第56話 good bye,bad bye

(1)

 「じゃあ、」という変哲もない前置きで凍馬が口を開いた。丁度、南西の陽が優しく差し込んでいる辺りを、彼は見つめていた。

「オレ等はサルラの基地にヴェラッシェンド侵攻に関する情報が残ってないか、ネハネにでも当たってもらうとするか」

ふと、何気なく彼と目を合わせたイェルドは、勿論それに同意する。今からすぐ飛空騎を飛ばせば、サルラへは夕暮れ頃の到着だろう。建前上は立入禁止区域なので、目立たずに進入するには申し分ない頃合だ。

 「じゃあ、」というありふれた前置きで双子達は部屋を後にした。


 空は行合。二つの飛空騎の陰が遠ざかるのをランとイオナは見送った。

「……じゃあ、な」

(2)

 そこは流石と言うべきか、ネハネは来るべき客をもてなす準備を整えてくれていた。

「“四大元素”のルーンをこの基地に運んできたのはアユミだ。ヴェラッシェンド帝国内にいた内偵の最新の情報なら、アユミが一番詳しいと思う」

そう切り出して、彼女はアユミの遺品の中から探し当てた一枚のメモを差し出した。

「アユミのような特殊工作部隊は、本来メモなど残さず任務を遂行する。だから、コレはきっと後日にこうなることを予測していた彼からのメッセージだろう」

ネハネは凍馬にメモを渡したが、未だに文字がやや苦手な凍馬はそれをそのままイェルドに託す。

「これは……!」

イェルドは息を呑んだ。

「――文字も文法も完璧です! 兄さん、少しは義弟おとうとを見習ったらどうなんです?」

弟からの厳しい指摘を、「以後見習いまぁす」とライトに往なす兄の姿は、聊か残念である。とりあえず、今ネハネの怒気がじりじりと伝わってきた為、双子達はアユミの残したメモの中身に集中する。


 内容は、ルーンを盗取する際のヴェラッシェンドでの行動経過である。そこには協力者の名前(本名でなく通り名であろう)や当日のパレスの行事日程、防犯ブザーのロックを解除するパスワードと時間帯が記されている。しかも、

「ロイヤルガードの配置図まで!?」

イェルドは頭を抱えてしまった。ロイヤルガードの管理は城務省、即ち、ラン達皇族に最も接近している部署の管轄である。

「(このまま城へ戻るのはそれ相当の危険を覚悟しなければならない。とはいえ、城へ戻らなければ全く状況は把握できないわけで……)」

イェルドが一つ、二つ唸り声を上げている中であるが、

「このままお前達がヴェラッシェンドに戻ったとして、一番危険なのは、イオナかもしれない」

ネハネが口を開いた。

「もしもペリシアが本当にヴェラッシェンドに侵攻しているとしたら、ペリシア出身者というだけで逆恨みを食らうだろう。ともすれば、反逆者の疑いをかけられかねない。ランに親しいなら尚更だ」

まさか、ヴェラッシェンドに限ってそんなことは起こり得ないとイェルドは言いかけたが、城務省内部に、異世界の動静を知る内通者が居るかもしれないことを鑑み、思い直した。

「イオナには、暫くレッドキャッスルに居てもらった方が良いんじゃないか?」

凍馬はどうも見慣れないアユミの筆跡を眺めながら言った。

「ただでさえ厄介な能力持ってるんだ。ここへ来てまたアイツを厄介な状況に追い込むと、……またヘコむんじゃねえか?」

ペリシアへの憎悪に満ちたココロの声に溢れかえったヴェラッシェンドは、決して彼女にとって良い環境ではないだろう。イオナの読心術(マインドリーディング)のスキルそのものが、皮肉にも彼女の心を蝕んでいたことを知っているだけに、イェルドは兄の提案を一部留保して同意した。

「最終的には、彼女が自分で判断するでしょう」

光の民の世界にいたここ数ヶ月で、イオナはとても強くなった。戦力的には勿論、特に精神面で――誰の所為なのか、果たして彼は気が付いているのだろうか。イェルドは読めない文字と何とか闘っている兄を見遣り、溜息を一つついた。

その兄から、突然歓声が上がった。

「読める文字発見!」

凍馬が指差したそこには、

“イェルドへ”

と小さく記されていた。

(3)

 闇を背にして沈む太陽が一層強く輝いている。たなびく雲が名残惜しそうに西の空にかかるそれは、幻想的という表現を遥かに超えて、見る者の心を強く掴んで放そうとしない。

「何を浮かない顔してるのかしら」

そんな風にランに話しかけたイオナの表情も何処か冴えない。互いに些細な表情の変化に気が付くほどの時を費やして、彼女達は友と呼び合える仲となった。

「まあ、こんな時に浮かれている方が可笑しいのだけれど」

「……黙って空でも見てろよ」

読心術(マインドリーディング)というイオナのスキルに功罪というものがあるのなら、その一番の理解者はランである。投げやりなのか思いやりなのかはともかく、会話を放棄したランの傍らというのは、イオナにとっても居心地が良かった。

「独り言くらい言わせて頂くわよ?」

丁度、涼やかな秋口の風が吹き込んできたところである。

「アタシは、ヴェラッシェンドに来てからずっと、ランちゃんに甘えていたわね」

傷が癒えるまでと言い訳をしながら、独りで立ち上がれる日をずっと待ってもらっていた――イオナは随分華奢な次期魔王の背中を見つめた。

「アタシはもう、大丈夫よ」

ヴェラッシェンドには戻らない。それはそういう意味だった。

「そっか」

甘えていたというのなら、彼女もまた同じ。人を守ることも自分を守ることも分からずに、森羅万象に反発しては粋がっていた幼稚な自分を叱咤してくれる彼女を、ランはどこかでアテにしていた――ランは窓辺からゆっくり離れ、イオナと正面に対峙した。

「好きにしやがれ」

精一杯かけたランの言葉に、精一杯の謝意を込める一方で飄々と「ありがとうね」と返したイオナは、思わず零れた涙を誤魔化す為にランを抱き寄せた。

「暑苦しい挨拶はいらねえから、」

構わず、ランは続けた。

「……早く上って来い。アタシが政治に飽きるまでに、だ」

一度は故郷も人格も権力も捨ててまでイオナが勝ち取ろうとした、理想国家の実現の為に。

「それは永くは持たなさそうね」

そして、世界や民の光と闇を純粋に見つめてきたランが信じる、正義の実現の為に。


「今に合わない古臭い秩序なんて、アタシ等でぶっ壊してやろう!」


(4)

 基地を後にした双子達は、M・A(マウント・アッバス)中腹にある低い丘から眼下に広がる黒い森林を見遣る。

 もう辺りは暗く青紫色の陰を落としていた。

 それでもまだいくらか残る弱い夕日の光で、何とかお互いの顔が認識できる程度である。いや、双子達の目はまだ、森の奥に僅かに残る光を見つめていた。

「湖だったんだな」

ふと、凍馬がそんな事を言って笑った。そう、つい数日前までは、そこに湖など無かったのだ。

「あんな場所に空間の歪みがあったなんて、……今考えてもぞっとしますね」

“空間の歪み”とは即ち、異世界への入り口である。かつて数エーカーあったとされるその入り口も、今は湖面に大きめの飛空騎1体が何とか出入りできるかといったところだろうか。ただ、“歪み”の収斂速度は日を追うごとに鈍っているようだ。有限に囲まれた世界で突如起こった分子バランスの変化に、魔法分子が安定点を見失っているのだろう。


 「知ってるか?」と唐突に切り出す兄の声が聞こえたので、イェルドは“分析”を中断して顔を上げた。

「あの穴の向こう側に、オレ達は捨てられてた」

兄の言う“あの穴の向こう”とは、即ち、敵国ペリシアと祖国ソドムの中間にある無国籍の森林地帯である。

「“修羅の森”とは、よく言ったものですね」

無国籍とはされながら、ソドムの人頭税逃れのための子の遺棄といい、ペリシアのレッドキャッスル侵出工作といい――結局は国家の思惑が露骨に見え隠れする場所には違いないようであるが。

「(それはこれからも続くのだろうか?)」

一抹の不安に駆られ、イェルドは兄の顔を見遣る。夕日を反射し、同じ色をした彼の目は、真っ直ぐに湖面の暗黒を見据えていた。弟の動揺を知ってか知らずか、凍馬はまるで話を逸らすように、

「まさか、あの日あの場所にアユミも居たとはな」

などと苦笑いを見せた。アユミがイェルド宛に残したメモで判ったのだが、何とアユミはイェルドの聖戦士長就任式でロイヤルガード達の注意が式典に集中している隙を突いて、ルーンを盗取していたようだ。

 其処へ凍馬が侵入し、ヴェラッシェンド城内では大捕物劇が始まり、それに駆り出されたイェルドは双子の兄と再会し、どさくさに紛れてランとイオナが凍馬追跡に加わった。まるで違う方向からやってきたベクトルがその日一つの点で重なり、異世界へと続く扉が開いたのだ。

 つくづく思う。何の因果だろうか。そして――

「(重なったベクトルは、これから何処へ?)」

大丈夫だ、などと兄は笑っている。言葉を探すくらいの間があって兄が切り出したのは、彼なりの率直な戦評だった。

「地獄の沙汰並みの呪文の正確性と適確な判断力。ビショップが聞いて呆れる歩兵並みの体力と腕力……」

「何故でしょうね、全く褒められた気はしませんが。」

率直過ぎたのが祟ったのか、イェルドからクレームが付いてしまったので、凍馬は言い直す。

「要するに、正直なところ、かなり驚いたんだ。北部でもあんなに煩わしい追っ手はなかなか居なかったからな」

今でなければ、イェルドだってもっと素直に喜べた言葉なのかもしれない。しかしそれは今現在、イェルドの欲しい言葉ではなかった。それを察した凍馬の表情もにわかに曇る。


 逃亡と追跡――この双子の兄弟の再会は、あまりにも唐突に、皮肉な形でやってきた。

 追い詰めた“逃亡者”は表情を強張らせたまま逃げもせず、同じ色の目でこちらを覗き込み、呟くような声で自分の名を呼んでくれた。だから、最早確かめ合う事など必要ないくらい、イェルドの胸には確信があった。

“兄さん?”

その呼びかけに驚いたのか、彼は逃げるのをためらっていた様に見えた。時は一刻を争う。ロイヤルガード達がどんどん迫ってくる。ただ、まだ彼の事を何一つ知らないその時は、躊躇無くこう言えたのだ。

“逃げて”

などと。


「まさか内偵といえど、ヴェラッシェンドの聖戦士長が『勇者』だとは知る由もないだろうさ」

覚悟を決めたのか、凍馬は突然黙り込んだ弟の肩を叩いて続けた。イェルドは何とか我に返る。

「お前ならきっと、独りでだって、何とかできる」

そのエールは、紛れも無く“その時”の到来を告げる言葉だった。

「兄さん、……」

ここは戦評の礼を言うべきなのだろうが、そんなことよりも動揺を隠し切れない。イェルドは、言葉を選ぶ余裕も無く、率直に問うしかなかった。


「――行くの?」


(5)

 それを問いかけられるのは、実は二度目である。

 一度目は、イェルドが猛毒に倒れる直前だった為、凍馬は答えを出していなかった。今回は……

 暗い金色の髪、金色の目、6尺足らずの身の丈、鼻の高さや唇の形といった所まで、眼の前の男は自分と同じ顔をしていた。凍馬はそれを一つずつ確かめると、

「ああ」

ちゃんと答えを出してやった。

「オレは今までの生活に戻るだけだ。食いたきゃ食えるし、眠たきゃ眠れる。心配するな。お前が思ってるほど惨めな人生じゃない」

微笑んだまま、全く表情を変えずにそう言ってのけた兄の揺ぎ無い決意は、今まで贖罪と救済の思いを抱いてずっと兄を探し続けてきたイェルドの心の芯を粉々に打ち砕いた。

「だから、オレを探すなんてこと、もう、二度としなくて良いからな?」

ましてや彼が、“みんなにヨロシク”などと、飄々と笑っているものだから。

暗黒獣を召喚する声がやたら遠くに聞こえる。イェルドが兄の為にできる事といえば、兄の意思を尊重することくらいしかない。一度目のあの問いを投げた時から、この別れは必然のものと覚悟はしていたことである。でも……

「逢えて、良かった……」

何とか伝えたいことを言葉にしたのに、まだ釈然としない。その胸苦しさに、イェルドは思わず眉をひそめた――違う! 

「じゃあ、な」と紺色のバンダナが翻る。“ツェイユ”でなく、“凍馬”として生きると決めたメタファーだ。兄の決断を否定する権利など自分には無い――でも! 

「オレも、」

アミュディラスヴェーゼアの翼が広がる。斜め上から微笑をくれた兄の声は心なしか震えているような気がした。

「逢えて良かった! 達者でな!」

暗黒獣が大地を蹴った。

 

 少し冷たい風が夜の帳を連れて来た。

 月がそこに無いのは朔の夜だからでは無く、とうに沈んでしまっていたからである。月ならばまた空に架かる。しかし、彼にはもう二度と……

「それは、嫌だ……!」

イェルドの口を封じさせていた大きな痞えがこぼれ落ちたのは、兄の後姿が夜闇に紛れて見えなくなってしまった後のことだった。

(6)

 レッドキャッスル帝国の空を、二基の飛空騎が飛び立つ。

 

 時の元帥・ビルフォード・ダグネスはそれらに最敬礼をして見送ると、副官・ハルナを伴って任務に戻った。彼を待つ問題はまだ山積しているが、今はそれらと丁度同じくらいの希望を抱いている。暫く“勇者”を迎えたあの日よりもずっと高く澄み渡った空を見上げていた帝国元帥は、やがて真っ直ぐ祖国の象徴たる城の礎を見据え、

「全ては此処からだ」

と呟いた。


 場所を違えてもう一人、空を見上げる者が居た。彼女は空に向かって大きく手を振ると、少しでも永く帰路に就く戦友を見送らんと、草の疎らに生えた山肌を駆け上っていった。彼女達の様子をやや遠巻きに見守っていたネハネは、やおら物言わぬ男を乗せたままの車椅子を進め、丁度、彼女を呼び止めたところである。

「良かったのか?」

黒いレースのカーディガンが言葉少なに秋風に踊る。ネハネの問いかけに答えようとした彼女であったが、それより早く、遥か虚空から元気の良い声が飛んできた。


“いつかまた会おうなー!”


「んもう、ランちゃんったら! 此処が立入禁止区域ってこと忘れてるんだからァ!」

彼女、もといイオナは頭を抱えてしまう。

「つくづく気楽な連中だ」

ネハネは呆れて溜息をついた。いや、少し羨ましさを感じていたのかも知れない。あれが自国の主君だったらば、と。

「それはそれで大変でしてよ?」

とイオナが笑い、

「見れば判る」

とネハネが毒付く。


 茜色をした蜻蛉が空一杯に舞う。遥かな高みを暫し見つめていた2人だったが、「良いのよ、これで」と、少し遅れて、イオナが先ほどのネハネの問いに答えた。

「ヴェラッシェンドに戻ったところで、そこではアタシは第一皇女私設の教育係。彼等の為に戦う事など許されないわ」

それに、自分がペリシア出身であることは一部の城務省幹部には知られてしまっている。今回の光の民の世界での一件が、もしもヴェラッシェンド城務省上層部にいるペリシアの内偵に知られてしまったら、自分はランを助けるどころか足手まといになりかねない。

「んもう、アタシってばやさしィんだから!」

と、自画自賛するイオナ。

「自分で言うことか!」

と、突っ込みが冴えるネハネ。

「あ――」

と、車椅子の男。久しぶりの日の光が眩しいのか、瞼がしきりに動くが、表情は穏やかである。

「笑ってくれたのかしら」

イオナは、出会った当初とは打って変わって穏やかなネハネの表情を見てニンマリとした。

「……私に訊くな」

何か言いたげなイオナの態度が気に食わないのか、ネハネはそのまま踵を返す。「つれないのね」ともう一つ微笑を浮かべ、イオナは視線を遠く空へ向けた。


――つれないのね。


何時しか彼女は、山裾に広がる湖の中央にまだぼんやり見える暗黒を視野に入れていた。

「サヨウナラ」

引き止めることが無駄だと言うのならば、せめてそれくらい言わせて欲しかった――彼女のココロはまだ何処かで「彼」の姿を探していた。

(7)

 ランとイェルドは、レッドキャッスル国境を越えて、サンタバーレ王国へ入った。行く先は航空制限が解消されたばかりのベルシオラスなのだが、レッドキャッスルからではまだ出入国審査が厳しい為、隣国の空港を利用した方が手っ取り早いと言う矛盾が生じていた。

 そのベルシオラスで、人魚・カナッサが二人をヴェラッシェンドへ送り届けるべく待っている。それが、イェルドのここ2日続いた夢である。

「信じるにしろ信じないにしろ、彼女に会って“金のブレスレット”を返さなければ」

とイェルドは言っているのだが、

「(別に他に誰も装備できないんだから、いっそ貰っておけば良いのに)」

とランは思っている。まあ、それはカナッサが代わりに言ってくれるだろう。自国が宣戦されたかもしれないと焦燥感ばかりを募らせても仕方が無いので、ランはなるべく、雲の上の景色を楽しもうとしていた。


 飛行船に乗るのは2度目である。

 1度目は敗走の最中で、だいぶ気持ちが落ち込んでいたから気が付かなかったが、何処をどう見渡しても空の青があるその空間は、何だかとても前向きな気持ちにさせてくれていたんだな、とランは素直に思った。だから、

「顔を上げてみなよ?」

ランは小さく呟いた。この程度の声では、考え事をしている彼には届かない。そんなことも知ってしまっているから余計に切ないのだが、彼は、ネハネから預かった資料を、読むでもなく眺めるでもなく、していた。彼のその脳裏に何があるのか、決して短くは無い付き合いの所為で、ランは解ってしまっている。だからこそ、彼女は彼に、余計に同調してしまうのだろう。

「……綺麗ですね」

ふと、イェルドの声がしたのでランは気後れしながらも頷いた。一体何時の間にか、彼の視線は手元の四角い紙切れから四角い窓枠の向こうの空に移っていた。

 

 変わり始めたこの世界の空は、こんなに近いというのに果てしなくて、思わず2人は溜息をついた。


 飛行船はレニングランドに差し掛かったところだ。目的地ベルシオラスまであと僅か、と言うアナウンスが聞こえてくる。それが終わるのを待って、ランは徐に口を開いた。

「もしも本当に交戦中だというのなら、ヴェラッシェンドに戻り次第、すぐに前線に赴く」

ランの静かな決意にイェルドは思わず目を丸くした。危険だが、それを言ったところで、彼女の意思は変わらないだろう。決して短くは無い付き合いの所為か、そんな事など知っていたので、彼の言うべきことも決まっていた。しかし、それを切り出す前に、彼女が入念に先回りをしていた。

「一緒に来てくれ」

このところの世界の変化は、少なからず彼女を不安にさせていたようだ。


 『双子の勇者』や光の民の世界の存在そのもの。

 スペルマスターという脅威。

 『禁じられた区域(フォビドゥンエリア)』の解放と四大元素の一部封印。

 レッドキャッスル帝国の宣戦布告破棄。

 真偽はともかく、北ヴェラッシェンドの陥落の情報。

 そして、凍馬とイオナという格別の戦友との別れ。

 ましてや末世である今となっては確かなものなど無いのかもしれない。しかし、それでも変わらないものもあった筈で――

「勿論、一緒に参ります」

だからこそ、イェルドは、彼女と彼女の首にかけたままのロザリオへの誓いを実践せねばならないと思った。

「今後、貴女の身の周りはかつてない危険に晒されるでしょう」

イェルドはネハネから渡されたメモを小さく折りたたんで懐にしまい込んだ。

「私は、どこぞの誰かと違って、いきなり消えたりはしません」

その“どこぞの誰か”に心当たりのあるランは思わず吹き出してしまったのだが、構わず、イェルドは続けた。

「私は、……何が起ころうとも、相も変わらず貴女の傍に控えて居ります」

それは、エリオと戦って何とか掴み取れた彼の決意でもある。


 この姫は、『神』とやらに代わって世界に“終幕ヲ呼ブ者”とされている。しかし、例えそれが変えようのない運命だとしても、その時には、必ず、彼女の傍に控えていよう、と。

 ――それならば、決して終幕は畏れるべきものではないと彼は思うのだ。


「イェルド……」

口元を緩めたランは、しかし、彼の無茶を案じてすぐに表情が曇る。そんな事くらい察しが付くので、イェルドは間髪入れずに念を押した。

「決して、お忘れになりませんように」

(8)

 以前、アリスがこの異世界に連れてきてくれたように、今回は、カナッサが詠唱一つで元居た世界へと返してくれた。

 来た時と人数か違う経緯も、ヴェラッシェンドの現在の情勢も、人魚は全く触れはしない。「成功を祈ります」とだけ言って優しく微笑んで送り出してくれた彼女にしてみれば、今後のペリシアとの戦争も、これまで歴史上途絶えることの無かった陸の民の諍いの一つに過ぎず、『終幕』の前の些細な出来事でしかないのだろう。

 だからこそ、イェルドは“金のブレスレット”の返還を申し出たのだが、人魚は「全てはこれから」である、と申し出を断り、顛末はランの予想通りとなった。


 ヴェラッシェンド城に送り届けられた二人は、一度城下町・リトリアンナで正確に戦況を調査した。どうも、エリオの“うわ言”は正しいようで、ペリシア帝国が2ヶ月ほど前に北ヴェラッシェンドに侵攻し、そのままそこを制圧し、現在に至るようだ。しかも、まだ交戦中であり、前線にランの父親デュトゥール・サン・ヴェラッシェンド皇帝も出征しているという。勿論、それを聞いたランが黙っている訳が無かった。


 宣言通り、その足ですぐにイェルドを伴って北ヴェラッシェンドへと飛んだランは、ヴェラッシェンドとペリシアの帝国軍当局から城務省はじめ関係者の度肝を抜きながら、見事に第一線へと潜り込み、その圧倒的なヘゲモニーで自軍の士気を高め、次々と国土を奪還していったのだった。


 このことにより、次期魔王ラン・クオリス・ヴェラッシェンドの名声は瞬く間に世界中に知れ渡ることとなった。


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