第2話 ブックバー・シャングリラ

私は呆然となった。

結城はおいおい泣いている。

開いた口が塞がらないとはこのことだ。

やはり容認できない。

一時的な精神の混濁のせいで、感情がコントロール出来ないとしても、人間のあるべき姿の許容を越えている。

そう思いながらも私は、結城の身を案じ、シャングリラの薄暗いセンターに立って薄ら笑いを浮かべている。

燈台下暗しではないが、結城が存在しているからこその私・・・。

許しは即ち愛情なのかも知れない。

上野駅から歩いて9分32秒の場所。

もっと正確に言えば、上野駅中央改札から身長174.7センチ、体重65.3キロの36歳の男性が、通い慣れた路を進んだ先にそのブックバーはあって、築24年と4か月、4階建ての雑居ビルの最上階は、モノカキやドクショカが集う私にとっての遊郭。

それこそがシャングリラと呼ばれる場所なのだ。

ところが月日が流れると共に、その場しのぎの一元さんは姿を消してしまった。

残されたのが常連客・私を含めた鮫島結城の人格達。

互いの顔は知っていても、私たちが交わることは決してない。

マスターのメデューサがそれを好まないからだ。

彼女はとても美しくて、深紅のショールを身に纏っただけの姿で、眠ることなくカウンターの奥に座っていた。

場面に応じて変幻する身体の色も魅惑的だ。

今はミルク色をしているが、もうすぐその肌は透明になって、臓器や骨格が露わになるだろう。

静脈は、山の頂から里へと流れる小川の如く冷たい。

動脈は荒々しくて、活火山から溢れ出る溶岩流のようだ。

心臓は鍾乳洞、肝臓は樹海、脳髄はメガシティーといったところだろうか。

そうして、彼女の全てが露出すると私は結城と入れ替わる。

センターに佇む私は、ほんのりと温かさを感じていた。

スポットがあたる瞬間だ。

覚醒したばかりの私は満足していた。

女弁護人の声が聞こえる。


「どうしたんですか? 何か思い出しましたか?」


「・・・僕の中に・・・何かが居て・・・そいつは僕を見下して笑っているんです・・・」


「何かが居る? 誰かが居るんですか?」


「・・・知らない人・・・僕のことなんか知らないくせに・・・この人は僕を馬鹿にしてるんです」


「鮫島さん」


「・・・」


「それは誰の事ですか?」


「・・・」


「鮫島さん・・・?」


私はようやく理解した。

結城という男は、手に負えない程の策士で、自己愛という恐ろしい境遇に惑わされながら生きて来た。全ての原因は容姿であり、美しさに隠れた醜態をさらけ出すことを非常に嫌がる。

私はクックと笑って、血の温もりを全身に浴びた。

スポットがあたる。

呼吸が乱れる。

認識可能な死・意味を持たない生・入り乱れる感情が私を突き動かす。

快楽だ。

覚醒とは快楽なのだ。


「鮫島さん・・・」


ガラス越しの瞳の中に私が見える。

意識を持った統合人格の顔は、いつもに増して美しい。

自分の唇にそっと手をあてがうと、熟した果実の味がした。


「・・・大丈夫ですか?」


「ああ、私なら問題ない。君は・・・どうかな、今、目の前に座っている男を観察して、混乱していると思うのだが、鮫島結城は死にたがりの出来損ないだ。自己愛が強くて他人任せにして直ぐ逃げる。人生というのは滑稽だ。私もつい先程まではそう解釈していた。だが違っていたのだよ。計算された三文芝居に皆踊らされているに過ぎないのだ。目を覚ました方がいい。上手く利用されて後は廃棄処分。ゴミなんだよ、彼にしたら私も貴女も廃棄物に過ぎないのだから」









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