第四話:大母様

 「きれい……」

 

 静寂な世界で優淑が独り言ちる。昼夜の温度差が激しいこの時期、崇天厳すうてんごん帝国は辺り一面、紅葉、黄葉、落葉樹で色鮮やかに染まっていた。朝日を浴び輝く赤、優雅に揺れる黄、はらはら舞う茶、春の華やかさとは異なる静かな美と儚さだ。自然は様々な形で人々の心を鷲掴み魅了してやまない。


 ――麗優淑もその一人だ。


 「……うぅ、寒い」


 美しい風景に澄んだ空気、体には厳しい朝の寒さも心はどこか神聖な気持ちにさせてくれる。だが優淑は小袖に薄い外套を羽織っただけの格好だ。着込んだつもりであったものの、思った以上の冷え込みに体が震えていた。


 「早過ぎたかな」


 体を温めようと足早になりすぎたかもしれない。優淑は約束の刻より幾分か早い辰四たつよつの刻に、崇爛城の端門たんもん外閉門がいへいもんに到着してしまった。


 軍服に身を包んだ崇爛城の門番らしき人の姿はあるが声を掛けづらい。


 「どうしよう。どう言って通ればいいのかしら……」


 目的地の崇爛城――、そう――優淑が第一皇太子を助け、獅龍帝しりゅうていに謁見し、陽敬宮ようけいきゅうに仕える褒美を貰い、あれから三日のあっという間の今日こんにちである。


 「……身支度に三日も頂いたのよ。躊躇っちゃだめ」


 初日の遅刻は絶対に許されない。優淑は意を決し、高く長い城壁に沿って門番に歩み寄る。そこへタイミングよく救世主が現れた。


 「もしやと思ったが正解だったな」


 軍将官の軍将若人進ぐんしょうわこうどしん、夜条風華煌侃だ。官帽から覗くくっきりした目が優淑を捉えている。


 「夜条風華侍衛……!」


 待ち合わせの相手の登場に、優淑の不安が一瞬で吹き飛んだ。煌侃に駆け寄り、安堵の溜息を吐いた。


 「よかった……。丁度、困っていたんです」


 「――何かあったのか?」


 弱々しく発せられた言葉に煌侃が後方にいる門番を睨んだ。あらぬ疑いが門番にかかり、濡れ衣を着せてしまった優淑は必死に否定し弁明した。


 「ち、違います違います誤解です!! 門番の方は悪くないんです! どう説明して門を通ればいいのかわからなくて、私が勝手に困っていたんです!」


 「ならいいが……」


  煌侃の納得に当事者二人が生色を得る。煌侃は門番に向けていた鋭い眼差しから一転、優淑を見下ろす表情には優しさを溢れさせていた。

 

 「予定より早く来るだろうと見越して、私も辰四たつよつの刻に来た。皇后の取り計らいでキミの詳細は門番も把握済みだ」


 「天が寒空の下で困り果てている私に御慈悲で夜条風華侍衛を遣わせて下さったのかしら……。お心遣いありがとうございます」


 三十分、繰り上げての同刻だ。運命に等しい。


 煌侃は優淑の礼に鼻高々に息を吸い込んだ。


 「行こう、中は城壁のお陰で風が然程ない。寒さも凌げる」


 「よろしくお願いします。失礼します」


 優淑は門番の侍衛達に頭を下げ、歩き出す煌侃の背中を追った。すんなり外平門、朱雀門しゅじゃくもんと潜り、広場がある外朝の正門・永玲門えいれいもんを抜けた。ちらほらと列を成す侍衛達が武官にきょうされた軍剣ぐんけんを手に見回っている。


 優淑にとっては二度目の崇爛城だ。宮中は昔、禍福かふくあざなえる縄の如し、と恐れられていた。知略や軍略が蔓延はびこる鳥籠、天地が須臾しゅゆに反転する箱庭、足枷あしかせになる良心、平和な現代では想像がつかない。


 優淑は一度目に訪れた際は観察する余裕がなかった崇爛城をまじまじと眺める。好奇心で目が忙しい優淑を尻目に見、煌侃が歩調を緩め説明し始めた。


 「外朝西側が武玲殿ぶれいでん、東側が才玲殿さいれいでん――の縦に並ぶ学士堂、文玲殿ぶんれいでん


 煌侃は事細かに話した。城の中軸線にある右門と左門、中央の建物は言わずもがなの四玲殿しれいでん、そして内廷の正門・黄竜門きりゅうもん、ここから先が後宮となる。皇后が取り仕切る後宮で起こった事案は大臣でも関与できない。


 「黄竜門正面、外朝東側、いまは亡き皇太后こうたいごうがおられた陽華宮ようかきゅうの横、ここが皇后の母上が養生する陽敬宮だ」


 屋敷を警備する薄鼠色の長衣ちょういを着た宮中に仕える去勢された男子・宦官かんがんが左右均等に六人、若干、俯く姿勢で微動だにせず佇んでいた。優淑は自分を案内する間、ずっと歩幅を合わせてくれていた煌侃に感謝を述べる。


 「夜条風華侍衛、歩幅の狭い私に合わせて頂きありがとうございました。御殿も楽しく拝見でき、勉強になりました。今日の教えを忘れず、迷子にならぬよう努めます」


 「宮中の見回りは私達、軍将官の管轄だ。私も気がけてこちらを見回ろう」


 相好を崩す煌侃に優淑もつられて破顔した。


 「夜条風華侍衛がお優しく助かります」


 「…………」


 煌侃が優淑の曇りなきガラス玉のような瞳に魅入られる。唇を引き締め固まってしまった煌侃だが、瞬時に我に返り咳払いをした。表に出ずとも煌侃の内心、「見惚れていました」は難無く読める。しかし微塵と気づいていない優淑は「大丈夫ですか?」などと心配する始末だ。


 「――久しぶりね煌侃、ご苦労様」


 そんな二人にひとりの女性が折よく加わった。背後に数名、侍女を連れている。


 「大母おおはは様――、ご無沙汰しております」


 煌侃が右手を胸に当て挨拶した。彼女こそが陽敬宮に住まうあるじ、優淑が誠心誠意仕えなくてはいけない夜条風華昌映しゅうえいだ。


 六十三歳と年齢を感じさせない白く透明な肌、目の周りは立体感があり彫りも深い。目尻やほうれい線には年相応の皺があり、筋の通った鼻は小ぶりで血色のよい口元はたるみがなく健康的な印象を与えた。服装は薄墨色うすずみいろ長衣ちょういに椿が描かれたくすんだ黄赤の馬掛だ。長い黒髪は後頭部の高い位置で団子状に結ってある。挿された玉かんざしは目立ち過ぎない上品なきらやかさがあった。


 「ええ。新鮮な貴方アナタを見られて嬉しいわ、長生きはするものね」


 「大母様、私は……」


 昌映の見透かす物言いに、煌侃は途中で口籠ってしまう。


 「叱ってる訳ではないのよ煌侃」


 一語一語を真綿で包むかの如く、愛に満ちた声は心地がいい。昌映はキリッと眉尻を引き上げた煌侃に微笑み、優淑との距離を縮めるや否や冷たい右手を掬い上げた。


 「堅苦しい紹介はなしよ。こちらが麗優淑さんね」


 「はい」


 煌侃は昌映に従い返事のみする。優淑は控えめに膝を屈した。出しゃばらず謹んでこれから仕えるあるじの言葉を待つ優淑の姿勢に、昌映は好感が持てた。


 「ようこそ陽敬宮に。歓迎します」


 「獅龍帝と皇后様に頂けた温情と、私を寛大なお心で迎えて下さった夜条風華氏に誠心誠意、仕えさせて頂きます」


 「名でいいわ、容認します」


 「はい、昌映様」


 「予期しない計らいだったでしょう。大変だったのでは?」


 昌映だからこそできる率直な質問だ。煌侃が優淑を一瞥する。


 「いえ、昌映様。独りの生活は時折、寂しいものです。雑念を素直に捨てれば答えは容易に解け、突然でありましたが、虚心坦懐きょしんたんかんの心構えで頑張りたく存じます」


 優淑は嘘偽りない本心で答えた。もちろんそれは昌映に伝わっていた。


 「身を挺して誰かを助ける善たる行いは優淑、人としてとても立派よ。でも女官試験を受けず後宮に入った貴女アナタを快く思わない者も出てくるでしょう」


 「はい」


 「ですが、陽敬宮に貴女をさげすむ者はいないわ。理由なき非難と差別は私が許しません、でしょう煌侃」


 継いで語調を強めて言った昌映は煌侃に同意を求める。昌映の後方で大人しく控えた侍女達も興味津々の面持ちだ。


 「はい。優淑の勇気は侍衛のいい教訓となります。それに中々に思慮深い性格で大母様の信頼を得るのも時間の問題でしょう」


 「過分な評価、恐れ入ります。夜条風――煌侃様」


 夜条風華家が二人、優淑は刹那の間を置き煌侃の呼び方を改めた。宮中で煌侃に恋焦がれる女子おなごは多いけれど、伯爵家という彼の人柄を踏まえ、気安く下の名前で呼ぶ勇者はいない。


 「……ああ」


 優淑は露知らず、宮中の女子おなごが目指す一歩を軽々と飛び越えた。普通は無礼にあたり煌侃が怒る場面だろう。されど彼は拒絶するどころか受け入れていた。


 女性を個人的に褒める煌侃も極めて珍しい。


 「……いえ、初めてかしら」


 そう呟きつつ、昌映は優淑の指先をきゅっと握る。優淑は零れた言葉の意味がわからず首を傾げ、藤の花の耳飾りを揺らしたのだった。



 


 

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