第23話 安寧は束の間に零れ
流血を伴う休息日の事件を経て、ようやくアズルトにも平穏な日々が訪れた。
平穏の定義には諸説あるが、アズルトにとっては己が身に火の粉が降りかかりさえしなければすべて平穏だ。
当の本人が週明け初日にそうと決めた。
あの日、クレアトゥールとの間にあった出来事はバッテシュメヘには伏せたままだ。
先にも語ることはないとアズルトは考えている。
バッテシュメヘが有する彼女の危険性への認識は大きな誤りを含む。
クレアトゥールの秘める破壊的な情動は、彼がそうと考えている以上に厄介なものなのだ。
憎まれ役を押し付けた経緯からして、バッテシュメヘは彼女の行動の予測困難性と暴力的な解決手段を危惧しているようだが、それらはアズルトに言わせれば取るに足らない枝葉末節だ。
例えば騎士会がクレアトゥールを捕らえようとしたした件。
怪我人が出なかった理由を騎士側にあると教官は考えているようだが、アズルトは彼女の側に理由があったと見ている。
これは直にクレアトゥールを限界に追い込んだアズルトなればこそ断言できるのだが、彼女はあれでいて加減と自制をよく知っている。
初日にオルウェンキスに見舞おうとしていた魔力は彼を死傷させるに足る威力を有してはいたが、サスケントで騎士ばかりを相手にしていたクレアトゥールにしてみれば、少し強く突き飛ばすくらいの感覚だったに違いない。
現にアズルトの手を振り払わんと暴れた折に込めていた魔力は、オルウェンキスを目標としていた時のものと比べて数段上のものであった。そしてそれさえも加減していたのだということは、組み敷いた後の苛烈な反撃を身に受け理解している。
自制については言わずもがな。
したがって保険としての憎まれ役など無価値なのだ。
発想としては実に意義深いものであったと感心するアズルトだが、同時にバッテシュメヘに対する警戒を強化すべきとの認識も与えた。
バッテシュメヘがクレアトゥールの危険度を過小評価しているがゆえに、彼女はアズルトという首輪を与えられただけで野放しにされている。
ではその評価が是正されたらどうなるのか。
アズルトの脳裏には正史の鎖に繋がれたクレアトゥールの姿が浮かぶ。
元は首輪すらなかったのだ。無形のもので縛れぬと知れば物的・術的な拘束に手を出すことは自明の理であろう。
だからアズルトは口を噤む。
真相を知るアズルト
明けてからの一週間をアズルトはすべてクレアトゥールの経過観察に費やした。
やるべきこと、やりたいことは他にいくつもあった。けれど彼女の状態を正しく把握した今は、そちらの安定こそがなにをするにも先立つという理解に達していたのである。
そんなであるからして、主命についても進展はなく保留となっていた。
いや、クレアトゥールの調整がその手始めと言うべきか。
私闘による
無軌道な暴力という不純物が混じることで、示される騎士の暴威の価値が損なわれるからだ。蹂躙は正道によってのみ為されるのが望ましい。彼らに毛ほどの逃げ道も許さぬためにも。
肝心の経過についてだが、継続しての更なる観察が求められるといった具合で、明言は難しい状況だ。言うなれば可もなく不可もなく。
アズルトが求めていた最低限度の結果は得られている。
クレアトゥール・サスケントは分析と計算の出来る人間だ。
自己保身のために培われたと思しきもので外部からの干渉を拒絶する傾向にあるが、声がその壁の先まで届けば論理的な思考を促すことも不可能ではない。
それが困難を極めることは今は脇に置いておくとして。
なんにせよ、クレアトゥールは学園という過酷な環境における自らの生きる道をアズルトの隣に選んだ。
これは、やや迂遠な言い回しではあったが、当人の口から語られたことでもあるし、事実として彼女はアズルトの手の届く――物理的な至近という意味ではなく――範囲に身を置くよう心掛けている。
ゆえに不可はない。
アズルトの頭を悩ませたのは不透明な動機だ。
クレアトゥールは常にアズルトと行動を共にするようになったが、なにかを頼るようなことは皆無だった。不満の捌け口にするなどもっての外で、次の休息日を迎えるころには顕著だった敵意すら薄れ始めていた。
更に懸念を深めたのはクレアトゥールの突飛な行動の変化だ。
近頃、彼女は物に当たることを覚えた。
なにを言っているのかと疑問に思うことだろう、だがこれが事実なのだ。
初日の件からもわかる通り、クレアトゥールが感情に身を任せると、結果として物が壊れることは以前からあった。
だが昨今は先に物を壊すことがあって、それで感情の振れ幅を抑えている節がある。
加えて厄介なのはこれによる意思表示に有用性を見出してしまったことか。
クレアトゥールは元々、口よりも先に手が出るタイプだ。
彼女の破壊的な情動がその根源となっていることを否定するつもりはないが、それにも増して会話を面倒なものと考える元来の口下手が理由にあるとアズルトは分析していた。
言葉を尽くすよりも、物を破壊することで憤懣を表現する方が遥かに的確かつ効率的に意思を伝達することが出来る。
幼子を思わせる表現の退行ぶりだが、頭が痛いのはそこよりも、この行動それ自体が『アズルトには頼らない』という決意の表れである点だろう。
手法は日々進化している。
備品を壊すと連帯責任でアズルトに類が及ぶことを学び、その対象物は日とともに移り変わっていった。ペンは文字通りの消耗品となり、教室の外では壊すための石球二つを手の中で器用に転がしている。
だがなにもアズルトはこれだけを理由に可もなしとしたのではない。
事の良し悪しはさておき、不安定だったクレアトゥールの状態は改善された。それはすなわち主命を果たすための前提が傾く危険性が大いに減じたということだ。したがってアズルトは彼女の優先度を一段落とし、保留していたあれやこれに取り掛かろうと考えた。
けれどそれは実行には移されなかった。
アズルトは今もなおクレアトゥールの観察を最上のものとして動いている。
優先せねばならぬ、更に言えば対策を必要とする厄介な案件が発生したのだ。
アズルトにとって己とは替えの利くモノだった。
濫造された粗悪品、打ち捨てられる失敗作、そうした世に数多ある可能性の残骸の一個として、己を規定している。
それがアズルトというモノであり、彼には生も死も等しく無価値だった。
アズルトは自らを特別だなどと考えたことはない。それは自身を特別だと思い上がれるほど、自己の存在に価値を見ていないことの表れでもある。
正体不明の病に侵され命を落とした生前ですら、特筆すべきところなど皆無であると考えている。
同じ病に苦しみ死んでいった者が大勢いる。いくらか死期の読みが外れようとも同じ理由で鬼籍に入れば差異など取り上げたところで無駄であろう。
大多数から見れば奇異に映るであろうラケルでの生まれも、本質的には数多ある失敗作の一個というところに集約される。
そんなアズルトであるから、己に前世の記憶があることについても、数多ある事象の一つと考えていた。
これはゲームとしてのラケルを知るという点についても同様だ。
ゆえに自分の同類――プレイヤーの存在すら確信していた節がある。自分がこの世界に存在しているのだから、他にいないと考えるのは矛盾である、と。
ラケル世界の歴史は、ゲームで言うところの正史をなぞる形で積み重ねられてきている。大まかなところは、であるが。
細部について言えば相違はいくらでも見つけることが出来る。
身近なところで挙げるならば、以前にも述べたであろう騎士養成学校イファリスの入学年齢だ。対象年齢が軒並み二歳分低くなっている。ただこれは成人の年齢が二十歳ではなく十五歳である点や、教会法で魔法教育が許可される年齢などを鑑みれば必然と言うべきもので、実に妥当な
こうした有り得べき差異が大勢を占める中にあって、不可解と断言できるものが稀に存在する。物語の進行上、決して生き延びてはならぬ人物が死の運命を免れている、だとか。国家の命運が大きく捻じ曲げられている事例も作為を覚えるところだろう。
こうしたゲームとの齟齬に対し、プレイヤーの介在を仮定することで解消できないかと考えるのはごく自然の流れだ。
けれどすべては過去の事象。プレイヤーの存在を断定するに至るものは、これまでなにひとつとして得ることが出来ずにいた。
これはなにもプレイヤーに限った話ではない。
たとえ地球由来と思しき文化・文明を見つけようとも、起源まで辿ることは現状のアズルトには不可能だ。
時間の壁とはかくも高く厚いもの。
世界にこれまでどれだけの数の転生者、ひいてはプレイヤーが居たのかは不明だ。居なかったとは思っていないアズルトだが、その可能性までは否定しない。
だがこれからについては違う。
有る、と確信している。
したがってアズルトが同一時間軸に他の転生者、より踏み込んで言えばプレイヤー居ると仮定して動くのはごく自然の思考の流れだった。
クレアトゥールを気に掛けつつも、扱いをバッテシュメヘに任せようとした理由もその辺りにある。
彼女は『ムグラノの水紋』を知るプレイヤーであれば、その大半が意識せずにはいられぬ、つまりアズルトにとって
そして憂慮は現実のものとなる。
アズルトが直面している厄介な案件。
それはすなわち、プレイヤーの関わる難事であった。
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