砂の感触
四流色夜空
第1話
私はカップに口をつけた後、目の前でスプーンを回す深織千晶に向けて口を開いた。
「それで、今日はどうしたの?」
千晶は、家庭教師のアルバイトをしていた。しかし彼女はその筋のベテランというわけではなかった。半年前、新卒で入社した保険会社をわずか一年で辞職し、それから少しの間は一年間の貯金を切り崩して生活していた彼女が、それほどない貯金に危機感を覚え始めたのか、あるいは自分のやるべきことを見つけたのかもしれないが、とにかくそのアルバイトを始めたのはつい最近のことだった。
「私ね、考えてしまうんだ。私がしていることはどれだけ世界に影響があって、どれだけ私によって変化を迫られる世界があるかってことをね。なんだか幼い頃には、自分が世界から見てどれだけちっぽけかってことを一生懸命考えて、失意に飲まれていた気がするけれど、最近はその逆のことで悩まされている」
急に大きすぎるスケールで物事を語るのは彼女の性格だった。
「つまりあなたは自分の位置や大きさを測りかねてるってこと?」
「そうなのかな」
「そうじゃないかしら。でもそれってわりあい難しいことよ。自分の力を把握する能力が普通に人間に備わっているのだったら、歴史上の人物は誰も失墜することはなかったし、あなたも会社を辞めることはなかった」
確かにそうね、と彼女は笑った。
私は彼女をこうやって静かに見る機会に立ち会うたびに、彼女の魅力を感じることができた。秋口らしい灰色のフレアスカートに茶色のカーディガンを羽織ったその姿は、目を引く派手さはないものの彼女にちょうど似合っている。
千晶はゆっくりとカップを持ち上げた。
「でも、どうなんだろう。あなただったらどう思う?」
彼女はよく自分が行き着いた疑問を同じようにして私に解かせた。それを楽しんでいるようだったし、私も殊更悪い気はしなかった。ただ問題は、彼女が考える問いは往々にして些か解くのに容易でないということだった。
私は少し、天井にかかったシーリングファンがゆっくりと回転するのを眺めてから言った。
「私にだってそれは分からないわ。けれど、そうね、無意識にでもやってると思うのは、自分の力の範囲に大きな辺りをつけて、それを実際起きた出来事にしたがってその都度修正していく作業ね。私たちはその回数を重ねるごとに自分にフィットする自分の像がだんだんと分かってくるんじゃないかしら」
「経験的にってこと?」
「そう」私は頷いた。
彼女の問いはいつでも現実から離れるには有用だったけれど、私にはそれがどんな具体的な状況から来たものなのかも充分に気になることだった。そのことを言うと、千晶は素直に、またそんなことは瑣末なことだとでもいうように端的に事実を語った。それはつまり、彼女は今ある男子の家庭教師をしているのだが、その男子から言い寄られていて、それにどう対応したらいいか分からないということだった。
「あなたはどう思ってるの、あなたのことじゃなくて、その男の子について。確か高校生だったわよね」
千晶は陰鬱そうに顔を歪めた。どうやらこの話はあんまり好ましい話ではないらしい。
「ええ、三年生よ。それに頭もいい。話もその年にしては上手いし、彼自身で言ったことはないけれど、学校でも結構いい位置を確保してるんじゃないかしら。けれど、これが一番重要なことなんだけれど私は別に好きじゃない」
「三年ということは受験ね」
「そう」
これで最初の問題と繋がったのだろう。要するに彼女は自分が振ったことによって、相手がショックを受けて勉強に手がつかなくなってしまうことが怖いのだ。
私は言った。
「一回だけでもデートしてみたら? 千晶の心も変わるかもしれないし」
それはない、と彼女は言いきった。彼女は断言する時には断言する。
「私は好きなことしかしたくないし、好きなことしかしない自分を愛しているのよ。すべての人生がそうである必要はないけれど、私にはこれ以外の方法はしたくないし、それに私に合わない」
彼女は同じようなことをよく口にした。私は、笑いが込み上げてきたのを表面に出さないように苦心しながら湯気の立たなくなったカップの水面を見つめた。
私は彼女がその男子に勉強を教えているところを想像した。英語の文法問題の違いを彼女は持ち前の丁寧さで親切に説いて聞かせる。しかし男子はそんなことに興味はない。彼が知りたいのは、関係代名詞の接続方法などでもなければ、それがアメリカ英語とイギリス英語で発音が異なるといったことでもなく、ただ単純に目の前で艶めかしく動く一つの身体の神秘なのだ。おそらくつまらない英語の発音の違いなどではなく、彼女の口の動きに彼は見入られていることだろう。彼はもしかしたら彼女に接触することに己を保てなくなるかもしれない。最初は彼女に気づかれないように触るのだ。健気にも偶然を装って肩と肩をくっつけてみたり、消しゴムを取るふりをして彼女の手に指先を当ててみたり。しかし彼女は全部気づいているのだ。気づいていても黙っている。一方、彼女に気づかれていないと味をしめた彼は行為を次第にエスカレートさせていくことだろう。ストッキングの上から触るかもしれないし、背中に手を回すかもしれない。もしかしたら頭の良いその子は、自分の欲望に忠実なだけではなく、人という生き物は身体を密着させることで無意識の内に親近感を募らせていくという科学的事実をどこかの雑誌で見つけていたのかもしれない。しかしそれを考えると私は笑ってしまいそうになった。彼が必死に試みているその行為は、全部彼女に知られているし、そのことは親近感を植えつけるどころか彼女に残虐な感情を芽生えさせてしまうことになるのだ。ある機会にもし見つめ合うことが起こったとしても、実際には彼の馴れ馴れしく甘えるような視線を、彼女は今すぐ彼が座る椅子を蹴飛ばして拳の一つでも向けたい思いに駆られる視線でそれを迎えている。
それは滑稽な光景だったが、私にとってはそれ以上にとても甘美で魅力的なものとして解釈される。華奢な身体をして端正な顔のつくりをした彼女の容姿からは想像もできない穏やかならぬ暴力的な感情は、この目で直接見てみたいと思わせる力を持っていた。いや、私がそう思ってるだけかもしれない。とにかく彼女を前にすると、その無限の可能性に私は悶え、つい想像をめぐらせてしまうのだ。
今でも私は彼女のことが好きだった。
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