第二暦・陽 戌の歩 下

 お次は温応おこた城の南南西・火行区かぎょうくひつじところ。先刻の彦田ひこた 浮悌うきやすは、ここのお得意さんらしい。

 つまりそういう夜の店が多く、今の時間帯はどこも眠りに就いていた。

 兄妹で並んで歩くには気まずいのもあって、ほとんど素通りする形で南門朱雀橋を擁するうまの処に到着する。

 第一印象は、とにかく『紅い』の一言に尽きる。

 屋根も柱も、何もかもが赤墨を引っ掛けたかのように朱塗りに染めてある。


「うへえ、何だこりゃ気持ち悪い」


 やたらと多い鳥居を潜りながら、俺は正直な感想を吐露とろする。


「先に話した通り、それぞれの区はそこを受け持つ守護四士しゅごしし様を頭として成り立っています。ですから、守護四士様のお考えが否応なく反映されるのですけど、火行区はことにそれが顕著なのですわ」

「つまり、この身の毛もよだつ光景は南の城門守護四士様の趣味ってわけか」


 一体どんな奴なんだ?

 自然と沸いてきたこの疑問に応えるように、甘美な笛の音が風に乗って運ばれてきた。

 その音に吸い込まれるようにして、周りの貴族たちはふらふらとそちらへ集まっていく。

 決して慌ただしく走ったりはしないが、それ故に却って人の流れに抗えず、俺たちは一緒になって場所を移した。

 野次馬根性といえば言葉が悪いが、笛の音に誘われた者たちは俺たちの他にも大勢いた。

 そして、この輪の中心にいる男こそが、俺の会う初めての城門守護四士だった。


「あいつは……?」

焔暦寺えんりゃくじ 楠永くすなが


 答える声は千和ちわのものではなく、本人直々の名乗りであった。

 俺が輪の淵で漏らしたほんの小さな呟きが中心に届くほどに、この場はたった一つの音に――男に支配されていたのである。

 支配者――楠永は笛を唇からそっと遠ざけると、まっすぐにこちらを向いた。

 女はもちろん男でさえも見惚れるような美貌に、俺はしばしの間放心する。

 楠永がにこやかに笑いかけてきても、微動だにできな――ん!?

 何だ、いつの間に俺は表情が確認できるほど近くに寄っていたんだ?

 まるで一つの生き物かのように、辺りの貴族たちは俺と千和を自然と楠永の近くへと寄せていた。

 楠永が俺たちに気を向けたと分かるや、悟らせることもなく彼らは動いていたのだ。

 それだって、きっと無意識でやったことに違いない。

 神にも等しい楠永の求心力……のような、とにかく得体の知れない力に、未だに息継ぎさえ満足にできないでいた。

 しているうちに、楠永の方から口火を切った。


「僕に何か用かな? そういう目をしていたけど」

「あ、いや……」


 自分がひどく不敬を働いているような気にさせられ、呂律ろれつもうまく回らない。

 こういうとき、頼りになるのはやはり千和だった。


「お気を悪くされたのでしたら申し訳ありません、楠永様。十字郎とおじろうお兄様は昨晩、十年ぶりに田舎町から温応に戻ってらして、楠永様の笛の音が珍しかったのでございます」

「君は確か狛走こまばしり家の……そうか、なら君が狛走 十字郎。一黙斎いちもくさいさんのご子息か」


 楠永は千和から俺の方へ向き直って言った。

 親父の名前が出たことで、俺の口はようやく滑らかに動くようになる。


「親父のこと、何か知っているのか!?」 

「うん。知っているよ」


 事もなげに首肯する楠永。


「頼……お願いします! ぜひ教えてください」


 俺たちが揃って頭を下げる前に、楠永は即答した。


「分かった」


 が、そこで言葉は終わりではなかった。


「僕に勝てたら、教えてあげるよ」

「えっ?」

「僕の力を見たかったんだろう? そういう目をしていたよ」


 楠永の提案から、俺は昨夜の黒装束を思い起こした。

 まさしく、犬も歩けば何とやら。こういう男と戦いたくて、俺はこの町に残ったんだ。


「お願いします」


 俺の応答に、楠永は楽しげに笑う。


「じゃあ始めよう。そうそう、君が負けたときは一つ僕の願いを聞いてもらうよ」

「ああ、それでいい」


 まるで怯まなかったと言えば嘘になるが、それ以上に俺の心は楠永と手合せできることで熱く燃えていた。

 またも天の意志に従うように人の波が引いていく。朱雀橋の上には俺たち二人だけが残った。

 一つ深呼吸をしてから二つ目の呼吸の間に刀を抜く。そうして、楠永の準備が整うのを待った。

 ところが、楠永はそれまで右手に持っていた笛を掲げたままに動きを止めた。


「どうしたの? 礼も審判もいらない。いつでもかかっておいで」

「何の真似だよ、それは? その笛で俺の相手をするってのか?」


 空いた方の左手はだらりと下げた、何とも気の抜けた構え。

 子供のチャンバラごっこでも、もう少しましな形を取るだろう。


「腰のそれは飾りか?」


 楠永が差している柄にも鞘にも華美な装飾の施されている刀を、俺は顎で指し示す。


「飾りさ。これは宝剣だからね」


 俺の挑発にまともに返答し、楠永は続ける。


「心配はいらないよ。君の剣は僕には届かない」

「………………」


 俺はもう一度、さっきよりも深く息を吸い込む。

 落ち着け。惑わされるな。冷静に。向こうの狙いは俺から平常心を奪うことにある。

 うん、大丈夫だ。脇差にも満たない笛など、間合いの差で抑え込める。

 このまま、この距離から仕掛ければ――いける!!

 間違いなく、俺の踏み込みの方が早かった。俺の剣は確実に楠永を捉えられるはずだった。

 これが平面の勝負だったなら。


「――上っ!?」


 いや、上だって同じことだ。あんなところから届くはずはない。

 このまま切り上げれば俺の勝ちだ。そのとき、すっかり忘れかけていた肩の傷が途端に悲鳴を上げた。

 俺の腕は上がらずに、かしずくように楠永に頭を差し出すだけになる。

 ちょん、と小突くに止めて楠永は俺から一本を取った。

 歓声は上がらない。どよめき一つ起こらない。

 笛の鳴るのと同じように、楠永の織り成す美技に周りは酔いしれるばかりだった。


「それでは十字郎くん、僕の願いを聞いてもらおうかな」


 楠永は二度目の敗北に意気消沈とする俺を、意に介することなく話を運ぶ。

 というよりも、この勝負そのものが初めから楠永の思惑通りだったと言っていい。

 あるいは、俺に声をかけたときからそれは始まっていたのかもしれない。

 俺の怪我や勝気に逸っていること、すべてを見抜いた上で勝利までの道筋を組み上げていたのだ。

 完全なる位負けだ……。このとき、俺は黒装束と戦ったときを上回る敗北感を覚えた。

 正直、無理矢理に頼み込めば親父のことが聞き出せるかもしれないとも考えたが、約束は約束だ。


「…………分かった。俺は何をすればいい?」


 これから何をするのか?

 奇しくもこの敗北で、俺はその答えをもたらせることになった。そして、同時に知ることになる。

 焔暦寺 楠永――この男の策謀は、まだ終わっていないということを。

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