第34話 山吹・想いで
麦茶の氷が涼しい音色を奏で、優しく溶けている。
赤とんぼは赤ちゃんだろうか、小さくて可愛い羽を懸命に動かしながら、我が家自慢の菜園を飛び交っている。
お盆休みに現れた黄泉の国からの使者・・・。
私はそんなふうに考えながら、明日の旅行の支度を始めていた。
テレビのブラウン管から流れる、アイドル歌手の歌を時折口ずさんで、気持ちは年甲斐もなく高揚していたと思う。
日没までの美しい時間。
夏の風香る8月。
妻と娘は私より先に、義母の住む東京へ帰省していた。
毎年恒例の我が家の夏の行事、だが、今年はいつもと違っていた。
組合の会合で、私の休みが取れなかったこと。
東京の後は大阪で、妻と娘と合流するということ。
この些細な変更が、後の運命を決定付けるなど、当時の私は夢にも思わなかった。
妻と娘は、開園したばかりの東京湾岸テーマパークで1日を過ごし、翌日に大阪へ向かう予定だった。
箕面で暮らす、私の姉夫婦の出産祝いを兼ねてー。
娘は飛行機が大好きで、理由を聞いたら、かわいい格好をしているからだと喜んでいた。
「お羽がヒュンってなってるの」
娘の言葉は、私と妻を元気にさせた。
風鈴がそよ風に揺れている。
菜園の山吹色は、深い瑠璃色へ変わろうとしている。
我が家の上空を飛行機が飛んでいく。
それを見ながら私は思った。
「ふたりは今頃、どんな景色を見ているのだろうか」
時刻は19時を少し回っていた。
私は、キャリーケースに着替えや雑誌を詰め込んでいた。
カメラはタオルと下着の合間に、カミソリや歯ブラシはビニール袋に入れて隙間へと押し込んだ。
旅行の度に、妻には小言を言われていたからだ。
「こんなに持って行ったら、帰りのお土産が入らないわよ」
私はその言葉を思い出して、雑誌とワイシャツは置いて行くことにした。
せっかくの家族旅行なのだし、旅先では気楽なポロシャツとジーンズで過ごそう。雑誌は大阪で買えば良い。
それに、必要に迫られているものでもないから、妻の機嫌を損ねる品を持ち運ぶ苦労はしたくなかった。
妻は合理主義者で、私は彼女の影響を受けていたと思う。
「余計な時間と、無駄な思考は人生悪だからね!」
妻は得意げに言っていた。
キャリーケースを閉じて、ふとテレビに視線を移すと、画面の上部にニュース速報が流れていた。
『羽田発大阪行きの航空機。ドア故障の連絡を最後に通信途絶える』
私はテレビのボリュームを上げた。
ニュース速報が流れる時は、いつもそうしていた。
『羽田発大阪行きの航空機。ドア故障の連絡を最後に通信途絶える』
『ニュース速報 終』
テロップが2度3度と流れると、いつもの歌番組に画面は切り替わっていた。
司会者がゲストに、航空機の乗客乗員の身を案ずるコメントを投げかけていた。
私はこの時。
「生放送もたいへんだな」
と、笑っていたと思う。
しかし、そんな私の楽観的な感情は直ぐに打ち砕かれてしまった。
『番組の途中ですが、ニュース速報をお伝えします』
ブラウン管にアナウンサーが映る。
私は何気に時計に目をやった。
時刻は20時、妻には大阪に着いたら電話をするようにと伝えてはいたが、その連絡は未だにない。
『今夜、羽田発大阪行きの日本パシフィックオーシャン航空105便が消息を絶ち、墜落した可能性が高まっています』
電話が鳴った。
私は妻であってくれと願いながら受話器を耳にあて。
「涼子か!」
と、叫んだが、電話の向こうからは、嗚咽する姉の声しか聞こえなかった。
妻と娘の身を案じながら、何度も謝っていた。
私のせいだと、自分を責めていた。
『日本パシフィックオーシャン航空から入った情報によりますと、この飛行機は今日夕方羽田を発った、乗員乗客438人を乗せたボーイング747型機105便で』
アナウンサーの声を聞きながら、姉にはこう伝えた。
「まだ分からないから。分からないからさ。また連絡する」
これが精一杯だった。
声は幻聴のように続いていた。
「長野県警から入った情報によりますと、長野県南佐久郡ー』
再び電話が鳴り響く。
私は深呼吸をして電話の受話器を取った。
日本パシフィックオーシャン航空からの連絡だった。
『事故現場に近い小学校の体育館』にたどり着いたのは3日後だった。
夏の日差しと校庭の土けむり。
けたたましく辺りに響き渡る蝉の羽音。
上空には、自衛隊と報道関係のヘリが飛び交っていた。
雑多な音は陽炎のようで ー 私の耳には届かない。
額から流れ出る汗をハンカチで拭って、私は体育館の中に足を踏み入れた。
案内されるがままに、棺の前に歩を進める。
体育館の熱気も、私の側で泣き崩れる夫婦の声も、遠くに聞こえるヘリの音も、匂いや動悸や汗や床の感触も、断片的な記憶ーでしか私には残らない。
両隣の棺に眠る妻と娘の顔は、大事故にも関わらず損傷は少なかった。
捜索開始後すぐに発見されたのと、墜落の衝撃で座席ごと飛ばされていた事実がふたりを炎から守ってくれたのだろう。
妻が身につけている洋服は、旅行前に新調したひまわり柄のワンピース。
私に幾度も似合うかどうかを尋ねていた。
可愛らしく恥じらいながら、何度も何度も聞いてきた。
娘の片方だけのスニーカーは、アニメの魔法使いのキャラクターが描かれてある。
クリスマスプレゼントに、妻とふたりで枕元にそっと忍ばせた記憶が甦る。
娘の声と妻の声が私の心に木霊していた。
私は震えながら言った。
「間違いありません」
愛するふたりは、機体から200メートル離れた場所で発見された。
妻の手と、娘のちいさな手は固く握られていたという。
そんなふたりの手に、私は触れた。
「ごめんね」
そして、私は泣いた。
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