14. 雨の日

 春も過ぎ、そろそろ季節も夏に差し掛かる頃、この辺りにしては珍しく長雨が続いていた。ある日はしとしとと細い雨が、次の日にはざあざあと叩きつけるような雨が、とにかく雨にもこれほど種類があったのだろうかと驚くほど、日々風情の変わる雨雲が空を覆い、烟るような日が続いた。

 もう日課のように朝から窓を開けて外を眺めていると、後ろから抱きすくめられる。首筋に無精髭がざらりと触れて、そのくすぐったさに身をよじると、笑う気配が伝わってきた。


「毎日同じような天気を眺めて飽きないのか?」

「同じじゃないよ。昨日はもっと静かな雨だった。今日は……滝みたいだね」

 屋根に叩きつけるような雨音が響いている。開けた窓からひさしに跳ねた水滴でしっとりと濡れた前髪に触れると、ロイは呆れたように窓から寝台の真ん中へと彼女を引き寄せた。

「こんなに濡れちまって……また風邪引くぞ?」

「これくらい大丈夫だよ」

「そう言って熱を出して、三日も寝込んだのは誰だったっけな?」

 言いながら窓を閉め、乾いた布でディルの髪をわしゃわしゃと子供にするように拭き始めた。呆れたような表情とは裏腹に、その手つきは優しい。

 彼女の魔力は水に属するものだから、本当は細かな水滴さえもすぐに払うことができる。そうしないのは、雨の感触と、こうして世話を焼いてくれるその人の優しさが何より嬉しくて仕方がないからだ。


 ふわふわと柔らかい布の下からその顔を見つめていると、怪訝そうな眼差しが向けられる。

「何だ?」

「過保護じゃない? 風邪くらい誰だって引くよ。ロイは薬師なんだから、こんな病人も見慣れているでしょう?」

 笑ってそう言えば、ロイは片眉を上げてディルの顎をすくい上げた。端正なその顔が近づいて、軽い口づけが何度も繰り返される。ついばむような口づけはすぐに終わるだろうとされるがままにじっとその顔を見つめて受け入れていると、ややしてその眼が熱を浮かべて、口づけが深いものに変わっていく。逃れようと身を引いたが、すかさず力強い腕が彼女を抱きすくめて、そのまま寝台に押し倒された。容赦なく貪るように舌が絡められる。


 唇が離れた頃にはディルの息は上がっていて、ロイはなぜか楽しげにそれを見下ろしている。

「……ロイ?」

「他人なら、診て、薬でも処方してやればおしまいだ。だが、あんたが熱を出して寝込んでたら、こんなこともできないだろう?」

 愛おしげに目を細めて頬を撫でる手は優しく、驚くほど甘い言葉はどうやら本気らしいとわかって、ディルは思わずふき出してしまう。ロイは顔を顰め、子供のように口を尖らせた。

「何だよ?」

「たった三日寝込んだだけで、そんな風に言われるなんて」

 ずっとそばにいて、ほとんど毎日のように肌を重ねているのに。

「飽きないの?」

「試してみるか?」

 ニヤリと笑った顔は、それでもどこか本気で熱を宿していたから、ディルは慌てて寝台から起き上がる。ロイはそんな彼女を笑って見ていたけれど、引き留めようとはしなかった。



 朝食を済ませて、後片付けを終えると、普段はそのまま往診へとでかけるロイが珍しく奥の部屋で何かごそごそと片付けでもしているような物音が聞こえた。覗いてみると、棚にずらりと並んだ小瓶を取り出して、テーブルの上に並べている。

「何やってるの?」

 扉の前から声をかけると、振り返って手招きをする。そうして、小瓶を手にとって栓を抜くと、ディルに差し出した。首を傾げながらも受け取ると、ふわりと爽やかな香りが広がった。

「これ、何?」

「異国の茶の葉から絞った精油だ。だいぶ前に手に入れたもんだが、まだ香りが飛んでないみたいだな」

「さっぱりして、いい香りだね。森の匂いみたい」

「あんたは好きそうだよな」

 目を向ければ、テーブルの上には同じような小瓶がずらりと並んでいて、表面には文字の書かれた紙が貼られている。

「これ、全部精油なの?」

「ああ」

「薬になる?」

「全部じゃないがな。香としていてもいいし、薄めて肌につけてもいいらしい」

「へえ。試してみてもいい?」

「ああ。あまり鼻を近づけすぎると香りがわからなくなるから、少し離して手であおいで香りを寄せるくらいにするといいぞ」

 頷いて、端から小瓶の蓋を開けては、香りを試していく。爽やかな柑橘の香り、甘い薔薇の香り、すっと目が覚めるような鼻に抜ける香りに、伐ったばかりの樹木のようなものまであった。次に開けた小瓶からは、蕩けるようなふわりと強く、けれどどこか眠りを誘うような香りがした。

「これ、不思議な香りだね」

 そう言って瓶を示すと、ロイが近づいてきて匂いを嗅ぐ。それから、ああと頷いた。

薫衣草ラヴァンドラだな。香草茶に入れたりもするが、匂いがきついんで俺はあんまり好きじゃない。どちらかというと安眠効果を狙って寝室で焚いたり、布に染み込ませて枕元に置いたりするといいかもな」

「確かによく眠れそうだね」

「まあ、あんたは寝つきもいいから特に必要なさそうだが」

 面白がるような瞳は、甘く緩い。夜はディルの方が先に眠りに落ちてしまうが、その理由は自分のせいだとわかっているくせに。


 まっすぐにこちらを見つめ続ける甘い眼差しに耐えかねて、ふいと視線を逸らして、次の小瓶を手に取る。だが、その香りを嗅いだ瞬間、ディルは身を強ばらせた。ロイが怪訝そうな顔になる。

「どうした?」

「な、何でもない」

 慌ててその小瓶の栓を閉め、テーブルに置こうとしたその手を取られた。小瓶を取り上げ、その匂いを嗅ぐ。瞬間、ロイの顔色が変わった。


「——甘いような、辛いような香り、か」


 もうその香りを最後に嗅いだのは、随分と前のことになってしまったのに。


 初めてディルを救い出してくれたその人から漂っていた匂い。その小瓶の甘い匂いは、完全に同じではなかったけれど、よく似ていた。ディルの動揺をどうとったのか、いつになく静かな表情のまま、彼女を引き寄せた。腕の中にきつく抱きすくめられて、耳元に口が寄せられる。

「あいつを思い出したのか?」

 違う、とは言えなかった。見上げた青紫の瞳は、ひどく剣呑な光を浮かべていた。

「ロイ……」

「こんな風に、よく匂いを嗅いでいたよな?」

 唇が触れるほどに、首筋に顔を寄せる。肌に触れる暗赤色の髪がくすぐったくて、ディルが思わずくすりと笑うと、拘束するように抱きしめていた腕から力が抜けた。

 目を上げれば、剣呑だった眼差しはどちらかと言えば戸惑いに変わっている。その意味もわかってしまったから、ディルはもう一度笑ってその頬を引き寄せると、目を閉じて唇を重ねた。何度も、この想いが伝わるように。

 目を開けると、何やら毒気を抜かれたような、ばつの悪そうな顔が見えた。ディルがますます笑みを深くすると、深いため息と共に強く抱きしめられた。

「……呆れたか?」

「そうでもないよ」


 ——あんたの運命の相手は、俺じゃない。


 そう言っていた言葉を覚えていたから、ディルはその背に腕を回して抱きしめ返す。胸に顔を寄せれば、いくつもの薬草が混じり合った複雑な香りがする。それからその首筋に顔を寄せると、薬と彼自身の肌の混じり合った匂いも。鼻先が触れると、びくりとその体が震えた。

「私が一番安心できる場所は、ここだよ」


 運命なんて知らない、といつかも言った言葉を繰り返す。


「まだ信じてくれないの?」

「信じてない訳じゃない。ただ……あんたが熱を出したり、倒れたりするたびに、あんたをから引き剥がしたせいでと思っちまう。いっそ俺の方が先にくたばっちまえばこんな心配もしなくて済むのに。歳からいってもその方が順当なんだが——」


 だが、あんたを置いていくわけにはいかないんだろう? とひどく切なげな顔でこちらを見下ろしてくる。あの時の約束を、まだ彼が覚えていてくれたのだと気づいて、ディルはどうしようもなく溢れる暖かく切ない想いに身を震わせて、その首に腕を回した。


「うん、だめ。絶対に」


 たった一人で世界に取り残されて。ずっと待ち続けていた彼らより先に、迷子のようだった彼女に初めて居場所を与えてくれたのは、ロイだった。だから、たとえその約束が彼を苦しめることになっても、この温かい場所を失うことには耐えられなかった。

「あんたのたった一つの願いわがままだ。しょうがねえな」

 苦笑しながら、もう一度深く口づけられる。優しく包み込むように抱きしめて、何度も繰り返し、何かから必死に守ろうとでもしてくれるかのように。


 それから、まじまじと彼女を見つめてくる。ふっとその瞳がまた甘く緩んだ。


「雨の続く日も、たまには悪くないな」

「どうしたの、急に?」

「三百年前、俺はずっと世界を救いたかった。ただ、故郷を守るために」

 突然の昔話に戸惑うディルに、ロイは柔らかく微笑んだまま頬に手を滑らせる。

「雨雲で見えなくても、あんたの瞳の中に空が見える。今、俺が守りたいものは、俺の腕の中にある、この空だ」


 青紫の瞳に映る、自分の瞳の色は定かではなかったけれど、それでも幸せそうに笑っている自分を確かに自覚して、ディルはもう一度その唇に自分のそれを重ねた。

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