愛と呼べない夜を越えたい 2
実さんとの間に3人目の子どもが生まれて……そうね、一番下の子がやっと立ち上がって歩き始めた頃に、実さんが言ってきた。
「里美さん。実は今お世話している女性たちがいてね。ちょっと挨拶に行ってもらえないだろうか?」
何日ぶりだろう。久しぶりに話しかけてきたと思ったら、妾が出来たというお話? 確かに、本妻としては挨拶に行かなければならないけど。
「わかりました。伺います。場所はどちらでしょうか?」
私は、実さんから住所とその場所の地図。彼女たちが、それまでどういった立場だったのか訊いて、順番に出かけることにした。一番良い着物を着て。
実さんに妾が出来たと聞いても何とも思わない。
そういうふりでもしてなければ、やってられなかった。
一人目は、一等地にお店を構える洋裁店を営む女性だった。
「まぁ、奥様。ようこそおいで下さいました」
彼女は、にこやかに私を迎え入れてくれた。奥の部屋に隠れるように子どもがいる。実さんとの子どもかしら。
彼女、三上由美さんはお茶を入れてくれながら言う。
「園山さんに可愛らしい奥様だと伺って、お会いできるのを楽しみにしてましたのよ。一着洋服を仕立ててみてもよろしいかしら」
「いえ。結構です」
冗談じゃない。妾に洋服を仕立てて貰うなんて。
「そうですか? 仕立てるのを楽しみにしておりましたのに」
幸せそう。やわらかく優しく笑って、実さんの事も包み込んでいるのだろう。
ここで仕事の疲れを癒してもらっているのね。家では、くつろげないだろうから。
二人目は、元芸者で三味線を教えて暮らしているという幸恵さん。
芸者になった時に、苗字は捨てたのだという。元々、貧しい農家の出なので、親戚でも無いのにその地域全てが同じ苗字だからと。
「実さんの奥様だったら、無料で教えてあげるのに」
教養程度にお琴は出来るのだけど、三味線は弾いたことがない。少し興味を持ってしまったけど、一人とだけ仲良くすると後々面倒な事になってしまうのも知っていた。
「私は琴が弾けますので、遠慮しますわ」
「そうかい? まぁ、気が変わったら言っておくれよね」
気の良さそうな笑顔で見送ってくれた。
最後は女流作家さん。
綾小路沙喜子……ペンネームなのですって。すごい名前だから驚いてしまったわ。彼女の話は、面白い。
「幸せなんてナンセンスよ。不幸な事こそ、執筆の糧になるの」
よく分からないけど、社会の不満を元に小説を書いているのだという。
なんだか、皆さん、色々な才能を持っていらっしゃるわ。
私は何もできない。
だから、がっかりされたのかしら……。
『妻をめとらば才たけて~』※なんて、歌があるくらいだから。
実さんが選んだ妾たちを実際に見て、私が義務でしか相手にされなかった理由がなんとなくわかった気がした。
実さんの事業が軌道に乗って、しばらくしてから私達は新居に移った。
町から離れた山里の近く。屋敷も敷地も広かった。
「ここで地元の方々に家庭菜園を習うと良いよ」
そう言って、実さんは私たちの部屋を整えると足早に仕事に戻って行く。
私の頭にそんな言葉がよぎった。
充分な使用人と、子どもたちが学校に通うための車とその運転手。
子どもたちに一部屋ずつ与えても、まだ充分過ぎるほど広いお屋敷。
敷地内に作った畑の土は質が良く。季節ごとの恵みをもたらせてくれるだろう。
だから何? 私と子どもたちとで、大人しく、ここにいてくれって言うの?
ここに実さんが来ることは滅多に無いのに……。
もう涙も出ないわ。
畑も家の事も、たいてい使用人がしてくれる。
私はヒマつぶしに、ラジオを聞いていた。
なんだかきな臭いニュースばかり流れてきて、戦争が本格的に始まろうとしているのはわかった。
しばらくすると、実さんが帰って来て何やら屋敷の台所付近の板を外して穴の中に缶詰めを大量に入れていた。お米や小麦、お砂糖も缶に入れてその穴に入れている。
「食料が手に入らなくなるまで、ここを開けてはいけないよ」
外した板を元に戻しながら、実さんが私に言った。
食料が無くなってしまうなんてこと、あるのかしら?
日本は今までだって何度か外国と戦争しているけど、私達は普通に暮らしていたわ。
実さんの言っていることは、よくわからなかったけど家長の言う事には逆らえない。
「はい。わかりました」
どうせ、開けるかどうかの判断は、実さんがしてくれるだろう。
その内、頻繁に空襲警報が鳴るようになった。
使用人も若い男性から順にと言った感じで、赤紙という怖い徴兵の紙が来て戦争に行ってしまう。
女子どもばかりになってしまった頃には、実さんも仕事が終わると、こちらの屋敷に戻ってくるようになった。
そして、屋敷の中を整理して、女性の使用人たちも田舎がある者には、どんどん暇を出していた。※2
長男が学童疎開に行ってしまってしばらくしたら、実さんにも赤紙が来てしまった。
配達の方から「おめでとうございます」と言う言葉と共に、私は震える手でその封書を受け取った。
※「人を恋うる歌」与謝野 鉄幹作(与謝野晶子の夫)
※2 暇を出す……使用人を辞めさせる
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