第35話 人魚との戦い(1)

(1)

 ジャン=ヴァリコにある聖堂が、正午の鐘を打つ。

 昨日、嫌というほど見た海岸線だが、この町の海はこれまで見たどの海よりも美しく見えた。

 海に近づくにつれ、「人喰い人魚」に逢いに行くなどという無謀な旅人達を引き止めようと気を遣う町の看板と出くわす。すれ違う人々も、むやみに海岸に近づかないよう、異邦人に声をかけてきた。

 「人魚などお伽話」という割には物々しい、異様な雰囲気の町である。

 石灰岩の岩石海岸地帯には、それらしき波食窪ノッチも多くあったが、微弱な闇魔法分子を感じる洞窟があった。それが、“人魚の棲家”だった――横から見た概観は大きな岩のせり出した崖なのだが、その実は、海へと向かって口を開けている洞窟であるようだ。その洞窟の入り口は、白灰色の尖った細長い岩々を縫うように海水に浸食されていて、此処からでは中がどうなっているのかさっぱり分からない。

「綺麗な所だね」

ランは思わず溜息をついた。こちらの世界の海は、工業排水や産業廃棄物処理等による人為的な汚染が、元居た世界のそれよりも格段に進んでいる。それでも、この人魚の棲む海は、人の手も全く入らなかったということだけあって、岩場の海岸の絶景を維持していた。

「見惚れている場合じゃなさそうだな」

凍馬が、左腕を確認した。“銀のブレスレット”が弱く光り始めたのだ。

「近くに“金のブレスレット”があるんだろう」

その答えを見つける為にも、行かねばならない。5人は、岩伝いに人魚の棲家の入り口へと足を踏み入れた。

 ――波の音が岩の洞窟に轟く。物静かで、深くて、神秘的な音だった。

「風が……」

風が強い――そう言おうとしたランの目が、大きな魚影を捉えた。いや、それは魚影という言葉では言い尽くせない代物だった。大きな尾の鰭(ひれ)、白い皮膚をした背と腕、そしてブロンドの髪……

「ニンギョ!」

ランが下方(つまり海面)を指差した。ものすごい速さで洞窟の奥へと泳いでいく。

「石化に気を付けながら追え!」

凍馬が指示を出した。人魚の行く先に、恐らく彼女が侵入者から守らねばならないものがあるのだろう。それが“金のブレスレット”であれば。

 時に、凍馬の腕にある“銀のブレスレット”の光が増した。

(2)

 先頭を行くランが、洞窟の入り口に辿り着いた。照度の高いこちら側からでは、洞窟の中の様子は暗くてよく分からなかったのだが、あちら側の方からは、岩場を頼りにこちらへと渡ってくる5人の様子がよく見えるのだろう。

「ゆっくりいらっしゃい、そこは滑り易いから」

来客を案ずる優しい声が聞こえてきた。

「(話の分からないヒトじゃないみたいだな)」

まだ人魚の何も知らないランは、拍子抜けさえしていた。海苔の生い茂る滑り易い足元を確かめながら、暗くぼやけた人魚の輪郭を観察する――物語で聞いて知っている部分しか知識は無いが、伝説の通り、半人半魚の姿をしている。

 段々と近付くにつれ明らかになってきた彼女の顔は、果敢無げとも物憂げとも言うべき眼をした理知的な美貌であり、凍馬などは小さく感嘆の声をあげたほどである。沖から戻ったばかりの彼女は、今、ブロンドの髪を掻き揚げて水滴を拭った。


 洞窟は思ったよりも奥行きがある。入り口から20歩先で比較的平らかな岩の足場になっていて、奥の部屋のような空洞と繋がっている。そういえば、昨日の古物商達は「ほこら」と言っていたか。そこを取り囲み、中心へと向かって規則正しく倒されている柱のような黒色の岩々が神秘的だった。

「何時ぶりかしら、此処に闇の民が訪ねてくるなんて」

などと他愛も無い前置きをした人魚の穏やかな声と、波と風の音が岩に染み入る。

「“金のブレスレット”について、お尋ねしたいことがあるんです」

イェルドは早速本題に入る。今は穏やかに見える彼女だが、巷では“人喰い人魚”と称されているのだ。用件は手短に済ませたいというのが本音である。しかし、

「――この光の民の世界に闇の民が存在すること自体、世界の異常事態」

人魚は更に核心を突いてきた。

「納得できる説明が出来ますか?」

つまり人魚は、何故“金のブレスレット”が必要なのかを問うているようだ。

「ならば、オレから……」

レッドキャッスルと光の民の世界に起きた異変について、ビルフォードがこれまでの経緯を具に説明した。

 5年前に、サルラ山脈に突然出来た空間の歪が闇の民の世界への入り口となっている事。

 更に、そこから進入してきた闇の民により、この光の民の世界が世界大戦の危機に晒されている事。

 その闇の民が自分達と敵対関係にあるペリシア帝国の者であるということは、ランとイオナが簡潔に説明した。

「そしてオレ達は、……」

凍馬が、淡く光を保ち続けている“銀のブレスレット”を提示した。

「それは!」

その光を見た人魚が息を呑んだ。彼女の動揺を確認して、凍馬は続けた。

「どうやら、“勇者”ってことらしい」

それは決して自称などではなく、夢の中のような場所にいる、“アリス”という名の得体の知れない者にそう言われたのだと、凍馬は説明した。

「ええ、間違いありません」

人魚は一つ、二つ頷いた。

「それは“銀のブレスレット”であり、『双子の勇者(ケツァルコアトル)』しかその所有を許されないツールの一つです」

人魚は凍馬が“勇者”であることは認めた。

「アリスは、闇の守護を担う“暗黒護神使”の僕(しもべ)の名です。貴方達が此処に居るのが彼女の手筈であるのならば、貴方達は“暗黒護神使”の意思で此処に居るということですね」

“暗黒護神使”という聞き馴染みの無い単語が出てきたが、“光”の秩序を守る“明護神使”という言葉ならアリスから聞いて知っていた闇の民4人は、何となく彼がどういった立場の者なのかを察することは出来た(ちなみに、ビルフォードは分からない話をされていても、一応ちゃんと聞いている)。

「そこまで知っていらっしゃるのなら、お話しし易い」

そう言うと、人魚は呪文の詠唱を始めた。古代語の分かるイェルドも聞いた事の無い言語だったので、どんな呪文なのかは見当も付かなかったが、集結した魔法分子が負のチカラを帯びた攻撃呪文でないことは確かだったので、5人は大人しく人魚の挙動を見守った。

「?」

違和を感じた凍馬は左腕を確認した。“銀のブレスレット”が益々強く光を発していたのだ。そして、その意味はすぐに分かった。

「あ!」

ランが人魚の右手に召喚された金色に光る物体を指差した――“金のブレスレット”!

「紹介が遅れましたね」

そこで人魚は初めて自己紹介をしたのだった。

「私の名は、カナッサマーメイド。海の民ではありますが、光の秩序を守る“明護神使”に仕え、光の民の世界の動静を見守っております」

(2)

 カナッサマーメイドは、しかし、表情を曇らせた。

「――ですが、“金のブレスレット”をお引き渡しすることはできません」

その手の人魚の返事は想定していた事だったので、イェルド自身は小さく息をついただけだったが、彼の代わりにランと凍馬が動揺を見せた。

「“金のブレスレット”は主をよく知っています」

カナッサの言葉に凍馬はハッとした。確かに、彼がヴェラッシェンドの宝物庫で“銀のブレスレット”を目にした時のような兆候が、今の“金のブレスレット”には表れていなかった。静かに輝く金色の光は、今はそれと番(つがい)の“銀のブレスレット”に反応しているに過ぎず、光魔法分子正式継承者に当たるイェルドに反応した光ではないようだ――何となくだが、凍馬はその光をそのように捉えていた。

「貴方達もご存知の通り、『ケツァルコアトル』が世に現れる時、それは、世界の秩序や根幹に関わる重大な出来事が起こる時です」

 例えば、一つの大陸を二つに分けて光と闇の境界線を作る際。

 例えば、光と闇を永久的に隔離する為に空間を分断する際。

「幾ら侵入者がスペルマスターとはいえ、単なる一闇の民の撃退の為にこの“ブレスレット”が必要であるとは、到底思えないのです」

カナッサの分析は客観的で、イェルドは思わず納得しそうになった。しかし、

「それで光の民が、アタシ等闇の民の戦争に巻き込まれようとしてるってのに?」

そうランが反論して、イェルドも何とか思い直した。今ある秩序の混乱を是正する手段(ツール)として、“勇者”のチカラが使われるわけにはいかないのだろうか、と。

「無論です」

しかし、カナッサはあっさり一蹴した。

「そもそも光と闇は、一つ処にあって然るべきものです。スペルマスターが世界大戦を惹起させようとしているなら、あたかも“四大元素”が彼にチカラを貸し与えてその契機を窺っているかのようです。それを引き止める理由はありません」

不気味な静寂が洞窟を支配した。

「例え、」

ランが確認するように問う。

「それが、再び光と闇の戦争を惹き起こさせることになっても?」

ランの追及に人魚は沈黙した。それが肯定の意思表示なのかどうかは分からない。


 波の音が少し大きくなっただろうか。或いは、それは風の音なのかも知れない。

「あら、無いわね」

ふと、イオナが声をあげた。

「此処には、財宝を狙ってやってきた人間達が、石化されているって聞いたのだけれど」

何故このタイミングで彼女がそのようなことを切り出したのか――その意味を理解したビルフォードは、

「そうだな。石になった人間とやらがそこら辺に転がっていたとしても不思議は無い」

とイオナに便乗した。ただ、同じく意味を悟ったイェルドは、目を伏せてしまったのだが。

「どうやら、」

カナッサは口元を緩めた。

「私と戦う大義名分を見つけたいようですね」

人を石化させた“悪の人魚”と戦い、“金のブレスレット”を奪取すること――打開するとすれば、もう、そこしかない。

 しかし、彼女と戦うことの是非はともかくとして、人魚は「そうね」と呟いたきりである。彼女は(意外にも)好戦的な印象を与えた。

「“人喰いニンギョ”を退治して、光の民の平和を勝ち取り守る為の“金のブレスレット”を得るという大儀を胸に戦う……それも良いでしょう」

カナッサは、先程とはまるで別人のように、5人に冷笑を投げかけた。

「“金のブレスレット”が欲しいのなら、腕ずくで奪ってご覧なさい」

彼女の低く穏やかな声が白灰色の岩に吸い込まれていく。不老不死であるというニンギョを目の前に勝機を見出せぬまま、イオナとビルフォードは彼女と対峙する。

 

 この世界に来て初めて、イオナが武器召喚呪文を唱えた。いや、どうやらそれは結界呪文に使用するに過ぎないもののようだ。白銀の鎖が、白灰色の岩を削るように地を這い、5人を囲む。

『結界呪文(バリアー)!』

召喚した鎖がイオナのキャパシティーを増幅させているのか、通常よりかなり強力な結界が出来た。これは人魚の石化呪文を警戒してのことだろう。

 ビルフォードは、剣を鞘に収めたまま、柄だけを手に取った。居合いの構えだ。隙さえあれば、何時でもその刃を人魚目掛けて繰り出せる。数千年も前から人間を脅かし続ける“イワク付き”の人魚だ。ラン達のような、典型的な闇の民ともだいぶ容姿を異にする海の民など、彼にとっては全くの化け物である。「人魚の石化呪文による光の民の犠牲者をこれ以上出さない為」といった大義が明確かつ具体的である以上、彼自身は戦い易い。只、彼女が石化したという証拠の“残骸”(それはヒトの形をした石の塊であると思われる)が、この洞窟の何処にも見当たらないという点は、大いに気になっているのだが。

「……。」

ランは横目でイェルドを見る。好戦的な人魚の真意も、人魚と戦う大義名分も確かなものでないだけに、突然始まってしまった戦闘に、彼は少なからず困惑しているようだ――彼とも長い付き合いになるのでそれくらいはランにも解る。

「(確かに、気は進まない)」

ランの第一印象と直感に基づく希望的観測に過ぎないが、この人魚・カナッサが、人を石化させたり民が殺し合ったりすることを望むような人物だとは到底思えない。

 でも……

「(“金のブレスレット”は、絶対必要)」

まだ記憶に新しいエリオとの戦いがランを駆り立てる。『勇者』のチカラがなければ、傍らの彼はかなりの無茶をするだろう――それだけは、もう、耐えられないのだ!

「やるっきゃないか」

岸に打ち寄せる波の音を3つほど聞く間があっただろうか。気は進まないままだったが、ランは、剣の柄を取る(その際、ニンマリとしたいつもの笑みを返してきたイオナを睨み返してやった)。

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