第84話 ジンテーゼ―生きてよ―

(1)

 暖かな優しい風が吹く其処が何処なのか、ランにとってはとかくどうでも良い話で、何より、意識はあるもののどの感覚器も鈍感で、起き上がるのも嫌になっていた。

「(何、これ……夢?)」

そういえば、瀕死の時はこんな風に体中がだるい。そう思ったところで、ランは小さく笑って目を開けた。白にも近い柔らかな桃色をした花が、彼女の寝ぼけた視界にやおら飛び込んで、

“強くなりなさい”

と告げにきた。

 優しい風が吹くその場所は、どうやらヴェラッシェンドパレスと城下町・リトリアンナの間にある小高い丘に臨む草原であるようだ。ランの認識では、現在、季節は冬の入り口を迎えた頃だと思っていたが、咲き誇っているのは春の花――ヒナカタバミの薄桃色の花である。ランはその花弁に手を伸ばす。このカタバミの花弁の色が丁度サクラという木の花の色に似ていたので、幼い頃のランはこの花まで「サクラ」と呼んでおり、その度に母を困らせていた。

 ――母は亡くなった。

 その代わりに沢山の保護責任者が現れ、ランの周囲は突然慌しくなった。それでも、ランは解せなかった。こんなに世界は寂しくなったのに、どうして、皆、平気な顔をしているんだろう、と不思議でならなかった。

“ねえ、もうパパはママの事嫌いになったの?”

これが如何に残酷な問いかけだったのか、少し大人になったランにも解るようになった。ともかく、何時までも自分が泣いていた所為で、周りの優しい大人達は、ランと母との思い出を、残らず全部消していったのだ――故に、母の面影を残すものは、このカタバミの花だけ。

「“終幕”を呼ぶ者、か」

そう呟いて、ランは力無く溜息をついた。辛い気持ちは辛い思い出を次から次に呼んでくる。まだうまく笑えているだろうか、とランは不安になった。勿論、誰も見てはいないのだが、しかし、

「アタシが死ねば、全部円く収まるんだろうなァ? 神サマ」

たまには卑屈にボヤかせろ、と彼女だって思うのだ。勿論、誰も聞いてはいないが、だからこそ、口に出せたのかも知れない。例えば――

 傍らにイオナが居たら、引っ叩かれて散々説教されるだろう。

 傍らに凍馬が居たら、散々大笑いされた挙句、強い酒を勧められるのがオチだ。

 傍らに父が居たら、狼狽なんてものじゃ済まされない。ついでに、奴の愛は何かと痛い。

「(傍らに、イェルドが居たら……)」

と思い至ったところ、これは最早想像するのも辛くて、ランはまた一つ溜息をついた。仕方なく、ランはまだ何だか気だるい身体を起こした。

「(――強くなるって、決めたのにな)」

その花弁の像を脳裏にこっそり残したまま、ランはふと視線を上げた。

 それにしても、ツライ気持ちはどうしてツライ思い出を次から次に呼んでくるのだろう。

「え……」

ランの眼前に現れた人影に、彼女自身が戸惑う間も無く、

「お久しぶりだね、ランちゃん」

クセのある黒髪の青年がにっこりと微笑んだ。

(2)

 神々しささえ漂わせているその老婆を一瞥した凍馬は、

「お前がラン? 何だちょっと見ねえ間に老けたじゃねえか」

などとふざけたところで、一度、神剣・アミュディラスヴェーゼアを下ろした。

「脱獄とは、穏やかじゃないですね……」

一体彼女が何者なのか、イェルドは少し判った気がした。確か、神学校時代に何かの書物で読んだことがあるのだ。

 ――神の意を知る者。世を導く者にして、聖者。名を持たぬ者。聖域の守護と沈黙を担う者。或いは『神の意思』を記憶する者であり、或いは不死の者――

「……“賢者”様」

イェルドは、まだ何処か躊躇したまま、そう呼びかけた。勿論、今の今までそんな存在などフィクションであると思っていたイェルドだが、

「“賢者”と呼ぶ者もいる」

眉一つ動かさない無表情で“賢者”は言った。

「ケンジャ?」

勿論、名を明らかにしたところで凍馬にはピンと来るものなど無いが、敵か味方か判ればそれで良い。凍馬は、暫く弟に成り行きを委ねる事にした。


「今、『終幕』が訪れた」


賢者はそう宣言した。

 決して穏やかな状況ではない。イェルドは息を呑んだ。何故この状況で賢者が現れ、『終幕』の到来を告げたのか――よくよく考えてみれば答えは簡単だった。

「私は、世界を導く其の者の代わりとなって、世界と共に在り続けた」

賢者はそう言って目を細めた。


かつては一つの大地に共に生きてきた光と闇の兄弟達が、大地に境界線を張り戦い始めた時も。

その戦いを終わらせる為に大地を海で隔てた時も。

進化を遂げた民達が、大地を隔てた海を渡り、また戦いを始めた時も。

その戦いを終わらせる為に世界を空で隔てた時も。

進化を遂げた民達が、神を忘れた時も。

進化を遂げた民達が、神を超越し始めた時も。


「案ずる事は無い。民は漸く手にした平和の恩恵を享受し、結果、勇者を待たずとも打開できるチカラを得た。しかし、其処が民の進化の天井だったというだけのことだ」

即ち、『終幕』の本質とは、賢者の『終幕』の意思がランの身体を借りて、あたかもランが“終幕ヲ呼ブ”かのような外観を呈して為されるものであるようだ。

「それは許さない」

イェルドはランを抱きかかえたまま、大鎌を召喚した。

「彼女は混沌など望まない! 貴女の描く『終幕』に加担させたりなどしない!」

しかし、賢者は薄く笑った。イェルドの言葉など、青二才の戯言にしか聞こえないのであろう。今、賢者からはまた一つ恐るべき宣告が下された。


「彼女は己の宿命の罪深さに絶望した。最早、現世には戻れまい」


勘違いするな、と賢者は釘を刺す。

「世界には“神の意思シナリオ”とも言うべきしるべがある。其の者は、その意思に導かれるままに、誰の助けも望まず、意識を手放したのだ」

(3)

 「アユミ!?」

突如現れた彼の名を呼んだランは、飛び起きてしまった。

何故このタイミングで、この場所で、彼と再会することになったのか――分析する前に早くも混乱を来たしたランを嘲笑うかのように、

「浮かない顔してるね、笑って笑って」

飄々とそんな事を言ったアユミは、6尺足らずの身体を折り曲げてランの傍らに腰掛ける。そうして彼は、カタバミを手折っては、くるくると茎を回して見せた。薄桃色の果敢無い色をした花弁までもが、この時ばかりは陽気に見えた。

「アタシ、とうとうあの世に来ちまったのか……」

ランは、一方、佇んだまま大きく溜息をついた。

「……いざってなると、皆の顔が浮かんで離れないもんなんだな」

そうそう、とアユミは楽しそうに笑っている。彼と共に“先”へ往ければ、少しは明るく逝けるかもしれない。ランは、覚悟を固めた。


「もう、未練は無いよ」


アタシが彼等を傷付けてしまうくらいなら――「覚悟」というよりは「言い訳」に近いが、ランにもこれより大きな動機は無い。アユミはニコリと屈託も無く笑った。見慣れていた筈なのに懐かしい微笑だ。曰く。

「だーめ」

今いる此処が夢か彼岸かはさておき、ランはランなりに考えて重大な決断をしていたからこそ、アユミには背を押して欲しかったのだが、ランの覚悟をさらりと否定したアユミは、ゆっくりと亜麻色の髪の少女から視線を外した。

「まァた浮かない顔してるね。笑ってよ」

直ぐにアユミの慰めが喉笛に噛み付いてきた。

「知ってる? 今、ランちゃんを救うために、皆戦ってるよ」

いつも優しい彼の言葉に、ランはつい甘えそうにもなるのだが、忘れてはならないことがある。ランは、やっと何とか笑みを返せた。

「アタシは、『終幕』を呼んじゃうらしいんだって」

唐突にされたランの告白に、彼女を仰ぎ見るアユミの大きな目が何度か瞬いて見せたが、構わず彼女は続けた。

「だからなおさら、アイツ等んトコには帰れない。アイツ等だけは巻き込みたくないんだ」

アユミはしかし、全く動揺しない。その理由は、直ぐに明らかにされた。

「知ってたよ、そんな事。ずっと前から」

「へ?」

間抜けな声を上げてしまったが、ランは喫驚を禁じ得なかったのだ。

「ランちゃんは、この世界を終わらせる為に神様に選ばれたんだ、ってエリオさんは言ってたっけ」

アユミの説明が解り易かったので、いやに納得してしまったランは、早速「何故知っていて黙っていたのか」を追及するのを忘れてしまった。アユミは続ける。

「でも、神様に向かって、どうしても世界を終わらせたくないって悪態ついた奴が居て、」

そこで、アユミはニコリと笑った。

「それが『勇者』なんだってね」

ここでランは今更ながら、光の民の世界でのエリオとの戦いの意義を知ることとなった。つまり、とランは眉間に皺を寄せた。

「アタシと、イェルドとトーマは敵対してなきゃいけないワケ?!」

「そうそう。だってホラ、『勇者』と『魔王』だしね」

それなのに、とアユミは小さく溜息をついた。

「ランちゃんったら、イェルドに惚れちゃってるもんだから、おかしなことになるんだよ」

丘に吹く温かい風が優しい。まるで慰められているかのようで、二人は一度、空に視線を投げたところだ。

(4)

 ジリジリと焼け付く音まで聞こえてきそうなほど強い弟の殺気を察した凍馬は、一応、目の前の老婆は自分達の敵なのだろうと判断した。

 しかし、「賢者」と呼ばれたこの老婆の言葉が、彼にはイェルドほど深刻に聞こえない。育った環境が違うからだろうし、難しいことが嫌いな性分だからかもしれないし、事の成り行きについてイェルドがあまり彼に説明していないからかもしれない。

 今、凍馬はイェルドの腕の中で蹲っているランに視線を落としたところだ。朝日が昇る時刻が近づいて、先ほどよりもだいぶ良く世界が見渡せる所為だろうか、凍馬は、ランと目が合った気がしたのだが――前方では、イェルドと賢者の会話が続く。

 そう、確か、この老婆は、もうランは二度と目覚めないと告げたのだ。

「君の言う通り、彼女も混沌を望まないからだ」

皮肉なものだ、と賢者は笑う。イェルドの殺気が更に増した。これはいよいよ一戦交えることになりそうだと、凍馬は思う。しかし、どちらにもまだ親身になれないのはどうしてだろう。

「(多分…)」

漸く、凍馬は口を開いた。

「オレ、まだちっとも解ってねえから」

ふと、イェルドは顔を上げた。『終幕』や『賢者』について、兄には殆ど何も説明していない為、兄のその言葉は止むを得ないとは思っていたのだが、彼が「解って」いないのはそういうことではないようだ。

「お前が小難しいことで悩めるクチかよ、ラン?」

もう目覚めないと宣告されたランに、凍馬は話しかけていたのだ。

イェルドは一切の動きを止めてしまったランの身体を強く抱きしめた。

「進化の天井だか何だか知らねえケド、お前天井だの壁だのぶっ壊すの得意だろうよ?」

凍馬の声がランに届いているのだろうか、彼女の瞼が小さく動いたような気がしたイェルドは顔を上げた。しかし、賢者は低く笑ったようだった。

「『勇者』も『魔王』も、所詮『其れ』の創り給うた民の端くれ。『終幕』など解せないと息巻くのは当然である」

それを承知で、賢者は神の名の下、『終幕』の到来を告げたのだ。民が所謂『神』のモノであれば、抗えないものだと言うのだ。

 しかし、果たして世界の主役は誰だろうか――イェルドは、明護神使の出した命題を思い返していた。

“残された僅かな時間で、<アンチテーゼ>を探してくれないか?”

イェルドは、明護神使が“金のブレスレット”を託してくれたときの事を思い出していた。世界に対する民の存在意義、いや、そんなものよりも漠然としたものだったが、明護神使は確かに教えてくれた。


“民が築き上げてきたこの世界から民が居なくなるなんて、……オレは違うと思うんだ”


絶望に直面した時、追い討ちをかけるのも手を差し伸べるのも民である。神では無い。

「終幕など来ませんよ」

イェルドは賢者に言ってやった。

「貴女の足元にあるその穴の開いた“床”ですが、――」

イェルドはランを抱き上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「先程まで、その下の隠し部屋に居た私達にとっては“天井”だった場所です」

明護神使の受け売りだが、進化とは、そもそも民ありきだとイェルドは思うのである。

「誰が欠けても、這い上がることのできなかった世界が“此処”なんです」


 歴史は繰り返され、戦いは輪廻する――それはもう、どのくらい前から遡ることになるのかも定かでは無い遠い昔から織り成された歴史である。一つの世界が光と闇とに隔てられているように、二つの民が抗い始め、文明と共に進化してゆく争いの犠牲者は増加の一途を辿るのみだったという。しかし、

「今までだって色々面倒あったけど、オレ達ゃヘコタレながら何とか乗り越えてきた。コイツ等さえいてくれれば、今回だって“ゴメンね無理でした”って事にはならねえだろうよ」

凍馬はニッと笑って賢者を見据えた。

 ――例え、寿命の短い光の民が戦や魔法や“神”をも忘れ、寿命の長い闇の民は“神”に近付こうと魔法の技術は刷新し“神”さえ脅かす存在になったとしても。

 ――例え、彼女が“終幕ヲ呼ブ者”であっても。

「彼女を返せ」

イェルドは声を張り上げた。

 

「私は、彼女と生きる!」


(5)

 どうすれば良いのか解らなくなったランは、穏やかな色をした空を見つめては亜麻色の髪を掻くばかりである。

「オレさ、ランちゃんの、そーいうトコが羨ましい」

アユミはケラケラ笑っている。そういえば、二人で雨宿りした喫茶店でもそんな事を言われて、同じように彼から失笑を貰った事を、ランは思い出したところである。

「今ならオレも、もっと、素直に喜べるよ……でも、」

少し強い風が吹いた。


「――今じゃもう遅いんだ」


アユミは、ランに合わせて軽やかに立ち上がると、やおら丘を下り始めた。このまま彼が何処かに消えてしまうのではないかと心配したランは、慌てて彼の姿を追う。

「ねえ、ランちゃん、」

と呼びかけるアユミの声が、少し遠くから聞こえてきた。


「……オレの分までちゃんと生きてよ」


丘を流れる風が優しい。傍らの彼と同じくらい、優しい。今まで傍に居てくれた仲間達と同じくらい、優しい―― 

 一体何が琴線に触れたのか解らないが、ランは泣き出しそうになった。そんなどうしようもない彼女の表情を、不意に振り返ったアユミが見つけ、彼はまた失笑をくれた。

「“ざまァ見ろ、ちゃんとこの世は楽しかったよ”って、言いに来てよ」

風がランの亜麻色の髪を撫でて、向こうへ転がって行った。やたら長閑な此処でさえなければ、いくらでも泣けただろう。

「オレがこんな事言っても自分勝手だって笑われるかもしれないケド、」

などと自嘲したアユミは、カタバミの生い茂る丘を仰ぐ。

「あのヒトに、今、辛いんだって言ってきなよ」

振り返ったアユミが、申し訳なさそうに笑って見せた。

 ランの脳裏に、かけがえのない仲間達の顔が浮かんできた。

 口を開けばいけ好かないが、助けが欲しい時に真っ先に駆けつけてくれる凍馬。

 余裕ぶってるクセに人一倍傷付き易く、その分人一倍傷によく気が付くイオナ。

 そして……

「あの人だってちゃんと知ってるよ。ランちゃんがツライ思いしてること。だから、きっとランちゃんを救ってくれる。信じて戻りなよ」

――イェルド。

 ランは大きく一つ頷くと、ヒナカタバミの丘を駆け上がる。長いカタバミの茎と、急な斜面に何度と無く足を取られつまずきそうになりながら。


その先にあるものを信じて――!

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