第33話 山吹
報道番組を観なくなったのはいつの頃からだろう。
記憶の断片を呼び起したところで、私にはその意志も熱意もない。
一欠片の感情は、胸の奥のずっと向こう。
己の手さえ届かない彼方へと葬り去ってしまった。
自発的健忘症とでも言おうか、そんなくだらない病に自ら侵されたのは昔だ。
年月すら忘れたが、頭の中の古びた映写機は再生を止めてはくれない。
くたびれたちいさな映画館。
誰もいない客席には、私だけが存在している。
ひとりにされた世界で、そのフィルムは回り続けている。
カラコロカラ、カラコロカラ。
虚しい音を響かせながら。
ひとの記憶など曖昧なものだ。
都合よく脚色されては塗り替えられていく。
新たに再生された記憶は、年月と共に、いずれは私の肉体からも離れてしまうだろう。
そう願っている。
あの晩、私は麦茶を飲んでいた。
南九州特有の乾き切った暑さに参り、食欲もない夕刻。
時刻は17時を過ぎていた。
妻と始めた和菓子屋は、それなりに盛況で、15年の歳月と互いの皺の数は勲章みたいなものだった。
店舗兼住宅の居間から見える手狭な菜園は、妻と娘の自慢の空間で、私の立ち入る余地などなかった。
その年の、夏祭りに家族で買った風鈴が、細やかな風に乗って澄んだ音色を聴かせてくれた。
山吹色に染まる空、そして蝉しぐれ。
扇風機の羽音と、つけっぱなしのテレビのブラウン管。
季節の移り変わりを告げる赤とんぼが、自慢の菜園で戯れている。
今思えば、あの頃の記憶は幻だったのかも知れない。
艶やかに彩られた私だけの幻影。
山吹色に幾度も再生されてゆく映像は、いつの日も変わらずにいてくれた。
妻が手塩にかけて育てた小ぶりの茄子。
その紫色は、まるでアメシストのように美しかった。
命の息吹を感じさせる、深い緑のズッキーニはエメラルド。
淡くて慎ましい、白緑色のオクラはクリソベリル。
我が家の庭は、かつては至る所に宝石が散りばめられていたのだと、胸が痛む程に回想しては、途方もない闇に突き落とされてしまう。
それでも、私の古びたフィルムは回り続ける。
私はそれを止める術を知らない。
ただただ回る山吹色の情景に、私自身が埋没してゆく。
幻影が過ぎ去った後に残る虚無感。
苦しい。
私は己を殺し続ける。
妻の作る、オクラのお浸しをツマミにビールを飲む。
隣で小学生になったばかりの娘が、私におんぶしてと背中にまとわりついている。
その手は、ちいさいながらも暖かい。
この子は、私と妻の生きている証だ。
甘えん坊の娘を背中に担ぎ上げると、決まって妻に窘められたものだ。
夕暮れ時に店を閉め、一日の収支報告書をまとめて発注を済ませる。
妻の主たる業務はその後の家事へと続いた。
私は、朝早くからの仕込みから製造。機器や備品のメンテナンス。
清掃作業もひとりでこなした。
二人三脚の店舗経営は安泰ではなくても、家族は納得し、そして充実していた。
断続的なフィルムと、空回りする幻影。
『想い出』なのだ。
全ては私の大切な想い出。
山吹。
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