第7話
毎夜毎夜見るわけではない。不定期に、しかし続いていることは続いていた。何夜か連続して見たと思えば、忘れる頃まで見ることがない、そんな風にその夢は現れた。
私は時には海岸にいたし、森林やお洒落な街中を歩いていることもあった。ただ皐月のことがあった前後は地面が妙にぬかるんだ沼地をひたすら歩いていた。空は真っ黒な雲が覆い、辺りは薄暗く不気味な雰囲気が渦を巻いている。周りには果実の代わりに大きな目玉が吊り下がった木々が林立している。気を抜くとすぐ地に足をとられてバランスを崩してしまう。それに、当たると酷く痛む毒の付いた弓矢を放つ追手に気を使った道筋を選ばなくてはならない。常に精神を使うために体力は一層疲れるが、私はそれでも歩くことをやめない。どうやら私は何かを探しているのだ。何かを見つけるためにどこまでも旅を続け、様々な地をその足で踏む。沼地の終わりはまだ見えない。
いつまでも歩みを止めない私は次第に疲労を募らせていく。沼地に入る前に寄った、小高い丘の木立に生っていた小さな赤い実を荷物の中から取り出して齧る。酸味が口に広がって、幾分か爽やかな気分になった。私は種を地面に吐きだして、足を進める。そんなことをしていると不意に閃光が厚い雲を引き裂いて、稲妻が遠くで鳴り響いた。雷雲は連続して稲妻を放ち、かなり早い速度で移動していた。初めは遠くに聞こえた音もすぐに近くに迫った。つられて雨も降り始めた。余計歩きにくくなることに私は嘆息しながら、顔を上げると、目の前には雨に濡れた皐月がいた。氷のような笑みを張り付けて、背中から生えたいびつな形をした両翼を大きく広げていた。本来は純白のはずだったワンピースは雨で汚れ、その裾には泥が醜く跳ねている。長い髪の奥で両目が私を見据えている。彼女の声には感情がなかった。
「私はあなたを逃がさない」
私はその威圧的な口調に反射的に左足を後ろに引く。雨が目に入る。私に恐怖が芽生える前に彼女は音もなく私の寸前まで身体を動かし、その次の瞬間に私の首を両手で絞めた。細い両指が柔らかい肉に食い込む。首の骨がぎりりと軋んだ。彼女を突き飛ばそうとしたが、既に身体に力は入らなかった。
「やめ、て……」
息も絶え絶えに絞り出した声も皐月には届かない。彼女はずっと狂気に動かされているかのように笑っていた。その目だけが笑ってない。彼女は私の首を絞めて空中に持ち上げながらもう一度言った。
「逃がさないから」
病院に着いた時にはもう陽が沈みかけていた。一日の業務の最後の締めと言わんばかりに燃え上がる夕陽が、すべての建物をまるで別の世界のものであるかのように乱暴に茜色に染め上げるのを横目に、自動ドアをくぐると、管理され調節された白い光に私はどことなく寂しさを感じた。私が着いたのは運良く面会の受付終了時間の直前であった。階段を上がり三階の皐月の病室に近づくと、中から言い争いが聞こえ、私が扉に手を掛けるよりも先にガラリとそれは開けられた。
病室から飛び出してきたのは皐月の母親だった。彼女は私に気づくと気まずそうに会釈をして去っていった。反動で閉まろうとする扉を受けとめて、今度は私が部屋へと踏み込んだ。
病室に入ると、そこは窓から夕陽が射し込んで、全体が色鮮やかに彩られていた。見ようによっては世界の果てのようだ。母親が来ていたからだろう、以前とは違いベッドの周りのカーテンは除けられており、すぐに私と、上半身を上げた皐月の視線とが交錯した。目が赤く潤んでいる。母親と喧嘩して気分が高揚しているのかもしれない。彼女は私を認めると口を開いた。
「瑞香……、どうしたの?」
その口調からは感情をなるべく抑えようとしているのが読みとれた。皐月はいつだってそうだ。感情をさらけだすのを嫌う。私はベッドの傍に置かれた丸椅子に座った。
「今日はね、またお話をしに来たの。皐月に言いたいことがあって」
「何かしら、あんまりそんな気分じゃないんだけど」
とても大事な話だから、と私が言うと皐月も納得をしてくれた。
「まず皐月はもっと自分のことを大事にした方が良いってこと。それに前も言ったけれど、逆にそうしないのは周りにとっても悪いことになるってことを知って欲しいの」
彼女は目尻を手の甲で何気なくそっと拭った。そしてぽつぽつと言葉を吐いた。それは誰かに何かを言うというよりは、まさに言葉を吐きだすというのがふさわしかった。
「それは、ついさっきも母親に言われたわ。もう心配をかけないでって。きっと私がことあるごとに死ぬなんて言うから頭に来たのね。でも、そんなことを言われたところで私の気持ちが変わることはないし、むしろ嫌気が増すだけなのに」
皐月は誰にも聞こえないような声で、何にも分かってくれないんだから、と呟いた。確かにそんなことで彼女が行なおうとしていることを修正できるはずはない。感情的な物言いが含み持つ欺瞞を彼女は嫌う。問題はもっと根本にあるのだ。誰も気づかないほどに人の心は深く、そして見えにくい。
「人ってどこかしらにダメなとこがあるもの。完全な人なんているはずもないわ。どこかしらが欠けていて、でもだからこそ感情を持つことができるんじゃない。そのせいでこの世界が嫌に見えることだってあるわ」
「じゃあ何、それをただ黙って受け入れろっていうの?」
彼女は努めて冷静に話そうとしていたが、やはりいくらか情動に突き動かされているようだった。優しさから発露した憎悪、嫉妬、怨恨、そして孤独の影が純然な彼女を隠し、侵していた。
「皐月は、人と人とが完全に分かりあうことなんてできないと思ってるの?」
彼女は橙に染まった天井を見て、少し考えてから言った。
「それができたら苦労しない……、心が通じあうことなんてないわ。もしできるのであれば私の見方も変わっていたかもしれないけれど」
歯車は噛み合うことはあっても、合致することはない。噛み合ってもその歯車自体の形状はどこか違っているものなのだ。だって合致するのであればそれは同じものなのだから。この世に同じものなんて一つもない。
でももしそれを求めるのなら方法はまだある。私は千晶が言ったことを思い出しながら皐月に問いかけた。
「これは単純に言えば、皐月の好き嫌いの問題よね。生きているものはみんな違う。それは必然。けれどその違いを気に入らなくて、誤差と呼ぶ。正直に言えば、あなたが言ってるのは随分と卑怯で我が儘なことよ」
「じゃあ、どうしたらいいわけ? 私はこれまで多くの醜いことを見てきたつもりよ。いえ、数の上では全然少ないかもしれないけど、でももうたくさんというくらいには」
皐月はベッドに置いた拳を小刻みに震わせながら言った。彼女は感受性が豊かなんだ。だから他人の痛みも深く心に刺さってしまう。私はその言葉たちに一々首肯しながら、ベッドの上の彼女の拳をゆっくりと両手で包んだ。
「分かるよ、皐月。だって、あなたはとっても優しい人だもの」
私は片手で皐月の髪を撫でた。彼女は俯き、ぽとりと一粒の滴がシーツの上に落ちた。もしかしたら私にそうされるのを皐月は屈辱だと思うかもしれない。けれど私は彼女を優しく癒してあげたかった。だって小さい頃には私がそうしてもらったんだから。
私は皐月の頬を触って、静かに流れた涙の跡を指で拭った。
「でもね、皐月。もし世界が嫌いでも、見方を変える方法はあるんだよ。自分をすり減らして相手に合わせていく地味な方法とは違って、何でも考え過ぎてしまう、あなたにピッタリの良い方法が」
彼女は不思議そうに私を見上げた。睫毛が濡れ、頬は上気したように赤くなっている。
「皐月が言ってるのは全部受け身なことじゃない。そんなの全然あなたらしくない。だからね、昔、皐月が私に虹のありかを囁いてくれたように、地上の不思議を説いてくれたようにみんなに教えてあげればいいのよ。他人のやり方なんて真似する必要ないのよ。皐月はもっと大きく振舞えばいいの」
「それって、でも……」
滲んだ視界でベッドの皐月に記憶に残った幼い皐月が重なってくる。小さくて頭が良く、けれど無邪気さもその手に握っていた皐月。
「ううん、大丈夫。あなたならきっとできるわ。だって私にはしてくれたんだもの。どんどんどんどん相手に自分が持っていること、自分が感じていることを話して、教えてあげるの。そうして不完全なその人をできるだけ自分のところまで高めてあげるのよ。そうすれば少しずつでも絶対に、皐月の周りから世界は変わっていくわ。その過程は皐月を耽溺させるものになると思うし、諦めるのは打つ手が尽きてからでも遅くはないでしょう?」
私がにっこりと笑ってみせると、彼女はまた静かに涙を流したが、その瞳にはまたいつかの光が宿ったようにも見えたのであった。
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