第19話 カマキリ
リヨツグの顔は、エキナカのこの店に入った時からずっと紅潮していた。形のいい額の下の、キラキラと潤んだ瞳は、テーブルに並べられたご馳走を行ったり来たりしている。
ちいさく切り分けたハンバーグを口に運んで、ロールパンを丁寧な仕草で千切って食べるその姿は、どこかよそ行きの、思春期の女の子みたいだと知念は思った。
サナトリウムを離れる間際に、知念は瀬戸際からある疑念を投げかけられていた。
最終目的は、鮫島結城に潜む全人格の統合ではあるが、その為には解明しなければならない専権事項がある。
カニバリズムの真相究明。
証明された瞬間に、彼は自己のひと握りを取り返すことが出来るだろう。
それは、大いなる進歩であり人生の始まりを意味している。
何故、野田秀美の右耳の一部が冷蔵庫内で保管されていたのか?
遺体から切除された左耳の有無。
そして、カシイアヤメという人格は、ネクロフィリアで有るか否か。
知念は、瀬戸際の言葉を思い返しながら、向かい合って座るリヨツグを見上げてどきりとした。
黒紅色の瞳が、自分を捉えて離さないでいるからだ。
どれくらい前から見られていたのだろう。
知念は、カラカラに乾いた喉を潤す為に、ミネラルウォーターを一気に飲み干そうとグラスを口に運んだ。
溶けてカドの取れたロックアイスが唇に触れた。
リヨツグは魅惑の眼差しで、知念の指先を舐める様に見つめ続けている。
その口元からミネラルウォーターが零れて、顎を伝って首筋に一本の線を描くと、リヨツグの顔がぐっと知念に近付いた。
左目の下のちいさな泣きボクロ、艶やかな鼻頭と濡れた唇から覗くやわらかそうな舌先が、知念の感性を激しく揺さぶっていく。
ほんの数秒の出来事で、知念はリヨツグという男に性欲を覚えて、かあっと顔を赤らめた。
嘘の付けない身体に恥ずかしくなると尚更のこと。
「知念君、濡れてる」
と、ナプキンを差し出す声も別の意味合いに聞こえて、心根を見透かされてやしないか不安にもなった。
瀬戸際は、ばつの悪さを紛わせるようにざるそばを豪快に啜って、意味もなく、今しがた運ばれて来た蕎麦湯の香りを嗅いだ。
そんな瀬戸際を見ながら翔子は。
「レストランの蕎麦湯ですよ」
「いやなに、日本って国は何処に行ってもハイクオリティーの料理で溢れています。此処の蕎麦だって、味加減も丁度いい。あ、こう見えて江戸っ子なんですよ。だけど流行り病にかかったら味覚も嗅覚も麻痺するって云うじゃありませんか。だからね、山葵の鼻に抜ける香りをね、楽しんでおかなくちゃって思いながら食べていたんだけど、蕎麦湯の香りだって嗅いでおこうかなあなんて・・・」
「で、どうだったんですか?」
「異常なしかな!」
「それはなにより」
「だけど、やなもんでね。人類が初めて経験する未知のウイルスって・・・なんか気持ち悪いじゃない? この街だってゴーストタウンだ。ゴーストタウンの珍客。招かざる客かな」
瀬戸際はそう言うと、大きな声で笑ってみせた。
人もまばらな店内に、その声は響き渡った。
奥の厨房から、訝しげな眼差しでこちらを見ている女性に気が付いた翔子は、気まずそうな笑みを浮かべながら会釈を返すのが精いっぱいだった。
知念は誰にも悟られないように、ズボンのポケットに手を入れて気持ちが落ち着くのを待った。
正直、瀬戸際の素っ頓狂な発言には救われた。
自分の意志とは関係なく、性欲が抑えられないでいたからだ。
その対象が、自分と同じ男性であることにも気が動転していた。
すっくと席を立って。
「ちょっとお手洗いに・・・」
と、言うと、続けざまにリヨツグも席を立った。
「同じく・・・食べ過ぎたかもしんない」
新宿駅構内にある、離れのトイレに向かう中、知念とリヨツグは無言のままだった。
地下2階の、誰もいない男性トイレに入ると、リヨツグは苦しそうに胸を押さえて息を洩らした。
知念は驚いて。
「おい、大丈夫!?」
「・・・ちょっと・・・息が苦しくて・・・食べ過ぎたかな・・・気持ちが悪いや・・・吐きそう・・・」
「ええっ?」
「・・・ごめんちょっと・・・背中さすってよ・・・」
「わかった」
「恥ずかしいから・・・扉閉めてよ・・・」
「・・・わかった・・・」
「見られたくないや・・・」
扉に背を向けたまま、知念は鍵をかけた。
リヨツグは立ち上がって振り返り、細くて長い両腕をその首に絡ませながら耳元で囁いた。
「したいんでしょ・・・」
「はあ?」
「シィ―!」
リヨツグは、知念の唇を自分の唇で強引に塞いだ。
驚いた表情のまま、大きく目を見開いた知念の股間にそっと手を伸ばすと、ペニスは硬くなっていた。
「硬くなってる・・・」
リヨツグの声と、言葉のひとつひとつに反応してしまう自分の身体が情けなく、惨めさと罪悪感でいっぱいなのに、ズボンの上からそっと愛撫され、悶えるしかない快楽に酔い痴れている。
知念は目頭が熱くなるのを感じた。
「かわいい・・・」
「・・・」
「唇も、左目のほくろも・・・」
「・・・」
「べろ出して・・・」
「・・・」
「もっと・・・」
「・・・」
「もっと・・・出して・・・」
「・・・」
「もっと・・・」
知念は、言われるがままに舌を突き出した。
小刻みに震える舌を、リヨツグはやさしく噛んで。
「・・・ころしてあげよっか?」
と、言うと、ふたりの唾液が床に滴り落ちた。
さっきから、リヨツグの求めに従属的な自分に、知念は驚いていた。そして、激しいキスを受け入れられている理由を必死に探したなって探した。
肉感的な舌と、触れ合う冷たい鼻先の温度差と、ゾッとするほど感情のない「ころしてあげよっか?」の声。
心では拒絶しているというのに、興奮している忌々しい身体。
自分の表情は、快楽のその先を待ちわびている。
知念は、中学生の頃に読んだ、昆虫図鑑のカマキリの話を思い出した。
カマキリの種類の中には、交尾中にメスに食べられてしまうオスがいて、その場合は決まって頭からバリバリと食べられるが交尾は遂行されるという。
頭部や上半身を失っても、子孫を残す命がけの行為に、当時の知念はエロチシズムを覚えて、その感性は恥ずべきものだとずっと言い聞かせて来た。
しかし、それは間違いかも知れない。
本来の自分は、生と死の挟間の快楽に没落してしまう危険な人間だったのだ。
危険な人間。
ころしてあげよっか。
危険な人間。
ころしてあげよっか。
ころしてくれますか・・・ころしてください・・・。
快楽は麻薬よりも人を狂わせると言った科学者がいた。
知念は研修医でありながら、本来の責務を忘れてリヨツグの従順な下僕に成り下がっていることに気が付いて、慌てて長く突き出した舌を引っ込めた。
その時、扉を叩く音がして声が聞こえた。
「警察です。開けて下さい。警察です!」
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