除獣怪 ―ノケモノノケ― 水行区編

第一暦・陽 戌の侍

 戻ってきての第一声は、俺の中でとっくに決まっていた。

 十年前、この屋敷を出るときには思いも寄らなかった言葉が、今か今かと喉の奥でひしめき合っている。

 すでに辺りは暗く、時刻はいぬの刻(午後八時)を過ぎた。

 しかし、今の俺には近隣住民への配慮などまるでない。


「出て来ぉい! クソ親父ぃ!!」


 怒りのままに吐き出した俺の叫びに、返ってくる声はない。

 たちまち先程を上回る苛立ちが募ってくる。

 荒れた気持ちのままで、感慨もなく門を潜る。

 本当に、こんな風に戻ってくるなんて想像していなかった。

 それもこれも、全部親父のせいだ。

 記憶を頼りにあいつの私室を目指す。

 タン・タン・タンと小気味よくふすまを開けていく。

 最後の襖をダンッと開け放つと、あれから全く変わらない部屋が目に飛び込んだ。

 部屋に親父の姿はない。

 俺は盛大な肩透かしを喰らって気落ちする。

 と、頭を垂れた俺の視界にあるものが映った。

 それは埃を被った細長い木板。俺はそれが何かを知っていた。

 だが、俺の知るそれは屋敷の表に堂々と立っていたはずである。

 間違っても、こんなところで埃を被っているわけがなかった。

 そう思って改めて部屋を検分してみると、全体的にすすけているような気もする。

 もしかして、親父がここを出たのは昨日今日ではないのではないか。

 俺がようやくのことそこまでたどり着いたとき。

 何者かが駆け寄る足音が耳に届いた。

 何だ、ただの考え過ぎだったかと振り返ると、そこにはまたしても親父はおらず、代わりに一人の少女が立っていた。

 くりくりとした大きな黒目。不安を覚えるほどに細く小柄な体躯。何より、犬耳のように外ハネした髪。

 途端に郷愁きょうしゅうが俺の胸を襲う。


「あ……久しぶ――りぃ!!」


 だが少女は俺のそんな思いになどお構いなしで、腰に差していた刀を抜き放つと、躊躇ちゅうちょなく打ち込んできた!!

 俺は反射的に後ろに仰け反る。寸でのところで刀は止まった。

 しかし全く危機が去った実感はない。

 未だ、刀は反りが鼻筋にピタリと沿うほどに漸近ぜんきんしており、俺の目には刃紋までくっきりだ。


「その傷……それにその髪ハネ。まさか十字郎とおじろうお兄様!?」


 少女はやっと俺が何者か気付いたようだ。


「お、おう。十年ぶりだな、千和ちわ。とりあえず、刀を下げてくれるか?」


 少女――狛走こまばしり 千和は謎の照れ笑いをしながら、刀を引いた。


「もう、お兄様。帰ってくるのなら帰ってくると知らせておいてくれませんと。危うく斬り殺すところでしたわ」


 どうやらこの妹は、不審者だったら問答無用で斬り殺して構わないものと思ってるらしい。

 俺は額の傷がきずくのを感じながら、彼女の発言に戦慄せんりつする。

 十年前、当時七つと四つの俺たちはちょっとしたことで喧嘩になり、その際につけられた傷である。

 成長した今になっても右額から目下まで続く大きな縦傷は、太眉と合わせて名前通りの十字を成している。

 まさかこの傷のおかげで命拾いすることになるとは。

 もっとも、この傷がなくとも狛走家の人間特有の髪ハネで一目瞭然だっただろう。

 旋毛つむじの関係か、どう抑えつけても犬耳のように二つのハネができるのだ。

 だからこそ、俺の側も目の前の少女が妹の千和だとすぐに確信できた。


「いきなりでしたから驚きましたわ」

「いや、間違いなく俺の方が驚いたと思う」


 とんだ再会になったものだ。

 どうあれ感動的な再会をするつもりは、だからあいつのせいでなくなっていたのだが。

 そうだ。まず何よりも先に聞かなければならないことがある。


「「ところで」」


 続く俺と千和の言葉は、ピタリと重なった。


「親父はどこだ?」「お母様はどこですの?」


 真っ先に聞きたいことがあるのは、千和も同じだった。

 しかしそれは、俺が最も答えたくない問いでもある。

 …………嫌なことはさっさと済ませるに限る。

 俺は努めて素気なく、けれど隠せない動揺と共に言葉を紡ぐ。


「お袋は……半年前に死んだ」


 俺たち狛走家は、親二人子二人の四人でこの温応おこた町に住んでいた。

 ところが十年前、お袋が難病にかかり療養のために町を出ることになる。

 俺はお袋についていき、千和は親父と残った。

 どちらも俺たち自身の意志で決めたことだった。


「そう……でしたの」


 千和もさっきまでの笑顔がかげり暗い面持ちになる。

 しかし俺ほどの哀しみを感じてはいないだろうと思う。

 残酷なことを言うようだが、千和はお袋のことをほとんど覚えていないはずだ。

 だから、哀しめずとも仕方がない。

 別にそれを責めるつもりはないし、千和を軽蔑するようなこともない。

 その代わりといっては何だが、気持ちを整理する時間を与える気もなかった。


「それで帰って来られたわけですね?」

「帰ってきたんじゃない。戻ってきたんだ」


 俺は千和の言葉を否定する。


「え?」

「今更ここに住むつもりはない。用事が済んだらすぐに出ていく」


 千和は意外そうに、元から大きい目をさらに見開いた。


「そんな……どうしてですの?」

「どうしてだと?」


 妹を傷つけることに少しばかり胸が痛んだが、親父への怒りを消すほどではない。

 たとえ八つ当たりだとしても、言わずにはおれなかった。


「それはこっちの科白せりふだ! どうして返事を寄越さなかったんだ!?」

「な、何のことか分からないのですけど……」

「一年前からお袋の病状が悪化し出した! それからずっと文を送り続けてきたのに……親父は一つの便りも寄越さなかったんだ!!」


 俺の用事とは親父を一発ぶん殴ること。

 それさえ終われば、もう二度とあいつの顔を見るつもりはなかった。


「親父はどこにいる?」


 ここで最初の問いに戻る。

 千和は申し訳なさそうにしながら声を震わせた。


「お父様は一年前に将軍様に招かれたきり、一度も帰ってきてません」

「帰ってない? 一年前……から?」


 予想外の返答に唖然あぜんとする。


「ええ。私の方にも何の知らせもありません。ですから、きっとお兄様が送ったという文も……」


 千和が何を言いたいのか聞かずとも分かった。

 けれど俺はそれを必死で否定する。

 振り上げた拳を下ろす先を、見失うことが怖かった。


「んなもん、どうにかなるだろ!? 何やってんのか知らねえが、一年も便りを出せないわけはねえだろ」

「はい。そう思います。生きているのなら」


 はっきりと口にされて俺は何も言えなくなる。

 体中の力が抜けて、その場に座り込んだ。

 千和も付き合うようにして俺の隣に腰を落ち着ける。


「城の方へ掛け合ったりはしたのか?」


 沈黙が嫌で、答えが分かっていながら俺は聞いた。

 千和ほどの行動力があって、していないはずはない。


「はい。何も話すことはないと、門前払いでしたわ」


 俺はなおも何か言おうとしたが、しかし寸前で思い止まる。

 さっきの話の逆になるが、千和は俺よりずっと親父との思い出が多く、失うものも多いはずだ。

 それから俺も千和も押し黙ったまま、時間だけが無情に進んでいく。

 そして、とうとう日付が変わったことを古時計の音が告げた。

 その音が切っ掛けだった。

 何か考えていたわけではない、むしろ何も考えたくなかった俺の頭に、突然その言葉が浮かんだ。


「もう一回。もう一回、行ってみよう」


 千和がばっと顔を起こしてこちらを見る。


「無駄ですわ。私が一回しか掛け合ってないと」

「思ってないけどさ。もう一回、行ってみてもいいだろ」


 後にして思えば現実逃避以外の何でもない考えだが、このときの俺の中では名案だった。

 何を言われても撤回する気が起きない。

 千和は目を潤ませながら、さらには俺の両肩を揺すりながら何度も何度も説得してきたが、俺は首を縦には振らなかった。


「じゃあ、ちょっと行ってくる」


 いい加減 わずらわしくなってきて、俺は千和を振り払って城へと向かうことにした。

 これ以上いると、いつ千和が刀を抜くか分かったものではない。

 立ち上がった俺に引きられるようにして床に倒れた千和を置き去りに、俺は走り出した。

 道は覚えているつもりだったが、どうやら温応の町は俺がいない間に大分様変わりしたようだ。

 大分遠回りしたような気がするが、何とか城門にたどり着く。

 どうしてか警備が一人もいない。

 不自然ではあったがともかく好都合だ。

 俺は堀に掛かる橋を真っ直ぐ駆け抜け、門に手を伸ばそうとした。

 そのとき、一つの人影が上から降り落ちてくる。

 月光に照らされたそいつは、上から下まで真っ黒な装束に身を包んでいた。

 唯一露になっている両の目でさえも、奥が見えないほどに黒く塗り潰されている。

 その異様な姿に躊躇いを覚えている間に、そいつは動き出していた。

 いつの間にか右手に携えた苦無を、俺の首筋目掛けて振り被る。


「なっ!?」


 本日二度目となる奇襲故に、自分でも意外なほどに反応できた。

 何とか紙一重で躱すと、腰の刀を牽制代わりに抜き切った。

 が、相手は俺よりもずっと落ち着いている。

 十全に俺の剣を見切ると、例の墨染のごとき目でこちらを見やる。


「何だよ、お前」


 その視線が何となく気に障り、俺は子供のように口を尖らせる。


「………………」


 黒装束は何も答えない。

 これが返答代わりだとばかりに苦無を振るってくる。

 俺はそれを刀で防ぐ。

 押し合いに勝ち素早く打ち込むが、虚しく刀は空を切る。

 黒装束は素早く接近と退避を繰り返しながら、俺の隙をうかがっているようだ。


「おい、話を聞いてくれ!」


 俺の呼び掛けには相変わらず答える気配はない。

 はっきり言って、俺はこいつに負ける気が起きなかった。 

 確かに速さには目を見張るが、決定的に腕力不足だ。

 不気味さは感じても脅威は感じない。だから、話をする余裕もある。


「俺はこの門の向こうにいる親父に用があるだけだ! 将軍様をどうこうする気はねえ!!」

「………………」 


 黒装束は何も答えない。

 何も。返ってこない。

 その沈黙が便りのなかった親父と重なり、俺は次第に腹が立ってきた。


「何とか言えよ、この野郎っ!!」


 渾身の力を込めて振るった剣は黒装束の横腹に炸裂する。

 しまった。傷つけるつもりはなかったのに。


「お、おい。大丈夫か?」


 うずくまり後退する黒装束に近付こうとしたが、奴はそれを拒絶した。

 なおも苦無での攻撃を続ける。だが、明らかに動きが鈍っている。

 頼みの速ささえなくなり、もはや完全に敵ではない。


「いい加減にしろよ。俺は危害を加える気はないんだって」


 すでに一撃かましながら何を言っているという感じではあるが、しかし俺の本心には変わりない。

 だがいつまでたっても応えない相手に、その本心も少し揺れ動く。

 もうとっとと黙らせた方が話が早いのではないか、と思い始める。

 俺は刀を峰に返すと気絶させるつもりで打ち込んだ。

 ところが完全に決まったにも関わらず、黒装束は怯むことなくどころか俺の急所を狙ってくる。


「――――っ!?」


 かわし切れず肩口から血が噴き出す。

 黒装束は息つく間もなく追撃する。

 徐々に徐々に俺は追い込まれていった。

 何度か反撃を叩き込んでも、こいつは止まる気配がない。

 こちらがぞっとするほどの手応えにも、まるで堪える様子はない。

 そして相変わらず何も答えず、応えず。

 もはやこいつを傷つけることさえ怖ろしくなってくる。

 俺の中で一気に恐怖の感情が膨れ上がった。

 あの不気味さが脅威の位まで引き上がってくる。


「うっ……わ、わあああああああああああああああ!!」


 気付けば俺は発狂し、闇雲に刀を振り回していた。

 刀はいつの間にか俺の手を離れ、宙を舞う。


「あ……ああ」


 唇が震えて歯がガチガチと音を立てる。

 情けない俺の姿にも黒装束は揺らぐことはない。

 真っ直ぐにこちらへと迫る。

 死ぬ? こんなところで? 訳も分からないまま?

 嫌だ。何で何で何で何――――。


「お兄様っ!」


 そのとき、俺の視界に映り込んだのは犬耳――いや、犬耳のような髪ハネだった。


「千……和?」

「大丈夫でしたか、お兄様!?」


 大丈夫かどうかなんて見れば分かるだろうが。

 いつもならそんな軽口を叩くところだが、そんなゆとりも今はない。

 俺は黙ってこくこくと繰り返し頷く。

 千和の登場に黒装束の態度にやっと少しの変化が見えた。

 といっても、最初に俺にしたようにじっと千和のことを見つめて、すぐに苦無を構え直すだけだ。

 千和も状況を把握したのか、刀を抜いて向かい合った。

 新たな戦闘が開始されるかと思われた刹那、黒装束は踵を返すと飛び上がり俺たちの視界から消えた。

 え、逃げた? 二人相手にはできないと思ったのか?

 その程度で諦めるようには全く見えなかったのに。

 そんな俺の疑問に対する答えが、直後に聞こえてくる。

 十や二十では利かない足音と話し声が迫ってきていた。


「来ましたわね。城門守護四士じょうもんしゅごししの方が」


 千和が神妙な顔つきで、聞き慣れない言葉を呟く。


「城門? 何だって?」

「説明は後ですわ。私たちもここを離れませんと」


 ここを離れるのが先決だろうことは、混乱した頭でもさすがに理解できた。

 ただ、問題は――――。


「立てますか?」

「…………いや」


 千和は何も言わずに俺に手を伸ばした。

 その優しさが今の俺には逆にこたえる。

 温応の町は俺がいない間に変わっていた。変わり切っていた。

 ここで生き抜くために、俺も変わらなければならない。

 今日のこの屈辱はその勉強代としてありがたく受け取ってやる。

 絶対に変わってみせる。

 決意の固さを表すように、俺はがっしりと千和の手を握った。

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