愛と呼べない夜を越えたい

松本 せりか

愛と呼べない夜を越えたい 1

 

 病院の一室。

 窓からは、満面の星空が見える。


 ベッドの上でたくさんの管を付けられて、機械に繋がれている、あなた。

 時々、目がうっすらと開いては私の方を見ているようだわね。

 酸素マスクを着けたまま口が動いている気がするけど、何か言いたいことがあるのかしら、それとも……。

 私は、あなたの傍ら、ベッドの横で、備え付けのパイプ椅子に座ってボーっとしていた。


 私の人生は一体何だったのでしょうね。



 大正4年、庄屋の末娘に生まれて、何不自由ない生活を送っていたわ。

 一生懸命勉強して女学校にも入ったの。楽しかったわ。

 お友達と学校帰りに、本当は禁止されていた寄り道。あんみつを食べるために甘味処にも通った。 

 

 でもね。甘味も楽しみだったけど、その通り道ですれ違う、長身の学生さん。

 いつも横文字の分厚い本を読みながら歩いている。

 あの方を見るのも、私のひそかな楽しみだったの。


 昭和に入ったあの頃、まだ道も舗装されてなくて、風が吹くたびに砂ぼこりが舞っていたわ。

 そのたびに、あなたは目を細めて舞っている砂をやり過ごすの。そのお顔が、格好良く見えてポーっと見とれてしまっていたわ。


 苦労して勉強をして入った女学校も、1年も経たず辞めることになってしまったけれど……。



「ひどいわ。お父様。勝手に縁談を決めてしまうなんて」

「そんな事言うものではありません。お父様に失礼ではありませんか」

 私の抗議に対し、そう言ったのはお母様で、肝心のお父様はソファーに座って、お見合いの写真をテーブルに置き、身上書に目を通している。

 

「まだ帝大に在学中の身でありながら親を頼らず起業する優秀な青年だぞ。家柄は……まぁ、少し劣るが」

「だからって」

 女学校に入るためにどれだけ勉強したと思っているのよ。憧れのハイカラさん姿にやっとなれたって言うのに。

「もう決まった事だ、口答えは許さん」

 お父様は、きっぱりそう言う。あの頃はまだ、家長の言う事は絶対だった。

「まぁまぁ、里美さん。お写真をごらんなさいな。なかなかの好青年ですよ」

 そう言ってお母様は、私にお見合い写真を渡して来た。そこに写っていたのは、いつもの甘味処に行くときにすれ違う学生さん。


 園山 実さんというのね。


 何だか、少しうれしくなった。最近、私のクラスでも色々な家庭の奥様方が見学にいらっしゃっていたから……。

 そうよね。少し早いけど、これを断って卒業まで在学していたなんて事になったら、それこそ恥ずかしいもの。


 私は、写真を見て浮かれて結婚の準備にいそしんだ。

 相手から、望まれていないことなど、これっぽっちも考えずに……。

 



 結婚式が初対面という事も、まだある時代だった。

 神前で結婚式を執り行い、新郎の家で宴を開きお披露目をする。

 私は横に座っている新郎……園山 実さんの顔を見る。

 丁度あちらも私の方を見てたので、私は頑張って微笑んだ。そうしたら、なんだかムッとしたような難しい表情をして顔を背けられてしまった。


 もしかしたら、嫌だったのかしら。

 そう思ったら、急に不安になった。だって、もし夫になる人に嫌われていたら私はどうしたら良いのだろう。

 手が震える。挨拶に来てくれる人に対して、私はちゃんと笑えてるかしら。



 宴もたけなわといったところで、お世話係の女性から声を掛けられた。

 私は誘導に従い、しずしずと奥の間に下がる。

 お風呂に入り、母が縫って持たせてくれた真新しい単衣に身を包み、寝室に向かわされた。

「こちらでしばらくお待ちください」

 園山家の使用人だろうか、女性に案内されて入った部屋には布団が二組敷いてあった。


 布団の近くに正座して座っていると、ふすまがスーッと開いて園山 実さんが入って来た。

 私は慌てて三つ指を付き、実さんが座るのを待つ。

 なんだか、怖い。

 目の前に座る気配がした。


「旦那様。不束者ふつつかものでございますが、よろしくお願いします」

 私はやっとの思いで言う。声が震えないようにするのが、精一杯だった。


「里美さんは、いくつになられたのですか?」

 少しの間があり、実さんが訊いてきた。

「はい。大正4年生まれの16でございます」

「あの……。女学校は」

「退学してまいりました。結婚したらもう通えませんから……」

 

 そう言って、私は顔を上げた。いつまでもお辞儀している訳にもいかないから。

 自分でも顔がこわばっているのが分かるけど、笑おうとしたら涙がこぼれそうで。

 なんだか、目の前の実さんが気の毒そうな表情かおをしている。


 その後は何と受け答えしたのか覚えていない。

 私は、気が付いたら実さんの腕の中にいた。

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