第2話
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私が初めて彼女に会ったのは大学のサークルでのことだった。
私は入学当時、特にこれといった思惑も指針も持ち合わせていなかった。しかしそれでは高校までと同じように意欲もなくただ漫然と大学に赴くことになり、火が消えかけた吸い殻のような生活が待っていることが明らかであったので、ありふれたサークルの中から一つを選び、そこに入ることにした。
しかし生来そんなに活気に満ち溢れるような性格でもなかったからか、私の生活がそれほど変わることもなかった。私はこのことで人は簡単には変われないことを学んだ。でもそれは私だけではないように見えた。見渡す限りの大学の人たちは、元々ありふれていることに甘んじている人たちか個性を出そうとしてありふれた人の仲間入りを果たす人たちの二種類にしか分けられなかった。授業で一緒になって時々一緒にご飯を食べていた女の子は、社会人になったら画一的なスーツに身を包んだり、ありきたりなことしか言えなくなってしまうと沈んだ顔をして未来を憂えて見せたが、私から見ればその子も既に十二分にありきたりだし画一的と言える行動をしていた。ただ私はその身の程を知らないことを咎めるほどに自分に自信を持ってはいなかった。最もそういった愚痴を聞くのはうんざりしていたが。
気がつけば誰もが愚痴を好んでいた。誰もかれもがまるで画一化の波に乗り遅れてはいけないかのように、未来への不安や現状への文句、あるいは誰々や何々は自分よりも狡いということを口にしていた。そして最後にはこういうのだ。「ああ、自分はなんて不幸なんだろう」と。私はだんだんと人間に関わるのが嫌になっていった。私は私が悩むことを他人に言うのは良いのだが、他人からどうしようもない愚痴を聞くのは嫌いだった。随分と横暴な話だが、事実なことは事実なのだった。いや、とはいっても私はちゃんとした悩みや相談ならこんなにも疲弊した気持ちにはならなかっただろう。それは彼らや彼女たちが吐きだしているのが、自分の弱さでしかなかったことに起因しているのだろうと私は思った。不満ばかりを口にして自分では動かない、そういった人たちはもし愚痴を聞かされていた私が「こうしたらどうだろう」とアドバイスを口にでもすれば、途端に侮辱されたと思い「馬鹿にするな」と文句を言うのだ。そういった人々の多さに辟易し、私は自分が愚痴を言うのはおろか、人と会話するのさえ気が進まなくなっていった。誰もがそういった妬みや嫉みに突き動かされた黴臭いくすんだ人間に見えた。だから、最初に深織千晶に会った時も私は何の興味もなかったし、特に際立った印象を受けることもなかった。彼女はサークルの中でも目立つ存在ではなかった。
私は凡庸な恋もした。
大学二年生の春、相手はサークルの一つ上の先輩だった。格好も悪くはなく、サークル内の人気も多くはないがないことはなかった。眼鏡をかけた彼は見るからに聡明そうで、サークルで何か物事を決定する時には思い切りのよさを発揮していた。また彼はどちらかと言えば文化系な印象を醸してはいたが、週末には水泳やテニスをしにいくという健全さも持ち合わせていた。
結論を言えば、私は彼よりは彼女を取ったことになる。それは私がそもそも同性愛者だったというわけでもないし、彼女に一目惚れをしていたわけでもない。しかしこの一つの恋愛の結末は、私の思いとは関係なく彼女への恋愛感情をある程度担保する形となったのであった。
まず初めに誘いをかけたのは彼の方からだった。私は元からそれほど積極力のある方ではない。それにこの時は一年間の大学生活の経験からさっきも言った通り、どんな人だって色褪せて見えており、自発的に興味が湧くことはなかった。しかし一旦声を掛けられると、僅かでも可能性があるならという思いと、他でもない自分が声を掛けられたことによる嬉しさとが混ざり合って、期待が動きだしてしまうのだから始末が悪い。だから後の後悔ではちょっとばかりの感傷が自分の乾燥した甘さにしみるのだ。
実際付き合ってみても、彼はそんなに悪くなかった。彼の設計するデートプランは女子から見ても素敵なものだった。私たちは週末になると、時には電車に乗って海の見える街に行って観光を楽しんだり、花畑が広がる丘で春の息吹を感じた。また違う時には高校生のように下宿先から近いカラオケに行ったり、ボーリングをする時もあった。彼はある時は真剣に物事を考えていたし、ほとんどの時は場を和ませようと気を配ることに精を出していた。ただ私は束の間のある瞬間ごとに度々彼の振舞いの中によぎる手垢にまみれた「慣れ」を嗅ぎ取ってしまうのだった。それは何でもない平穏な午後に突如として現れ、原因を見つけないままに気のせいと思わせ、いつの間にか消えていくような異臭だった。レモンのようなつんとした刺激でもあり、煙草の煙のような涙を誘う痛みでもある。彼のすることはおそらくほとんどすべてが彼自身による行ないではないように私には映ったのだ。しかしそれは自然と私の心に降り積もるようになったのではない。きっかけがなければ私は彼自身を知ることなんてできはしなかったに違いない。
彼は人付き合いの経験が豊富な人間だった。恋愛経験だって、私が大学に入るまでに処女も捨てていなかったことに対して、彼はとっくに幾度かの経験を経ていたのだろう。だから彼とのセックスだって不快感は感じなかった。気を使ってくれていることは分かったし、それは単純に私の嬉しさにも繋がった。私と彼は何回も身体を重ね合い、溶け込むように濡らし合った。しかしある時のことだ。その時、私はいつものように彼の下宿で服をつけずに、同じく服を身につけていない彼に押し倒されていた。彼は私の首元を舐め、私の頬を髪でくすぐった。私は彼の背中に腕をまわして、天井にかかる電球をぼんやりと見つめながら、成り行きに身体を任せた。彼の手が私を撫でまわし、私の身体は彼によって撫でまわされる。どちらが触れ、どちらが触れられているのか。興奮が全身のいたるところで疼きだし、だんだんと私の身体と彼の身体の境が分からなくなってくる感覚は、私にとっても心地の良いものだった。視界の隅に映る彼の目も何か別の世界を見ているような表情をしていた。そして物事は進み、私は自分を保てなくなってくる。社会のこととか、未来のこととか、昔住んでいた町のこととか、この部屋の外部のことが分からなくなってくる。私は彼のことが好きだったのかもしれない。興奮度合いは彼の緩急に揺られながらも、上昇し続けた。そして来るべき時が目の前に迫って、視界が一瞬色を失って、私の身体はビクンと大きく波打った。私は一気に疲れを感じ、まどろみに襲われた。次第に興奮も沈静の方向へ向かっていく。彼はそんな私を柔らかく抱きしめた。彼の引きしまった筋肉が手に取るように分かった。私はシャワーに向かうのも億劫になっていたのでもう少し横になっていたかった。彼は上半身を起こすと傍に置いてあった煙草に火をつけた。彼が煙草を吸う時は彼が弱気になっているしるしだった。
よかった、と彼は言った。そして煙を吐きだして、ごめんと言った。
どうして? と私は訊いた。
彼は時々、自分の技術に自信を持てないことがあると語ることがあった。彼が完全でないのはその通りのことではあったが、決して不足しているというわけではなかった。私がそのことを言うと、彼は二重の瞼を伏せて、ありがとうと言い、眠いねと微笑した。それはとっても魅力のある仕草だった。私はその時に思ったのだ。ああ、これが彼の本当の姿なんだ。彼が弱音を吐いたり、自分に自信がないことを語る時は実際にはほとんどなく、それは普段の気配りや優しさの中に埋もれてしまっている。けれどそれを示した時にこそ彼は生き生きとしているのだ。雪原からふきのとうが芽を出すように、それは突如としてぱっとした光を放つ。過去に彼と寝た女の子たちだってそれに魅入られていたのだろう。私もそれらと同様にその綺麗さにはうっとりとした。
しかしそれに気づくことは私に心境の変化を強いることでもあった。技術の発展とともにわれわれが過去の生活から切り離されざるを得なかったように。彼の本当の魅力に気づいてしまうと、途端に彼の普段の振舞いはただ当たり障りのないことをしているだけで非常につまらないものとして私の目には映ったのだった。彼のやっていることは親切でもなければ優しさの表現でもない。何かに怯えたように、誰かがしたことを真似ているだけに過ぎないのだ。そこには偽物の陰りしかない。彼はそれをまるで自分の内側から溢れるような自然なものとして身につけようともしていたが、それは彼の本質の障壁にしかなっていなかった。私にしてくれている彼の行為のすべてが彼自身のものではなく手垢にまみれた誰かの真似であることに、私は軽い絶望を覚えた。しかもこれは簡単に解決する問題でもなかった。つまりそれに彼が気づけばいいという話でもないのだ。なぜなら彼の良さは彼の取り繕いの中にあるからこそ、その輝きを発するからである。だから彼が自分の本質に気づき、それしか行なわないようになれば、彼は普段から憂鬱に悩まされ、後悔から踏み出せないブルーな人間になってしまうだろう。それは最早彼ではない。だから彼の一瞬の輝きを享受するためには、それを取り囲む様々なうんざりを飲み込まなくてはならないのだ。私は二つの途への分岐点に自ら立ってしまったことを後悔した。そして、私の興味は見る見るうちに色を失っていった。
結局、彼との繋がりは一年を待たずに自然に、元からそんなことは一切なかったかのように消滅することになる。おそらく私が興味を失ったことが原因であったが、彼もそれを持ち前の悲観さですんなり受けとめたらしく、引き摺るものはお互いになかった。彼は彼で私と別れた一ヶ月後には、新しい恋人を見つけたらしく、私は私に彼の今後を狂わせる引力がなかったことを知って少し安心した。私も一度目にすることがあったが、確かに他人の憂愁を受け入れるのが好きそうな、甘く優しい目をした女の子だった。
これはありふれたような恋愛ではあったが、私に新しいことを考える契機をもたらした点において決して無駄ではなかった。私は彼への興味を失ったあと、それまで考えることのなかった色々なことを不意に考えるようになった。それは人間についてや、恋愛について、私自身のことについてだ。
私は一人で悶々と考えてもいたが、自分で考えることの限界も知っていたので、誰かと会話をする時にそのことについてそれとなく訊くようになった。私が思った通り、私が尋ねるすべての人は私に有益な情報を与えてはくれなかった。それ以前に私の問いに対して考える素振りさえ見せないことも少なくなかった。ただそれは私の訊き方もまずかったのかもしれない。相手に不快な思いをさせないように本当にそれとなく、カップに角砂糖を、波紋を立てないようにゆっくり落とす感じで訊いたものだったから。
私の質問に唯一強い興味を持ったのが深織千晶だった。
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