第60話 主と罪人に捧げるトッカータ(2) 

(1)

 敵の数を把握する為にモニターを確認しようとしたビルフォードとネハネは、表情を強張らせたイオナの青白い顔に気付き、互いに目を合わせた。

「お前達だけでも脱出しろ」

ネハネが警告音の解除スイッチを押してそう打診した。

「ダメよ! みすみす殺される気? 折角、ビルフォードが更生の道を与えてくれたのよ?!」

任務に失敗したペリシア帝国工作員の末路など想像に容易い。イオナは何とか自身の動揺を押さえ込むと、正面入口に対峙した。

「気持ちは嬉しいが、相手が悪い。早く!」

扉の向こうから複数の軍靴の音が聞こえてきた――もう手遅れであるようだ。ネハネは十分に説明もできずに、エリオをゆっくりと抱き起こして車椅子に座らせた。

「私達は、何とかうまくやっていくさ。だから、心配しなくて良い。早くどこかに隠れていろ!」

強くイオナの腕を引いたネハネだったが、彼女の手はもっと強い力で振り払われた。

「アタシだって戦いたいわ! 守られて甘えているだけじゃ、貴方達にも失礼だもの!」

 自国の民を守るために戦うランやビルフォード。

 ランを守るために戦うイェルド。

 あえてペリシアとは違う方法で世界に革命をもたらそうとし、生死の淵に居るエリオ。

 彼の過ちを一身に背負うネハネ。

 そして多分、孤独に返ることで仲間を守ろうとしている凍馬……

「アタシじゃなければ、できない事だってあると思うの」

「イオナ……」

彼女がかつて、ペリシア帝国の帝国元帥と呼ばれていたことを、ネハネは最近知った。彼女がどのような経緯でヴェラッシェンドに擁護されているのか、祖国ペリシアについて何を思っているのかも、大体見当は付く――だからこそ、今彼女が対峙しているものとそれに伴うとてつもない覚悟が伝わってきたのだ。ネハネは、一応了承すると、黙々とエリオを乗せた車椅子を移動させる。

「察するに、だいぶ険しい道を選んだと見えるが、」

形勢を見極める為、ビルフォードはモニターを見守る。

「お前に何かあっては、元も子もない」

敵の数はモニターで確認できる範囲で、せいぜい4,5人といったところだろう。エリオとネハネの回収班にしては人数がやや少ないようだ。それも、一人の高官とその側近達が出向いてきたといったところだろうか。一体誰がやってきたのか、ビルフォードには皆目見当も付かなかったが、ペリシア帝国の軍事力がいかほどかはよく解らない彼から見ても、大量殺戮可能な死霊使い(ネクロマンサー)・ネハネや、“バケモノ”であるエリオの相手にしては少なすぎる人数ではないか、と思った。

 「大丈夫」とイオナは笑って見せたが、軍靴が近付くにつれて、その表情からいつもの余裕が消えてきている。しかし、それはそれとして、

「きちんと過去の清算をするチャンスを、きっと神様がくださったのね」

イオナから、かつてない程の覚悟を感じ取ることは出来た。

「(せめて、ラン達に現状を伝えられないものか)」

これといった打開策が思い浮かばなかったビルフォードは小さく唸るしかなかったが、彼の懸念を察したイオナが、これから起こり得そうな事と、とるべき行動を端的に説明してくれた。

「今から来る男は、ペリシア帝国元帥メーアマーミー・デホラ・フォンデュソン」

――ノックの音がした。

「……アタシの元・婚約者」

扉が開いた。

(2)

 凍馬を逮捕する――動揺のあまり言葉を失ってしまったイェルドの為、姫は言葉を補足した。

「罪名は住居侵入罪だ。奴が公判で自らペリシアとの因果関係を否定してくれれば誰も文句は無いだろう」

ランの邪推が正しければ、事態は一刻を争う。

「心配するな。一国家の健全な司法が、兄弟間の込み入った話を根掘り葉掘り聞くことはない」

それは、この兄弟をよく知るランにできる、精一杯の慰めだった。


 イェルドは深く頭を垂れた――正直嬉しかったのだ。ランが一体何故このような策に打って出たのかは未だ掴みかねているものの、もう二度と会うことはないと思っていた兄と再会する大義名分を与えられたことが。

 勿論、イェルドとしても気がかりは残る。ヴェラッシェンド帝国の城(パレス)は既に敵の内偵がはびこっている。自分の不在時に、ランにもしものことがあっては意味が無い。しかし、イェルドがそう口にするや否や、

「たわけ。手前の面倒くらい手前で見てやるさ!」

と威勢の良い声が飛んできた。「失礼しました」と苦笑を覗かせたイェルドに、ランは少しきまり悪くなったのか、背を向けた。いや、今日は少し様子が違うようだ。

「いざとなったら、……ちゃんと頼るつもりだ」

ランの首元には、ネハネとの戦いの際、退霊の為にイェルドが彼女に貸していたロザリオがかかっていた。

「自分独りじゃ何も出来ない。お前やイオナやトーマが付いていてくれたから、アタシは何処でだって戦えた」

いやに水臭くなったが、止むを得ないとランは思っている。今後、こうして個人的に彼と話す機会もそう多くは無いことは解っているからだ。

 逮捕命令を出した凍馬という盗賊は、北方大陸に拠点を置いている。ヴェラッシェンドの統治の及ばない北方大陸の無政府区域に足を踏み入れるとなれば、幾らイェルドといえども簡単な任務とはいかなくなるだろう。

「――だから、絶対に戻って来い」

慣れないヒールの音を立てて、ランの足音が遠ざかる。イェルドはその後姿に「御意に」と宣誓すると、もう一度、深く頭を下げた。


 扉を開ける音と同時に、これまでの静寂が打って変わって、城内のざわめきが聞こえてきた。そのざわめきの中から、「素晴らしい演奏だったぞ、聖戦士長」という、いやに他人行儀なかの姫の声が飛んできたと思ったら、メイド達の黄色い歓声と拍手が聖堂中にこだました。


 その拍手と歓声からずっと遠く離れた某所で、聖堂内の動きを見張る者がいた。

「……ホンマに、よう出来た部下やわァ」

隠密部隊隊長・アマンダのブロンドが少し冷たい風に揺れた。

「アマンダ様、一々感心してないで、今解った事をおっしゃって下さらないと、アイリ達は動きようが無いんですけれどォ」

アマンダの横に控えるのは、側近のアイリーン(自称;アイリ)である。臙脂の装束から覗く大きい目は、上司の指示を催促していた。しかし、聞こえてくるのは唸り声ばかり。

「オルガンの音に遮られて会話が全然聞こえへん上に、オルガンの蓋で口元が完全に死角になって読唇もさせてもらえへんかった。ホンマによう出来たコや」

「アマンダ様!」

アイリーンは小さく溜息をつく――上官の目がしばしば上方に泳ぐので、その内適切な指令はあるだろう。彼女の溜息の原因は、この出来の良い「標的ターゲット」である。上官の指示があるまでとりあえず、アイリーンは聖堂内の聖戦士長の一挙手一投足を観察することにした。

 現在は押しかけてきたメイド達の相手に手を焼いている彼も、城下町リトリアンナでは腕利きの賞金稼ぎバウンティハンターと噂されていた。彼の魔法属性は『光』と『風』の二つ。闇の民でありながら『光』属性魔法を扱えるのは大変珍しく、100万人に1人とも言われている。頭脳明晰かつ武芸の才も非凡なものがある為に幼少より「神童」と呼ばれていた彼は、各所で一目置かれており、今回のロイヤルガードへの推薦も、軍事局や国教会や城務省がバックアップしていたというから空恐ろしい。

 但し、持って生まれた輝かしい才能とは裏腹に、前帝国聖戦士長・アルや彼の妻・ヴェールとは似ても似つかぬ容貌をしている上、ヴェールが懐妊していたと聞いた者は皆無だった為、彼は孤児であったのだろうと言われている。永年彼が公のポストに就く事を拒み続けていたのはそれが原因だろうが、逆にそれが彼自身や彼の養父・アルの徳を高めていたのは事実である。

 しかし、ペリシア帝国の宣戦布告当時、彼は皇女と共に行方をくらませていた者の一人である。ペリシアと裏で繋がっているのではないかとの非公式情報もあった。イェルドの門地が明らかになっていない以上、皇女が彼の潔白を主張して表向きの体面は繕えたとしても、彼もまた、凍馬同様ペリシアとの因果関係を完全否定できない。いずれにしても、何故、皇女と共に行方をくらませていたのか、行方不明時何処で何をしていたのか、真相は一切不明である。

「彼は、同胞と見ても良いんですかァ?」

アイリーンの質問に、アマンダは一つ唸った後、「解らない」と正直に答えた。

「彼にはそのつもりが無いからな。まあ、追々ウチが調教したらなアカンかなあ」

了解、と返事をし、アイリーンはイェルドを監視する。現在彼は押しかけてきたメイド達を体よく追い返そうとあれこれ手を尽くしているようである。

「今日明日中にリトリアンナで凍馬についての情報を探し回る筈や。北方に行くコストを最小限にする為、最初の情報収集に結構な時間を使うやろな――まだ当面は、城下町リトリアンナでの彼の動きを警戒しておこうか」

上官からの指示が漸く出た。

(3)

 時が停まった気がした――ありふれた表現だが、まさにそんな静寂だった。


 突然の再会から一体どれくらい感情を失ったまま立ち尽くしたのか判然としないまま、かつては婚約さえ交わしたという二人は、過ぎし時の遥かなるものを感じていた。

 ペリシア帝国軍元帥・メーアマーミーは、扉の向こうに控えていた女性に眼を奪われたまま動けなくなってしまっていた。

 何時だったか、彼は彼女の全てを――存在も、犯した罪も、思い出も、そして愛情も――灰燼に帰さんとして、彼女に火を放った。今の今まで、それが彼女との永久の決別の時だと思っていた。何故だがその彼女が今、青白い顔をしてそこに立ちはだかっている。

「これ以上、お通しすることは出来なくってよ?」

あえて「久しぶりね」とは言わなかったイオナは、やってきたペリシア帝国軍元帥に冷笑を投げつけた。元帥に続く軍靴の音が続々と医務室に集まってきた。

「そこを退け、小娘!」

メーアマーミーの取り巻き達が声を荒げた。

「状況を説明せよ! エリオ!」「起きろ! 起きぬか!」

イオナを腕ずくで退かそうとした側近の一人がビルフォードの迎撃に遭い、扉の面の壁に叩き付けられる。その音で漸く気を取り直したメーアマーミーが、いきり立った側近達を制した。

「てっきり、死んだものと思っていたが……」

メーアマーミーの漏らしたその言葉に主語がなかった為、それはイオナに向けられたものなのか、エリオに向けられたものなのかは分からなかったが、話は直ぐに本題に入る。

「貴殿は、レッドキャッスル帝国のビルフォード元帥とお見受けしたが……成程、我々はこちらでも敗北を喫していたわけか」

メーアマーミーは車椅子に乗せられ、宙を仰いでいるエリオと彼の傍らに控えるネハネを交互に見た。

「(状況判断の速さは相変わらずね)」

イオナはメーアマーミーの挙動に注意を払った。彼は、この場が自分に有利と判断すれば、直ぐに攻撃してくるだろう。

「エリオは目覚めないのか?」

メーアマーミーはネハネに問うた。

「いつか目覚めるのか、永久にこのままなのか、私には分かりかねますが……稀に正気を取り戻すこともあるようです」

ネハネは簡単に、そして的確にエリオの現状を伝えた。それを聞いているメーアマーミーの表情からは、全く感情の欠片も窺えない。その細く切れた目がいけないのだ、とイオナは昔、この男に云った気がする。そして「どうせお前には全て分かるんだろう」とか何とか云い返された気がする。無表情は相変わらずだが、昔より表情は丸くなっただろうか。

「無様だな、エリオ」

侮蔑というよりは遺憾という表情だろうか。ともかく、メーアマーミーは吐き捨てるようにそう言うと、真っ直ぐイオナを見据えた。

「その二人を本国に連行する。即刻引き渡せ。さもなくば、強制執行手段をとる」

「お断りするわ。何も見なかったことにして、さっさと故郷へ帰ることね」

側近の数は5人。しかし、上官の指示が無ければ何も出来ない無害な連中であるようだ。数は不利だが、勝機が無くはない――ビルフォードは暫く状況を見守ることにした。しかし、

「……心配なら、お前も付いてくれば良い」

メーアマーミーが表情一つ変えずに言い放ったその言葉は、実はこの件についてイオナが一番引き出したかった条件だったのだが、イオナ自身、こんなに早く簡単に、しかもまさかこの男の方から出てくるものとは思っていなかった。

「正気? アタシをペリシア帝国から追い出したのは、貴方じゃない!?」

しかも止めまで刺して――イオナの怒気が伝わったのか、メーアマーミーは不敵な笑みを見せた。

「ヴェラッシェンド陥落に失敗した矢先だ。お前の助けがあれば、我らが皇帝もお喜びになる」

全体主義丸出しのこのメーアマーミーの発言に、「呆れるほど相変わらずね」と言ったきり閉口したイオナは元婚約者を睨みつける。

「(目的の為なら手段を厭わない、といったところかしら)」

エリオを戦力として使えないことは、彼、否、ペリシア帝国にとって相当な痛手だったのだろう。構わず、イオナはその“手段”とやらに便乗することにした。


“今に合わない古臭い秩序なんて、アタシ等でぶっ壊してやろう”


――盟友・ランとの誓いを守る為に。

 「イオナ、それは……」

ネハネは勿論、メーアマーミーの側近達も動揺している。

「行くわよ。ペリシアはアタシの故郷ですもの」

条件は、エリオとネハネの安全保障。いとも簡単にそれを了承したペリシア帝国元帥は、ビルフォードを一瞥した後、先に基地を後にした。


 ペリシア帝国に帰還するイオナを、ふと、ビルフォードが呼び止めた。

「闇の民が脅威であると、世界に報告したくは無い」

頼んだぞ、と簡潔に送られた言葉の裏に、レッドキャッスル帝国軍元帥から強く残された激励と忠告をイオナは確かに受け止めた。

――光の民の世界への侵攻はまだ続くのか。もしそうなるのであれば、これ以上は守れない。闇の民の持つ魔法科学力を公にし、我々は来るべき脅威に備える。これは“光の民”からの最後通告である。

「任せて頂戴。こんな形でお別れするのは残念だけれど」

イオナは笑って見せた。その気丈な微笑には、いつもの余裕以上に、決意というべき確固たる意志を感じ取ることが出来たので、ビルフォードは和平の一端を彼女に託した。

「英断に感謝する」

ビルフォードがイオナに最敬礼し、イオナもそれに応えた。

(4)

 かくして、イオナはメーアマーミーと共に、ペリシア帝国へ戻ることとなった。

 彼女がどういう経緯でペリシアに戻ることになったのかは公にされることはないだろうが、彼女の竜王の能力を以ってすれば、大きなポストが付いて回るのは時間の問題だろう。

 それはさておき、ペリシア帝国元帥一行が空間の歪(ひずみ)から闇の民の世界に戻った際に、一つ事件が起こった。

 エリオの車椅子を引いていたネハネの足が、ふと、止まったのだ。

「ネハネ?」

その時、イオナは彼女の心の声を聞いた――


“どうかエリオ様を、頼む!”


 刹那、空間の歪を拡充し異世界との往来を確保する為に配備していた術者の一人が、ネハネにより攻撃された。

『強化魔法球(ブラスト)!』

一体何時の間に詠唱を唱えていたのか驚くくらいの、完璧なブラストが炸裂し、辺り一面が暴風に見舞われた。

「血迷ったか、ネハネ!」

エリオの側近達が迎撃体制に入ろうとしたが、彼女は暴風で騒然となった隙に乗じて姿をくらませた。すぐに「うろたえるな」と、元帥の怒号が森に響き渡った。

「此処は“修羅の森”だ。小娘が調子に乗れるフィールドではなかろう」

メーアマーミーは冷静に、冷徹に、無国籍地帯の境界周辺の警備の強化を命じる。

「まだ遠くへは行けない筈だ。総員、必ず確保せよ!」

側近も幾らか離れ、負傷兵の回収と連絡線に入る。始終黙したままのイオナであったが、せめて神には届くよう、彼女の無事を祈る。ふと、怒号渦巻く喧騒の中から、カラリ、と乾いた音がした。車椅子の車輪が回る音だ。規則正しくカラリカラリ、と音がする。顔を上げたイオナに、声が掛けられた。

「これもお前が仕組んだのか?」

エリオの車椅子を押してきたメーアマーミーが、そんな風に話しかけてきた。やっぱり、少し彼は変わったなとイオナは思う。そう言えば、取り巻きの数も以前より減っただろうか。

「……似合わなくってよ?」

彼の質問には答えない代わりに、イオナは彼に代わり車椅子のハンドルを執り、エリオの背を押した。

「それに、アタシが何を仕組んだと言うのかしら」

あまりに危険過ぎる為、イオナは頼むことが出来ていなかったのだが、ネハネはしっかり察してくれていたのだろう――彼女ネハネは今、敵国・ヴェラッシェンドへ亡命しようとしているのだ。

「(アタシの現状を伝える為)」

何やら呻き声を上げているエリオの表情が少し不安そうにも見えて、イオナは気が咎める思いがした。それを知ってか知らずか定かではないが、また、彼女に声が掛けられた。

「変わらないな、お前は」

一体彼女のどんな点を指してメーアマーミーがそんな事を口走ったのかは分からないが、それは本当に正しくない。イオナは眉をひそめたまま、「分かった風なこと云わないで」とそっけなく返した。


 故郷ペリシア帝国はもう目と鼻の先である。

 イオナは、何とは無く自分のカットソーの襟口に目を遣る。バラの形をしたコサージュが服から外れかかっており、歩みを進める度に不格好に揺れていた。そういえば、少し前に異世界の森の中で服から外れたこのコサージュを、テグスで仮止めしていただけであったのを、イオナは今更ながら思い出した。

 爆風の余韻も消えたこの国籍すら無い森は、せいぜい少し弱い風が吹いた時にサラサラと白樺の葉が揺れる音がするばかりで、何とも物悲しい。祖国は、そしてこの“修羅の森”は、冬が近いのだとイオナは気付いた。

 願いのような、祈りのような、複雑な心境でイオナはコサージュを服から外す――乾いた色彩の森には不自然なインディゴブルーの花が落ち葉の上に咲いた。


 それから程なく、竜王の祝福を受けた世界屈指の上級術者ハイユーザーイオナ・フレデリック・ユーリヤが、正式にペリシア帝国軍に復軍したというニュースが全世界を駆け巡った。


 “修羅の森”のとある場所も晩秋の時を迎えていた。

 何時であれ乾ききった場所である。独り森に佇むこの男には耳慣れた風の音が少しばかり騒がしくても、それは何処かで誰かが無茶をしているだけのこと。珍しいといえば珍しいが、日常といえば日常である。その内誰かの断末魔が聞こえてくるのかと思うといささか気持ちは憂鬱になるのだが、それにしても胸が騒ぐ。

男は、落ち葉に埋もれかかっている――やけに見覚えのある――インディゴブルーの花を手に取った。確かこれは、カットソーの襟元に付いているコサージュの一つだったような気がする。すぐに、持ち主の顔が浮かんだ。

「……イオナ?」

男はコサージュを鞄に仕舞い込むと、ペリシア帝国の方角を見遣る。そして何事か呟くと、森の奥深くへと姿を消した。


 ――紺色のバンダナを翻して。

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