命尽きるまで
千歳 一
第1話 Exhaustion
人間の運命を動かすのに、
タイトルも知らない曲の一フレーズが、人生を大きく変えることだってある。
人が多いせいか、外気の寒さに比べると教室は暖房もついていないのに生暖かい。僕はこのぬるい温度が嫌いで仕方なかった。
心の中で「おはよう」と声を出すと、僕は自分の席に向かった。月曜に担任が「今週はあいさつ週間!」なんて言い始めるから、登校時にクラスで一声かけることが義務付けられてしまったのだ。
しかし、今さら僕がそんなことをしても気味悪がられるだけだし、そもそも毎日イヤホン装備で教室に入るのであいさつを返されることも期待していない。
暇な時間を教室で過ごしたくないから、登校はいつも始業ギリギリだ。それでも授業が始まるまで五分ほどあるので、僕はイヤホンを着けたまま机に突っ伏した。別に眠たい訳ではない。ただ視覚と聴覚が塞がれることで、この他者だらけの息苦しい空間から自分を切り離すことができる気がした。僕は耳から流れ込む音に、自分の意識を委ねた——。
遠慮がちに肩を叩かれた、気がした。腕の隙間から片目だけ出して見ると、女子が愛想笑いをして立っていた。名前何だっけ、こいつ。
多少面食らったが、彼女が何を言いたいのかは何となく分かる。なんなら、次のセリフを予想してやろうか。
「ねぇ、何聞いてるの?」
僕の心の声と彼女の声がデュエットし、可笑しさに笑いそうになった。僕の経験上、こういうタイプの女子はどのクラスにも一人はいる。教室で浮いている人間に世話を焼いて、謎の「一体感」の形成に奔走するような人間。それが良心なのか「ポイント稼ぎ」なのかは分からないが、僕にとっては敵に他ならない。無視する訳にもいかないので、僕は気怠そうに返答する。
「別に……、たぶん言っても知らないと思う」
これまでに幾度となく使った言い回しでやり過ごそうとする。スマホから流れる曲は、もうすぐで終わろうとしていた。
「えーそうなの? じゃあ教えてよ!」
うわぁ。さらに面倒臭いタイプだ。心の中で毒づく。いっそのこと全部口に出した方が、キャラの確立という意味では有意義かもしれない。しかし、そんな勇気があればとっくの昔にクラスメイトと仲良くなっているだろう。
会話のフローチャートが途切れ、同時に言葉にも詰まった。別に流行り筋の曲ではないし、教えても絶対に興味など持たない。断言する、絶対だ。彼女らの目的は聞いている曲ではなく、口実を見つけて僕を揺り起こすこと。そんなことは分かり切っていた。
それに、良さも分からない人間に「この曲」を教えたくなかったのだ。
とりあえず何か言おうと口を開いたところで、一限の教師が入ってきた。
嵐は去った。僕も溜め息一つ、耳からイヤホンを引き抜いてぐるぐるに丸める。動画共有アプリが開きっぱなしだったことに気が付いて、ポケットからスマホを取り出した。
やけに画質の悪い路上ライブの様子と、輪郭もはっきりしないマイクを持った男。
『Exhaustion』のタイトルが付された動画を一瞥すると、僕は電源を落とした。
秋の日はなんとか落としと言う通り、ホームルーム中にぼんやり眺める窓の外では、橙色の空がみるみるうちに藍色に染まっていく。もう秋と呼べる時期でも気温でもないが、僕のイメージでは一年を四分割するとして、九月から十一月までが秋だ。毎年思うことだが、立冬や立夏の時期設定は少しズレている気がする。
そんな風に斜に構えているから友達ができないんだと、頭の中でもう一人の僕が言う。形式だけの起立・礼を無気力にこなし、僕はもう一度着席した。
このタイミングで帰ると、大勢のクラスの人間と帰路を共にすることになる。あのコミュニティの中で僕は「いない者」にされている、と僕は勝手に思っている。だから教室以外の場所で顔を見られたくないし、朝に話しかけられたあの女子に出くわすような事態はさらに御免だ。ある程度時間を潰してから駅に向かうことが僕の日課になっていた。僕はポケットからスマホとこんがらがったイヤホンを取り出した。
人が
だが名前もろくに覚えていない「仲間」と半日を共にするぐらいなら、寒さに耐える方がよっぽどマシだ。僕は机に置いたリュックに両ひじを乗せ、いつもの「あの曲」を再生した。
どこかの駅前のロータリーらしき場所で、一人の男が必死に何かを歌っている。だが曲にメロディーらしきものはほとんど無く、「歌う」より歌詞を「語る」と言った方が近いのかもしれない。動画の題名は『Exhaustion』のみ。曲のタイトルなのだろうが、どれだけ検索しても同じ曲は他に出て来ない。この男性が何者なのかを含め、情報は皆無に等しかった。
投稿日は今から十年前。
それよりも目を引くのが、この動画の再生数の少なさだ。十年間もインターネットの海を放浪していながら、カウンタは五百にも満たない。その無名さを裏付けるかのように、駅を行き交う人の中で足を止める者は誰一人いなかった。
コメントも評価も付けられていないこの動画にどうやってたどり着いたのか、もう覚えていない。でも少しでも時間があると、お気に入り登録の唯一のリストに僕は指を伸ばしていた。電車の中で、ベッドの上で、……他人だらけの教室で。
これよりもいい曲なんていくらでもあるし、そもそもこれを「いい曲」だと思ったことなんて一度もない。それでも言葉で言い表せないような引力に、僕は逆らえないでいた。この五百回の再生も、大半は僕のお陰かもしれないな。
五分弱でシークバーが右端に到達し、次の動画がサジェストされた。顔を上げると、蛍光灯の明かりがやけに明るい教室にはもう誰もいない。
……帰るか。完全に日が落ちた窓の外からは、運動部の活気ある声が聞こえてきた。寒いのによくやるよな。僕はスマホを仕舞うと、リュックを背負った。
「ねぇ、何聞いてたの?」
心臓が止まったかと思った。反射的に振り返ると、二つ後ろの席に女子が座って頬杖をついている。
「え、あ……」
上手く声が出せなかった。驚きと、一日学校でほとんど誰とも話さなかったせいだろう。恐ろしく間抜けな顔をしていたであろう僕と彼女は、微妙な距離で対峙する。
「何聞いてたの?」
再び同じ調子で聞かれた。見ると、今朝話しかけられたあいつではない。重そうに垂れている黒髪と色白の肌。寒いのか頬と鼻先が少し紅潮している。こんな顔の女子、クラスにいたっけ……。
て言うかなんでまだ教室に残ってるんだ? それも、まるで僕が帰るのを待ってたみたいに。
「いや……」
しどろもどろになりながら例のフローチャートを用意する。えっと、この場合に返すべき言葉は……、
「い、言っても、分からないと思うよ……はは」
下手な愛想笑いを浮かべながらカニ歩きで移動する。自分の中では最も自然に会話を切り上げる方法だ。自分の中では。
「別にいいよ、教えて」
彼女は座ったまま顔だけこちらを追いかける。純粋な好奇心から聞いているのか知らないが、僕には逃げないように監視しているようにも見えた。朝のあいつと同じぐらいしつこい奴だ。
だが、教えても話がそれ以上広がらないことは目に見えているうえ、ただの話題作りで聞いてくる人間にはどうしても教える気になれない。逃げてやろうか。心の中の悪魔……、と天使が同時に囁いた。
悟られないよう退路を確認する。呼吸を整えて逃走のタイミングを計る。
「う? どうしたの?」
もう声など耳に入らない。入り口の扉まであと少しだ。鼓動が早まるのを感じた。僕は身を翻して教室を——
「Exhaustion、聞いてなかった?」
え?
出し掛けた足が空を切り、考え得る限り最もダサい格好で前にコケた。教室の彼女はやっと立ち上がり、大丈夫?と駆け寄って来る。
……見ての通り、大丈夫ではありません。地面に這いつくばる形で彼女を見上げる。行儀の良い膝丈スカートのその上が見えそうになり、慌てて目を逸らした。寒そうだな。いや問題はそこじゃないだろ。
「……知ってんの?」
思わず声に出していた。
言ってから思い直す。もしかして何かの聞き間違いだった? それを勘違いして過剰に反応して無様に転んだ? 一気に色んな思いが駆け巡って、顔が熱くなるのを感じた。
「うん、まあね。教室静かだったから、音漏れしてたよ」
彼女はそう言って手を差し伸べてきた。気にしているのか、もう片方の手でスカートの前を押さえている。
音漏れ、聞かれてたのか。……待てよ、ってことは
「……ほんとに、知ってんの?」
「そう言ったじゃん、ほら」
向けられた手のひらを気の抜けた顔で眺める。……何、これは? 握っても良いと?
遠慮がちに伸ばした手を、先に彼女に掴まれた。柔い体温が直に伝わって、もう一度顔が熱くなる。女子に助け起こされるという情けなさを多少感じながら、僕は立ち上がった。
「あ、ありがとう……えっと」
彼女の名前が思い出せない、と言うより分からない。改めて自分の社会不適合さに呆れを覚えた。
「もしかして名前覚えてない? サラだよ」
サラ、サラか。聞いたことがあるような無いような……。外国人みたいな名前だな。
「あの、上の名前は……」
僕が恐る恐るそう聞くと、サラは悪戯っぽく笑った。
「言ったら絶対名字で呼ぶじゃん。だから内緒、サラって呼んで」
僕の考えの一手先を行くサラに、返す言葉が見当たらない。
「
明かりの消えた廊下をサラが先立って歩き、僕は呆然とその姿を目で追った。周囲の空気が急に寒くなった気がして、やっと我に返る。
「帰らないの?」ついて来ない僕を振り返り、不思議そうに言う。
「いや、帰るけど……」
ここで変な言い訳をするのも不自然だ。仕方ない、駅まで一緒に帰ろう。僕はリュックを背負い直して彼女に追いついた。
「それで、あの曲の事だけどさ」サラは、まるで友達と肩を並べているように話し始めた。
「私CD持ってるよ。貸したげよっか?」
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