第5話


 記憶の中の石田皐月は、私より背が低くて口数は少ない、感情をあまり表に出すことのない少女だった。全体的には淡白な印象を受けていたのを覚えている。私は元々社交的な方ではなく、高校に入るまでは特にそれが顕著だった。他人に合わせる難しさに苦しんでいた時代と言える。そして余分な期待を咽びながら削ぎ落としていった時代。

 皐月が入院しているのは地元と私の下宿の中間辺りに位置する総合病院で、丁度都合の良い場所にあった。まだテストにも間がある時期だったので週末を利用して私は一人電車に乗った。梅雨に入る前のカラリと晴れた陽気で、誰もかれもが浮かれる時季だった。私もぼんやりとした心地で買ってきた果物を持って、病院の受付で彼女の病室を確認し、面接の許可を受けた。皐月は入院病棟の三階の一番奥の個室にいるらしい。私は暖かな陽が差し込む二階の連結通路を通って外来病棟から入院病棟へ歩き、薄汚れた白壁を目にして三階へと上がった。防音か除菌のために置かれた、いやに重いガラス扉を開け、私は石田と書かれたプレートの前に辿りついた。一応ノックをして返事のないことを確認すると、クリーム色の扉を横に引いた。

 ベッドが一つ置かれ、壁際には白い棚がいくつかと、その端には理科室で使うような丸椅子が数個置いてあった。付き添いは見当たらない。ただ個室といっても、入院者への配慮なのかベッドの周りは白い無地のカーテンに囲まれていた。

「皐月ちゃん……?」

 おそるおそる呼んではみたものの返事はなかった。しかしカーテンには横になる人の影が映っていたので中にいるのは確かなようだった。寝ているのだろうか。

 私は壁際の果物を置くと、そうっとカーテンを開けてみることにした。少し怖い気もしたが、そうでもしなければここに来た意味がなくなってしまう。カーテンレールはカラカラと音を立てたが、そこで眠っていた彼女には聞こえていないようだった。細い身体に、痩せこけた頬、枝毛が目立つ長い髪。片腕には管が刺さりベッドのすぐ傍には点滴スタンドがあった。胸に仄暗い不安がよぎった。私は確かめるために、彼女に近づいた。私が顔を覗き込むと、彼女は気がついたのか閉じていた瞼をゆっくりと開いた。白い肌にギョロリとした大きな眼が浮かぶ。私は思い出した。

 それは確かに私の知っている石田皐月だった。

 石田皐月に特徴があるとすれば、目立たないことと言われるかもしれないが、おそらく一番印象に残るのがその強い目つきだった。彼女はすぐギョッとした顔になって、頬を隠すように布団を握りしめ、ベッドの端に身を引いた。点滴スタンドがずれ、吊られたパックが危なげにグラグラと揺れた。

「誰?」

 驚かせてしまったようで内心気おくれしながらも、私は努めて穏やかに声を掛けた。

「瑞香よ。岩瀬瑞香。ほら、中学校の時の……」

 私が言うと、皐月は上半身を壁にもたれかけながら、握っていた布団を少しずり下げて、まじまじと私の顔を見つめた。静謐が緊張を張り巡らせる。一分も経ったのではないかという頃合いになって、皐月は口を開いた。それは聞き覚えのある、懐かしい声だった。

「瑞香? 本当に?」

「ええ」

 彼女は持っていた布団を下ろし、訝しげな様子で眉根を寄せた。

「……どうして?」

「いや皐月が入院してるってことを聞いていてもたってもいられなくて……」

「なんで入院してるとかは聞いてないの?」

「あ、知らない」

 自殺未遂とは聞いていたが、言えるはずもない。その他はどろどろした噂のみではっきりしたことは何も知らなかった。

 皐月は腕の力を抜くと、ふうっと長く大きな息を吐いた。長い髪がさらりと揺れる。

「あなたっていつもそうよね。昔からそう。私のことを疑いもしないんだから」

 記憶を遡ると、すぐには浮かんでこなかったが、探り続けていると目の前の皐月と相まって、断片的ではあってもだんだんとヴェールが透けていくように当時にあったことやその時の感情が蘇ってくるのであった。私と彼女が一緒にいた時、私の言動で皐月を呆れさせていたことが多かった。感情に左右され不安定なだけの私とは違い、皐月が間違っていることなんておそらく一度としてなかったのだ。皐月はいつも心の奥を自信で満たし、教室の真ん中で騒ぎ立てる連中を意志に溢れた強い眼で睨んでいた。

「風呂場で手首を切って死のうとしたの」

「うん」

「でも死ねなかった」

 皐月は私が開けたカーテンの隙間から窓の方を眺めて呟くように言った。

「丁度よくお母さんが仕事から帰ってきて。五時間も早く帰ってくるなんて予想できないわ、普通。だから間抜けみたいにこんなところで一日中寝ているの。お母さんの気持ちも分かるけど、退院したら同じことが起きるだけ無駄だわ」

 私は躊躇ったが、訊きたいことは聞いておくことにした。

「皐月は死にたかったの?」

 彼女は軽く瞼を閉じると、点滴のチューブが繋がっていない右手で頬から首の後ろにかけてをゆっくりと触った。

「人は自分の信じる希望に向かうものだし、そうするべきだわ。私の環境ではそうすることが正解だった。それだけのことよ。それだけのことだし、それは今も続いている」

 皐月の声にはもう緊迫の色は見えなかったが、酷く冷たい響きを持っていた。それは私の記憶の皐月と重なって、彼女が私と別れたその後も誰の元にも屈することのなかったことを示しているように思えた。子どもの頃、私は皐月に色々なことを教えてもらった気がする。皐月はいつも、私が考えつかないようなことを考えていて、私にこっそりと教えてくれたのだ。それは例えば、大勢の人の言うことだけが正しいとは限らないとか、遠い遠い昔の人々は劣っているように思われるけれど今の私たちよりも優れているところもあったとか、分野でも区切れない多様なことだ。彼女の瞳は私とはまったく違う世界を映しているようで、それが私には羨ましく、また私は自分だけが教えてもらっていることを誇りにも思っていた。実際に私たちは学校でのほとんどの時間を二人きりで過ごし、共有した。

 皐月はよくクラスの人々を見てはその傲慢さや無責任さに腹を立てていた。他人の気持ちを考えないような人を憎んでいた。それゆえに私の理解できないところで彼女は自己嫌悪に陥っているようだった。彼女は自分をも憎んでいた。

 そしてそれは今も変わっていないのだ。

「私は死ぬことが希望なんて思いたくはないな。だって楽しいことは日常にいくらでも転がっているものじゃない? それを見つけていないだけで」

「生きていくことに希望があると思うのは自由だわ。でも死ぬことが希望だと思うこと、これも同様に自由なことではないのかしら。それは趣味の問題になる」

「でも私が悲しむし、皐月の周りの人たちも悲しむでしょう? それを趣味なんて言うことはできないし、それこそあなたが昔憎んでいた自己中心的な考えではないの?」

「じゃあ瑞香は誰かのために生きているの? 生きながら死んでいるのなんて、死んでいるよりもたちが悪いとは思わない?」

 私はそこで言葉に詰まってしまった。

窓の外では小鳥がさえずってうららかな午後を謳っている。彼女に応える言葉はすぐには見当たらなかった。見切りをつけたのか、じきに皐月は眠いわと言って、布団を整えて身体を倒し、むこうを向いてしまった。私は呑気な世間話もする気分でもなくなって、椅子に腰かけたが、いつまでも変わらなく変わることもできそうにない状況にいたたまれなくなって、また来るねとぽつり言い残して、逃げるように病室から抜けだした。

 病院から出ようとすると、ある女性が目に入った。髪に白が混じり、眼窩が落ち窪んだ五十歳ほどのその女性は、記憶の姿とは若干違っていたが皐月ほどその影を重ねるのに苦労は要らなかった。

「あれ、石田さん? ええと、石田皐月さんのお母さんですか?」

 声を掛けられた女性はぎくりと肩を震わせじっとこちらを見つめていたが、じきに私だと気づいたようで表情を柔らかくした。近くで見ると余計に皺の濃さも目立ち、精神的な疲労が窺えるかのようだった。けれど過去に見た彼女の知的で綺麗な女性という像の面影も消えてはいなかった。

「ああ……、もしかして瑞香ちゃん?」

「はい、そうです」

 私が皐月のお見舞いに来たことを告げると、彼女はとても嬉しそうに微笑んだ。しかしそれでもどこか後ろめたいことがあるような、深い悲しみを押しとどめているような憂いは埃のようにうっすらと残っていた。

「でも、皐月さん、なんだか……随分とその、調子が悪いみたいでしたけど、何かあったんですか?」

 私が訊くと、彼女は疲れの滲んだ顔でため息混じりに深々と言った。

「それがね、私にもよく分からないのよ。皐月はいくら尋ねても教えてくれないし。家にいた時もずっと黙ったままで」

「そうなんですか……、大学で何かあったのかしら」

 確か同級生に聞いた話によれば皐月は大学にも通っているはずだ。けれど彼女はぼそりと零すように言った。

「そうじゃないかもしれないわ」

「えっ」

「ここまで悪化したことはなかったんだけどね、実は以前から兆候はあったの。私もその度に何とかしようと思ってはいたんだけど。……そうね、瑞香ちゃんも家に来てくれていたし中学の時はまだよかったんだけれど、その後よね。皐月はどんどん自分の殻に閉じこもるようになってしまって。高校の時も不登校の時期が何回かあったの。でも私には何にもできなかったわ。こんなことになるまでずっとそうだった。……ただ、あの子は頭が良いから私には思いもつかないことを考えてるんでしょうけどね」

 彼女の口ぶりは憂いだけではなく、些か自嘲も含まれているように聞こえた。

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