。入内じゅだいした女子おなごの野心は兎も角、出世を目論んだ女官出身は厚顔無恥こうがんむちだ。見識を備えなきゃ、俺は親友を困らせる君を捻り潰したくない」

 

 敵意を剥き出しに囁いたフォンネスに、杏林は身の毛が逆立ち体を震わせる。フォンネスは騒ぎで集まった侍衛達の一人に顎をしゃくった。


 「――連れて行け」


 「見苦しいぞ立て!」


 「……ッ、私は諦めませぬ! お慕いしているのです! 夜条風華侍衛!」


 杏林は侍衛達に引き摺られるなか叫んだ。煌侃は踵を返し取り合わない。


 愁眉を帯びたフォンネスが背中越しに声をかける。


 「ねえ煌侃」


 「心配に及ばない。優淑は私が守る」


 凛とした宣言だ。煌侃の背中に微塵と迷いはなかった。

 

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