第36話 人魚との戦い(2)
(1)
波の音が強くなった。いつの間にか、5人の足元にも海水が届く程、潮が満ちていた。
『召喚・水妖人(オンディーヌ)!』
カナッサの召喚呪文の詠唱は、聞いた事の無い言語で綴られていたのだが、後方から水系魔法分子と共にやってくる精霊達も敵であることくらいはよく分かった。その数、5~7体。5人にとっては未知の精霊であるだけに、なかなか厄介な数だ。
「チッ!」
ビルフォードは、攻撃目標をカナッサからオンディーヌに改めた。試しに一体を剣で切り付けてみたが、手応えの割には、あまりダメージを与えられていないようだ。
「これならどうだ!」
同じく、攻撃目標を改めたランは、負の炎魔法分子を剣の切っ先に集める。昨日宿で練習していた技術である。ランは最前線に滑り込むと、そのスピードに乗ったまま精霊達に切り掛かる。
「ぎゃあああっ!」
このランの攻撃でオンディーヌの一体が消滅した。どうやら、彼等は炎系魔法分子に耐性が弱いようだ。
「(ならば……)」
イェルドは、カソックの袖から鉄製のケースを取り出そうとした。が、“例のもの”が見つからない。
「昨日の小型爆弾どうしましたっけ?」
「さあ、仕込み忘れたんじゃねえの?」
小首を傾げている弟の呟きに、凍馬はシラを切り通す。
「仕方ありませんね。地道に武器で応戦しますか」
大人しく、イェルドはビルフォードに倣う。時に、オンディーヌの一体がブラスト(強化魔法球)を放ったところを、イオナが間一髪結界で防御したところだ。
さて――
「腑に落ちない。皆、そう思ってる」
人魚の挙動を警戒していた凍馬は、一人オンディーヌ達に背を向けていた。
「オレ等が此処で戦ってても、仕方がねえんだよ」
戦いを止めるべきだと説得する凍馬の言葉を、聴いているのか否か、カナッサは凍馬との間合いを一定に保ったまま、まだ沈黙を守る。
「“金のブレスレット”は、イェルドが持つべきものだ」
間違いなく、イェルドは自分の双子の弟である。自分が“双子の勇者(ケツァルコアトル)”なら、イェルドも“ケツァルコアトル”である。“金のブレスレット”が主を迎えない筈が無い。もしかすると、それはこの人魚が頑なに“金のブレスレット”を手放すのを拒んでいるからではないか、と凍馬は思ったのだ。
「いいえ、」
カナッサは数を減らしてゆくオンディーヌ達を見つめて、言った。
「今はまだ、『勇者』が目覚めるべき時ではないということ」
彼女は口元を緩めただけだった。
「チッ……まどろっこしい奴だ」
一つ溜息をついた凍馬は、同じように溜息をついていた弟の方を、一度だけちらりと見た。
――その隙を衝くような、突然のことであった。
『石化呪文(ゴルゴンヴェーゼ)』
カナッサはその僅かな虚に乗じ、いきなり詠唱を唱えたのだ。
「!?」
彼女の声と同時に、残っていた3体のオンディーヌ達が突如液状化し、5人に降りかかってきた。
「うわっ! 何これ? 海水?」
最前線で戦っていたランは勿論、不意を打たれた全員が海水を被っていた。
「“金のブレスレット”を渡すわけには行かないのです」
人魚はそう言い放った。
「くっ……!」
人魚を睨み付けた凍馬の左腕の“銀のブレスレット”が、俄かに光を強めた。凍馬自身もその光の変化に気付いた瞬間、イオナの悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっと! アタシ達石化が始まっちゃってるじゃない!?」
自分の張った強化結界(バリアー)をすり抜けるように石化呪文を発動させた人魚の魔法キャパシティーに、今更ながらイオナは感服した。
「あ! ホントだ! どーするんだよコレ!?」
「ヤダぁ! 全っ然動けないワよォ!」
慌てふためくランとイオナをよそに、
「まあ、マヌケな姿を後世に残さないように、じっとしてるしかないんだろうよ」
ビルフォードはこんな時でも余裕があるから凄い。
「落ち着き払っている場合でもないような気がしないでも」
身体の半分以上がすっかり石になってしまった彼に、こっそり突っ込みを入れるイェルド。
石化のスピードは速い。海水を被った所から順番に、腕へ、足へ、と移行し、観察する間にも全身へ行き渡る。戦闘の最前線にいたランとビルフォードは、もうすっかり石の塊へと変わってしまっている。イェルドとイオナも、もう間もなく石化が全身に進行するだろう。しかし、此処に只一人、石化しないで済んでいる者が居た。
「成る程、そうか」
凍馬は“銀のブレスレット”の持つ“侵害的全魔法無効化”の能力のお陰で、全く石化を来たさなかったのだ。
「舐められたモンだな」
それなのに、凍馬はその“銀のブレスレット”を外してしまった。
「何を……?!」
意表を衝かれたカナッサは、彼の行動の真意が読めず、今はただその挙動を見守っていた。案の定、すぐに、凍馬にも石化呪文の効果が及ぶ。その前に――
「イェルド!」
凍馬は“銀のブレスレット”を、石化が進んで動くのもままならない弟の右手に託した。
「兄さん! 何を……」
“銀のブレスレット”の効果により、イェルドの石化の進行は収まり、回復していく。
「……。」
回復を果たしたイェルドと対峙することになってしまったカナッサは、石化した動かぬ足を庇うように座り込んだ凍馬を一瞥した。それには構わず、凍馬は弟に声をかけた。
「お前自身の事だ。お前が納得するケリを付ければ良い」
この戦いは所詮、ヴェラッシェンドとペリシアが惹起させた魔界の冷戦と同一直線上の戦い。幾らチカラが必要とはいえ、異世界に棲む人魚を巻き込んでまで事態を収束させるつもりは無い。凍馬は、そんな弟の本音を直接聞いていた。
「オレ達ゃ暫く耳塞いでてやるよ」
それだけ言った凍馬は、石化に従った。
「兄さん……」
イェルドは光り続ける“銀のブレスレット”を握り締めた。
(2)
イェルドとカナッサは、暫し無言のまま、お互いを見据えていた。ザワザワという波の音を数える度に、緊張感は一つずつ増していく。
「貴方達のしようとしていることに協力はできません」
人魚が初めに沈黙を破った。
「“明護神使”が望んでいません」
つまり、闇の民が従来の空間秩序を壊し、光の民と闇の民とがまた一つ世界を共有することを、“明護神使”は是としているということであるようだ。イェルドは首を横に振った。
「闇の民の世界と光の民の世界が再び一つになろうとしている原因は、闇の民の世界で勃発した冷戦です。闇の民として、止められるものなら、ここで止めたい」
エリオの理想である光と闇の同時支配により、世界大戦が始まろうとしている。今以上に、犠牲者も出るだろう。イェルドは、もう一度尋ねる。
「どうしても、“金のブレスレット”をお引渡し願えませんか? 一月……いえ、半月の内にお返ししに戻って参ります」
しかし、カナッサの意思は頑なだった。
「いいえ」
加えて、今回はより合理的な説明が付いてきた。
「ご覧の通り、“金のブレスレット”は、有資格者である貴方を前にしても沈黙しています」
先刻はあえて伏せていたのですが、と前置きを入れ、彼女は続けた。
「このままでは、例え“金のブレスレット”を貴方に引き渡したとしても、貴方はチカラを引き出すどころか、これを装備することさえできないでしょう」
「そう……なんですね」
イェルドは言葉を失った。
「“主を選ぶ”というのは、そういう趣旨です」
カナッサは、応答しない“金のブレスレット”を見つめた。
「“明護神使”と“暗黒護神使”の考え方そのものが違うのです。その為に貴方を傷付けてしまったことは、彼に代わってお詫びしますが……」
そう言ったカナッサの視線は、イェルドの持つ“銀のブレスレット”へと移った。
「そもそも貴方達は、“暗黒護神使”の真の目的すら知らないのではありませんか?」
そういえば、とイェルドも思った。彼等は、今般の“勇者”の仕事内容について、正に“アリス”から聞いた事しか知らない。
「“アリス”は、全てを語っていないということでしょうか?」
イェルドも、“銀のブレスレット”に視線を落とした。
心なしか、“銀のブレスレット”の光が強くなった気がした。いや、その光は先刻よりも更にその強さを増している。イェルドとカナッサは、暫くその変化を見守った。すると、突然、“銀のブレスレット”は、目も眩むほどの強烈な光を放ち、イェルドの手からフワリと浮いたのだ。
「――。」
カナッサの声が、此処に居る筈の無い者の名を呼んだ。
「え?」
光にやられて、暗く、まだ定まらない視界の中ではあったが、イェルドは確かにそこに人の影を捉えていた。飴色のウェーヴの掛かった長い髪の……
「アリス?」
(3)
何と、そこに現れたのは、今回の事態の収拾を依頼してきた“アリス”であったのだ。
「アリス、」
しかし、カナッサは怪訝な顔をして彼女を迎えた。
「此処は“光”のフィールドです。“闇”のフィールドの者である貴女が此処へ来てしまっては、魔法分子達が混乱を来たしてしまいますよ?」
「それほど、事態は逼迫しているということよ」
構わず、アリスは続けた。
「彼に、“光の盟約”を――どうか、貴女の方からも明護神使に伝えてあげて」
“光の盟約”について消極的なイェルドを見兼ねてやって来たのだろうか、彼に代わって、アリスがカナッサに頼み込んだ。
「貴女だって、世界が混沌へ戻る事など、望んでいない筈よ!」
図星なのだろうか。カナッサは困惑しているようだ。イェルドは罪悪感すら覚えた。
「私は、“明護神使”の意思を尊重するまで」
何とかこのように切り返し、カナッサはアリスと対峙した。
2人の会話を何となく聞いていたイェルドは、ふと、エリオとの戦いを思い返していた。あの時、自分が渾身の力を込めてエリオに撃った魔法球は、何か不思議なチカラによって掻き消された――
「(間違いなく、あれは明護神使様の仕業)」
そうは思いたく無かったし、そうは思わないように努めていたが、今、それを確信した。明護神使は何らかの理由で、“白き勇者”ではなく、エリオを守護しているのだ。
「(ひょっとして、)」
イェルドは思った。エリオは、抹殺してはならない存在(もの)だとでもいうのだろうか。
――だとしたら、何故?
「ならば、彼に説明してごらんなさい」
カナッサの鋭い声がイェルドの思考回路に突き刺さってきたので、彼は我に返らざるを得なくなった。
丁度今、“金のブレスレット”を引き渡すべきだと再度迫ってきたアリスに向けて、カナッサが切り返した言葉である。
「“暗黒護神使”のやろうとしている事を、彼らに説明してごらんなさい」
カナッサのその問いは、同時にイェルドの持つ疑問と同じものでもあった。しかし、来るべきアリスからの回答よりも先に、風や波が、大きな音を立てて岩の洞窟にぶつかる音を聞いた。身を竦めるように海を見た3人の視界に、4つの石像が映る。
アリスに戸惑いがあったのだろうか、随分慎重なくらい長い間がそこに残された。
「“禁じられた区域(フォビドゥンエリア)”に赴いてもらいたいの」
「“禁じられた区域(フォビドゥンエリア)”?」
イェルドは思わず聞き返してしまった。
――そこは、誰が何の為に張ったのか全く分からない、強力な結界が施されていて、その名の通り、民の立ち寄りを一切許さない孤島である。一説によれば、「“神”の眠りを妨げないようにする為」とも言われている。
その島に立ち寄った者など、この歴史上には存在しないとされている。
伝説の“双子の勇者”を除いては。
「随分遠回しね」
しかし、カナッサは小さく溜息をついて更に追及した。
「一体、何の為に、わざわざ“禁じられた区域(フォビドゥンエリア)”を開放すべきというの?」
人魚の問いは、丁度イェルドの疑問と一致した。
アリスの真意が掴めない。
それは、彼女がこの戦いの真意を隠そうとしているのかも知れない。
「どうか、教えてください」
イェルドもアリスに問う――ヴェラッシェンド帝国の一憲兵である自分の立場としては、殲滅すべき敵「エリオ」が、ペリシア帝国の者であるという部分では、アリスの利害に一致する。
しかし、やはり“勇者”を名乗って“金のブレスレット”を求める以上、この戦いの本質を知っておく必要があるような気がしてならないのだ。
「暗黒護神使様は、何をしようとしているのですか?」
アリスは一度、海の方を見遣る。彼女は石の塊となってしまっているラン達を見ていた。
「“四大元素”を、」
ラン達からカナッサへと視線を移したアリスが、やっと、その重たい口を開いた。
「“四大元素”を停止に導いて欲しいの」
いかにも後ろめたいニュアンスがあったのは気になったが、アリスの話はまあ分かる。
「四大元素の供給源さえ絶ってしまえば、エリオは”スペルマスター”としての能力を失い、勝機が見えてくるということですね?」
イェルドは確認する。エリオと戦う上での一番の障害は、彼が“スペルマスター”であるということだ。“四大元素”を絶ってしまえば、“スペルマスター”に供給されるチカラを最小限に落とすことが出来るだろう。しかし、
「それがどういうことか、分かった上で言っているの?」
カナッサが語気を強めた。
刹那、イェルドは、カナッサの張った結界の中に引きずり込まれ、瞬く間にその四肢をオンディーヌ達に取り押さえられてしまった。
「カナッサ!? 聞き分けて頂戴! これは仕方のないこと――我々がどんなに嘆いても、避けきれない『シナリオ』なのよ?」
イェルドを捕えられ、アリスも声を荒げた。
「即刻、此処から立ち退きなさい。さもなくば、」
カナッサの合図で、オンディーヌがイェルドの首に指をかけた。
「――『白キ勇者』を抹殺します」
オンディーヌ達やカナッサから確かな殺気は感じるものの、突如人質となってしまったイェルドは、不思議と冷静でいられた。
めまぐるしい状況変化に整理がおぼつかないが、イェルドは、先程からずっと気になっていることがある。
アリスは、まるで主体性の無いものの言い方をしている。
アリス(や彼女の主である暗黒護神使)の他にも、『双子の勇者』を使って事態を動かそうとしている、“何か大きなもの”の存在を感じずにはいられない。その胡散臭さを、傍らのカナッサも感じて、彼女は実力行使に踏み切ったのだろう。
「大人しく、殺されるつもりもありませんが」
イェルドはせめて言ってやった――「白キ勇者」としての適格はさておき、少なくとも今は、”銀のブレスレッド”はしっかり働いてくれている。この場で仕事ができなければ、折角耳を塞いでくれた凍馬達に申し訳が無かった。
「お願い、聞き分けて頂戴」
もう一度、アリスは人魚に頭を下げた。
「海の民である貴女なら、もう気が付いている筈よ? この世界はもう――」
ふっと、甲高いアリスの声が途切れた。この場の空気が変わったのだ。
「(殺気!?)」
突然、イェルドも怯むほどの強烈な負のチカラを感じた。それはアリスのものでもなさそうだったし、勿論、オンディーヌやカナッサのものでもなかった。
いつの間に、そこにいたのだろう。石化しているラン達より手前に、もう一人、男がいる。
「貴方は……」
カナッサの声が大きく動揺している。結界越しのイェルドの目にも、彼の姿がぼんやりと映る。
――6尺はありそうな長身。栗色の髪。藍色の服……イェルドはハッとした。
「セイ・サンタバーレ?」
何とそこには、レニングランドの公立図書館で出会ったセイという名の青年が、禍々しい形をした大剣を手に取り、佇んでいたのだ。それも、歩く度に地響きがしてきそうな程の強烈な負のチカラを伴って。
「(まさか、こんな所で遇うなんて)」
しかも、この状況下で現れたのだ。最早彼が単なる光の民である筈がない事くらい分かる。息を呑んで緊張感に堪えるイェルドの為に、すぐに、カナッサが答えを出してくれた。
「暗黒護神使」
何ということだろうか。それが、『セイ・サンタバーレ』の正体だったのだ。
「身の程を知らぬ奴だ」
セイ、もとい、暗黒護神使の声は怒気に満ちている。その怒りの矛先はどうやら人魚に向けられたものであるようだが、イェルドは畏怖を感じていた。嫌でも自分の血の気が引いているのが分かるのだ。
「永久の命と高をくくっているようだが、」
暗黒護神使が不気味な大剣をかざす。それだけで、空気が震え、岩が軋んだ。
「この宝剣『ハガル』を前に永遠など無い」
どうやら、暗黒護神使の持っている剣(『ハガル』というらしい)が、膨大な負のチカラの根源であるようだ――マズイ、とイェルドは思った。
「冷え臭い海の民など、泡沫となって消えるが良い!」
暗黒護神使の振り上げた宝剣『ハガル』が、カナッサの張った強力な結界をいとも簡単に破ってしまった。
「(この剣ならば、伝説上不老不死とされている人魚さえも滅ぼしかねない!)」
イェルドは咄嗟に、オンディーヌ達に掴まれていた両腕を振りほどき、いち早くカナッサの前方に回り込んだ。
「イェルド! 避けて! 彼は本気よ!」
アリスの甲高い声が洞窟を劈(つんざ)く。いや、それよりも確かな声だっただろうか、咄嗟にイェルドは叫んでいた。
「“金のブレスレット”など必要ない!」
――人魚を傷付けてまで得なければならないものならば!
せめて怯まぬように、一度深く息をついたイェルドは、暗黒護神使と対峙した。
「小癪な」
暗黒護神使の剣が容赦なく振り下ろされる。そのスピードは、イェルドの予想以上に速い!
「(避けきれない!)」
イェルドは思わず目を閉じた。そうすることしか出来なかったのだ。
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