第82話 dog eat dog(ワンワン)

(1)

 ピアスを装着し直したアイリーンが、いち早くリトリアンナを後にした。

「――汝ノ弟ハ 破壊ノ神ニ加担シ 終幕ヲ呼ブ者デアル」

不意にネハネの口から飛び出したのは、エリオが最後に授かったというイワク付きの神託である。古代語であったのだが、一度聞いた覚えがあった凍馬は、彼女にもう一度意味を問うた。

「お前の弟は、破壊の神に加担し、世界に終りを齎す者である」

ここで、ネハネは凍馬と目を合わせた。

「ところでお前の弟は、破壊の神を助けに行くんだそうだが、お前はどうする?」

しかしそれは訊くまでもなさそうだった。半月刀を取った凍馬はニッと微笑む。

「じゃあ、ちょっくら、世界に終りでも齎してくるか?」

(2)

 冷たい風が楠の林を駆け抜けていく。欠けた月を置き去りにしたままの空は、夜明けを前に青ざめているようだ。果たしてそれはこの底冷えの所為か、それとも畏れの所為か。

「何を難しい顔をしている?」

バーナードは、まだ困惑しているデュトゥールに声をかけた。しかし、元部下である彼の気持ちが解らないほどバーナードは鈍感では無い。今は高貴なる立場で政に当たる彼に、「頭を冷やせ」などと詰ってやるよりはマシだろう。何とか、デュトゥールは口を開く。

「奴が勇者ならば、魔王たるランを殺し、終幕を回避せんとするだろう」

上皇の懸念は暁の森に小さく共鳴した。

「何故、引き止める?」

デュトゥールは首を横に振る。自分の愛娘が“終幕ヲ呼ブ”などという神託を授かった日から、彼の内心には、漠然とだが底知れぬ恐怖があった。かつてデュトゥールの上官でもあり、最も信頼していたバーナード元帥にはそれを打ち明けていたところ、然して、この仕打ちである。

「陛下に副脳が取り付けられているのなら、解除せねばなるまい? 陛下を救えるのは、“白き勇者”のみ。例え、陛下が所謂“魔王”であったとしても、だ」

所詮第三者ではあるが、少なくともバーナードはそう思うのである。それだけの理由で、彼は上皇の前に立ちはだかっているのである。

「――まさか、陛下を副脳でコントロールできれば、終幕の到来を防げるとでも思っているのか?」

できれば否定して欲しくて、バーナードはデュトゥールを挑発してみた。しかし、

「オレにはもう、解らんのだ。」

デュトゥールの焦りの矛先が、目の前の身近な“障害”へと向きを変えただけだった。

 「今のお前様となら、……オレが勝つだろう」

デュトゥールが拳を構えた――正面突破予告である。普段、極めて政治的なこの男の気質は、本来、随分と素直なものであった。

「……やってみるか?」

バーナードは笑って見せた。

 楠の葉を揺らした風が止む。

 仕掛けたのは同時。右のフックが二つ、デュトゥールの下腹部に入る。バーナードの左の中段蹴りを何とか右腕でブロックしたデュトゥールは、そのままバーナードの死角に飛び込んで回し蹴りを見舞う。しかし、その動きはバーナードに読まれていた。

「皇室で鍛えていたのか?」

バーナードからの挑発とフェイントに虚を突かれたデュトゥールは、背面に何らかの強い衝撃を受けて地面に叩きつけられる。脳を揺らされて軽く眩暈がしたが、それより肋骨を楠の根元に打ちつけた痛みの方が大きい。それにしても、とデュトゥールは思う。

「やはり、寝不足なんだろう? 拳が軽くなってるぞ?」

多少の痛みなら、日頃の愛娘とのスキンシップ(?)で慣れていた彼は、直ぐに体を反転させて起き上がる。そのまま彼は、立ち眩みながらも、向かって右方向から繰り出されるバーナードの中下段蹴りとソバットのコンビネーションを受け流しながら、間合いに飛び込んだ。

「くっ!」

バーナードは後方に逃れてこれを躱わす。否。直ぐに軸足を変えて攻撃に転じた。

「拳が軽いのは、“アマンダ”がダイエット中だからだ」

真偽はともかく、暫く互いに確かめ合うような攻撃と防御の応酬が続く。

「ダイエット? 恋人か何かは知らんが有事中は勘弁してくれ」

「内心の自由くらい全うさせろ」

埒が明かない、と互いに判断したようだ。まるで図ったように、間合いを取るタイミングが一致した。互いに利き手は右である。他には何も必要なかった。踏み込む左足の速さが勝敗を決する。

「(狙うは先手。取るならカウンター……)」

相手が息を吸う小さな音を聞く寸前のタイミングで――

「(今!)」

リーチの利を生かし、カウンター狙いで繰り出されたデュトゥールの右のストレートに大きく体勢を崩されたバーナードは、更に鳩尾に強烈な拳を喰らう。

「ぐ……っ!」

バーナードの身体が大楠に叩きつけられる。大きく枝葉を揺らした霊木は赤く色付いた葉を落とし、辺りはまるで吹雪のようである。

「この忙しい最中だからこそ、お前様には、今はきちんと睡眠時間を取って欲しいんだ」

当人は散々とぼけてくれたが、バーナードの利き手の拳が、普段よりも少なからず軽いのは過労の所為であろう。

「フ……ムシの良い奴だ」

バーナードは左足を軸に身体を反転させると、右の踵でデュトゥールの背後を取る。しかし、先刻と比べて速度を落としたこの蹴りは、簡単にデュトゥールに防御されてしまった。

「“アマンダ”と添い寝できないのは残念だが、先へ往かして貰うぞ」

最早バーナードは動けそうに無いと判断したデュトゥールが、イェルドを追う為、大楠を離れようとしたその時である。

「添い寝してやれよ。ただでさえ肌寒い季節なんだからさ」

ふと、そんな気の利いた声をかけられたデュトゥールは、しかし、声の主を振り返って絶句してしまった。

(4)

 疲労困憊というのは恐ろしいもので、例えば此処が柔らかなベッドの上でなく、大樹を支える太い根が這い蹲るような堅い地面でも、充分眠りに就けるだろうと錯覚さえしてしまうのである。

「あ……」

丁度、鳩尾に強打を受けたバーナードもそんな状況に陥っていた。幸い、此処に敵の姿は無い。加えて、この日の月の光のような穏やかな声が聞こえてくるのだから、尚更である。

「……凍馬か」

身体を大楠に預けたままで確かめることが出来なかったが、バーナードは口元を緩めた。ヴェラッシェンドという大国の帝国軍元帥を任されている彼の憧憬の対象が、盗賊を生業としていた凍馬であったことは、既述の通りである。もっとも、その首に懸けられた値段の所為で「来客」の絶えなかった凍馬は、彼との因縁など覚えていないだろう。多分。

「凍馬、」

と彼の通り名を正確に発音したデュトゥールは、一転、政治家に立ち戻る。戦えば不利である事くらい、自明であるからだ。

「邪魔をするな。“身軽”になったばかりだろう?」

そう言い放ったデュトゥールは眉を上げた。例え誰に権力濫用と蔑まれても、“双子の勇者”から愛娘を守ることが出来れば、彼はそれで構わなかった。

「ランパパはお前か? 成程、眼つきが似てやがるな」

帝国の上皇を“ランパパ”呼ばわりした凍馬の黒のショールが、暁の蒼い風に翻る。

「よく娘を知っているようだな」

デュトゥールは眉を顰める。“勇者”と“魔王”は想像以上に近付いていたようだ。

「凍馬よ、何故此処へ現れたのだ?」

デュトゥールの懸念をよそに、カラリと乾いた音を立ててピアスを揺らした凍馬の視線は、上皇から遠巻きのパレス方向へと投げられた。いよいよ焦りを感じた皇帝の問いはやや具体的になる。

「ランの……“終幕ヲ呼ブ者”の抹殺か?」

しかし、上皇の焦燥などお構いなしに、凍馬は笑い声を上げたのだ。

「お宅の姫は、殺したって死なねぇだろうよ」

この回答は全く予期していなかったデュトゥールの戸惑いをよそに、凍馬は続けて先程の上皇からの問いに答えることにした。

「無二の親友のピンチに駆けつけたところなんだが、ご不満か?」

半月刀を鞘に入れたまま、凍馬はその柄を手に取る。

「悪ィな。さっき、ランが“破壊ノ神”だとか何とかだってのは聞いてきたんだが、オレには、お前らの言う神のお告げってのは、正味よく分かんねえんだよ」

厄介だ、と上皇は思う。イェルドのようにある程度予備知識があれば、論破の余地もあるのだろうが、凍馬には所謂『神』や『終幕』といった世界の宿命から説いていかなければならなさそうである。しかし、上皇が途方に暮れている間に、凍馬の方が持論を補足し始めてしまった。

「確かにお宅の姫は、素行不良だし、短気だし、ガサツだし、口も頭も悪ィし、ケンカっ早ェケド、」

途中、「大概にしとけよ」とランの父の苦笑が引きつったところで、何とか逆接が入った。

「――誰かを傷付けて喜ぶような奴じゃねえよ」

わざわざ言わなくてもランの肉親である彼なら知っていることだとも思ったが、彼の表情に陰が差したので、凍馬は続けた。

「アイツは、“破壊ノ神”とやらで“終幕ヲ呼ブ”宿命なのかもしれないけどさ……」

ふと、欠けた月を仰げば、海を隔てた北方の空のそれと同じ色をしていた。青い陰にもよく映える上皇の銀の髪は、実は、ペリシア地方に多い髪の色である。

「お宅の姫なら、宿命だか運命だかからだって何とか脱線できるだろうよ」

ほんの数日前まではこの凍馬さえ、森羅万象何もかもが神様とやらの敷いたレールの上に乗っかっている、と思っていた。

――世界有数の危険地帯に単身で乗り込んで、ボロボロになりながら自分を連れ戻しに来たイェルドを見つけるまで。

――得体の知れない「権力」とやらを何とか駆使して、自分の犯した罪を消す為に腐心してくれたランを見つけるまで。

「『勇者』は『魔王:』を討つもんだ、って神様とやらが言ったんなら、オレもイェルドも、きっとお宅の姫も、何とか脱線してやるよ」

恐らく、空の上にいるのであろう神様とやらは知らないのだ――レールの上に花は咲かないことを。

「アンタなら、信じてくれるだろ?」

結構な博打だったが、凍馬はこのデュトゥールという人物に問いかけてみることにした。

 青臭い、とデュトゥールは思った。

「(いや、これは……)」

――やおら、頭の中から潮の満ちる音が聞こえてきた。青い筈の海が、赤く濁って自分に押し寄せてくる。

「(血腥い、磯の匂い)」

確かに、デュトゥールはペリシア地方の出身である。あまり良い思い出が無かったため、遠い昔に、彼が丁寧に握り潰した筈の過去が、今度は彼の背を押してくれた。

「娘を……ランを救ってやってくれ。頼む!」

膝から崩折れた上皇から、皇族の威厳がぷつりと消えた。但し、彼は今、確かに父親の顔をしている。

(5)

 ペリシア帝国帝都・セディアラのスラムにある、とある遊技場はひっそりとしていた。本日は定休日である。

「あーあ。疲れた!」

気だるげに客間のソファに身体を投げたシュリを、“シェラード「赤い月」戦線”の構成員達が迎えた。

「半分成功。半分失敗」

そう端的に首尾を説明したシュリは、しかし、魔法核弾が作動し始めていることについての言及は避けた。こういう者達が自棄を起こすと危険である、という認識はあるらしい。

「今回はパクられた子も多いから、一旦、しきり直そう」

シュリは戦力を帝都・セディアラに集結させるよう指示し、早速、人払いを始めた。

 ――この一連の茶番を、エリオは遠巻きに眺めていた。

“よく知ってるからこそ、副脳を取り付けたんだよ”

とは言われたが、前職や家族構成を訊かれた事を考えるに、どうもシュリは、エリオ本人の記憶を取り戻そうと腐心しているようにも見える。

「新入りサン、」

と相変わらず名前を呼ぼうとしない主に、エリオはつい、生返事をしてしまったところである。

「新入りサンは、帰りようが無いよね? 此処にいる?」

それにしても、ついこの間まで第一皇位継承者であった者とは思えないくらい、シュリは上下関係に疎い人物であるようだ。こういうところが、一社会活動家としては魅力的なのかも知れないが、不肖・単細胞に過ぎない副脳としては、収まりの悪さを感じてしまうのである。

「ああ、そうか。此処にいろ、って言われた方が良いんだよね」

とりあえずシュリが副脳の扱い方をおさらいしたところで、エリオの居場所は決められた。

 “今日やってないの?”と外から声が聞こえる。愛と平和と快楽を「身上」とする輩が音楽かロータスを求めてやってきたのだろう。続けて、“それいくら?”と声がした。

「あーあ」

と唸りを上げたシュリが、やおらソファから這い出て表へ出たところである。となると、エリオも護衛の為、付いていかざるを得ない。

「あーあ」

とエリオも唸ってしまったのは、「本人」がなかなかの怠惰だった所為だろうか。

(6)

 鳥が朝の訪れを告げたが、まだ辺りは明かりが無いと覚束ないくらいに暗い。楠の林を吹く抜ける風はすっかり冬の色をしており、厚手の外套を纏っていても風邪をひきそうなくらい寒い。

「……休めるんなら、休んどき」

西部訛りの女性がデュトゥールに声をかけた。

「顔色悪いで」

などと、よく見えもしないだろうに、彼女は言うのである。

「お前様がその姿、ということは、添い寝でもして慰めてくれるワケか?」

と、早速だがデュトゥールの口からは性懲りもなくセクシャルハラスメント(?)が飛び出したので、アマンダは『正義の拳』を繰り出す。当たり所がデリケートに過ぎる部位であった為、デュトゥールは低い唸り声を上げてのた打ち回るしかなくなっていた。

「アンタにナンパされて、もう大分経つけれども、……」

そう呟いてブロンドを掻き揚げたアマンダは、大楠に身を委ねた。

「ちょっと待て。まだこちらはシリアスに話せる態勢に無いぞ?」

と、腰を突き出して蹲る上皇から異議が出たが、アマンダは重たい睫毛をパチリとさせただけだった。

「……まだ痛むん?」

その問いに対する答えは一見明白だが、アマンダが訊いているのはそれではない。ただ、このややこしい元上官とは長い付き合いとなるデュトゥールには、元上官の言わんとすることがよく解っていた。

「痛みというほどのものは、もう無い」

蒼い風が林を吹き抜けていく。

 個人差はあれど、成り上がれば後ろめたい事の一つや二つは出てくるもので、この上皇も、そういうありふれた民の一人である。後ろめたい事は、多くの場合明るみに出ないが、それでも滞りなく世界は回るので、赤の他人にとってはどうでも良い些事である。あえてそれを「傷」に例えるなら、現在は治癒という状態である。ただ、不意に「傷跡」を見て、ぎょっとする事がある。今顔色が悪いというのなら、それが原因であろう。

「――オレはまた、大切な存在ものを失うのだろうか」

 デュトゥールという名は、彼がヴェラッシェンドで使い始めた名前である。故郷・ペリシアでも通り名くらいはあったが、彼は気に入らず、すぐに忘れてしまったのだという。

 彼は、ペリシア地方の貧しい海岸集落で妹と二人で暮らしていた筈なのだが、ある日突然、彼女は血塗れになって浜に打ち上げられて動かなくなっていた。以来彼は、妹の「死」を受け容れるのに随分と時間を使ってしまうこととなる。


 拠り所も居場所も守るものさえも失い、ただ漫然と反射的に生きていた彼は、行きずりの女にあっさり唆されてペリシア帝国の帝国軍工作部隊の一員となる。しかし、そこにも落ち着けなかった彼は、根無し草のように各地を転々としていた。

 そうしている内に、彼は派遣先のヴェラッシェンドで“絶世の美女”を見つけ、いともあっさりペリシア帝国の工作員の肩書きを棄てた。早速ナンパして口説いた“絶世の美女”にノコノコ付いて行った結果、“絶世の美女”だと思っていたアマンダという女は、バーナードという名の青年将校だったというオチである。

「……それは自分の所為や無いで」

アマンダは、この捉え所の少ないデュトゥールという人物の本質を見抜いていた。故に、自分の部隊に彼を招き入れたのだ。

「護れる存在ものは、ただ己のみ。なまじ他人より幾らか強いばっかりに、アンタは今も昔も、それを否定しようとして途方に暮れている」

とはいえ、誰かの為になろうと鍛錬したからこそ、彼は強くなれたのだ。誰かの為に戦ったからこそ、彼は傷を負ったのだ。「この世話焼きめ」とアマンダが笑ったところである。

 

 折しも、デュトゥールの二分の一の視野でも、夜が明け始めたのが判った。

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