第五百二話 コンプレックス

 バーで仲間と酒を飲んでいた時、店主に試供品だと言われて配られた酒を飲んでから、何かがおかしくなった。そこからの記憶はほとんど無いが、辺りを見渡せばあの時一緒に飲んでいた友人も、男と同じように頭を押さえて蹲っている。


「何を言っているの? おかしな方。あなた達、その男を捕らえなさい」


 アメリアが言うと、数人の兵士が動いた。


 けれど、アメリアの言葉に動かない兵士もいる。これは一体どういう事だ?


 その時、どこかから懐かしい聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「久しぶりだね、アメリア」

「⁉」


 その声にハッとしたのはアメリアだけではない。エミリーもまた息を飲んで周りを見渡した。


「さて、ここからどれだけ減るのか見ものだね」

「ノア!」


 アメリアが業を煮やして叫ぶと、ようやくノアの姿が現れた。その姿は最後にあった時のままで、アメリアはゴクリと息を飲む。そんなアメリアに気付いたのか、ノアはおかしそうに肩を揺らす。


「君が聖女? 嘘でしょう? 君の出自を聞いたら皆、ビックリするんじゃない? シスターの癖に王弟を誑かした罰当たりな女の娘だってさ。まぁ、どうやらそれも本当は違うみたいだけど?」

「え?」


 ノアの言葉にエミリーとキャスパーが思わずアメリアを凝視する。


 アメリアは教会の中にある日突然オピリアの花を持って現れた聖女なのだと聞かされていたエミリーとキャスパーからすれば、今のノアの話はとんでもない事だ。


「何を言っているの? ああ、そうでしたわね。エミリーの話ではあなたは記憶を失っているのだものね。きっと、そちらに居る間に何かを吹き込まれたに違いないわ。ノア、こちらへいらっしゃい。あなたも幸せになりましょう、私達と共に」


 少しの動揺も見せないアメリアに、ノアもにっこりと笑う。


「あれ? エミリーに聞いてないんだ? 僕の記憶は戻ってるよ。君達が外で何をしてきたのかも全部知ってる」

「!」

「⁉」


 アメリアの鋭い視線がエミリーに突き刺さる。エミリーは慌てて首を振ったが、アメリアの顔は到底聖女とは思えないほど醜く歪んでいた。


 何か言わなければ! エミリーが口を開くよりも先に、ノアが続きを話す。


「それに、君達の計画も全部知ってるよ。だから残念だけど君達の武器は全て没収されたし、完全に君達は悪魔の手先みたいになってる。だからそう簡単に神の島に入れると思わない方がいいんじゃないかなぁ?」


 ニコっと笑ったノアの言葉に何か思いついたように薄い笑みを浮かべたのはキャスパーだ。


 目くらましの魔法の中からそんなキャスパーの表情を見たアーロが鼻で笑った。


「見てろ、あいつ絶対に寝返るぞ」

「でしょうね……あの感じ、まるでネズミっす」


 殺し屋をやっていて一番厄介だったのが、金の為ならどちらにでも簡単に寝返るネズミと呼ばれる存在だった。


 彼らはプライドなど何もない。欲しいのは地位や名誉ではなく、金だ。これに尽きる。まさにキャスパーはその部類の人間なのだろうという事をオリバーはもう知っている。


 そんなオリバーの言葉にアーロは笑みを浮かべて頷く。


「正にそれだ。ユアンと手を組んでいたのだって、おこぼれにありつけるからだ。それ以上でも以下でもない。まぁ、そういう意味ではある意味分かりやすい奴なんだ」

「なるほど……人としては最低っすけど、敵だと思えばやりやすくていいっすね」

「殺すなよ? あれは俺が止めを刺す」

「っす」


 あのシャルルとの闘いの後から、アーロはもうすっかり仲間だ。


 アーロは廃嫡されてからというもの、自ら色んな仕事をしながら情報を集めて剣術を磨き、それこそエリザベスの仇を打つことだけを考えて生きてきたような男である。並々ならぬ思いがキャスパーにはある筈だ。


 オリバーはコクリと頷いてノア達に視線を戻した。


 目の前にはノアが全て思い出したと聞いてまるで少女のように喜ぶアメリアの姿がある。


「そうなの! 全て思い出したのね! じゃあ、私の事も思い出したんでしょう? 昔の様に沢山お話したいわ。エミリーやそちらで何を聞かされたのか知らないけれど、それは全て嘘よ。あなたは洗脳されているの。いいわ。私が本当の事をあなたに教えてげる。それを聞けばきっと、あなたはこちらに戻って来るわ」


 内心ではどう思っていようとも、アメリアは精一杯顔を綻ばせた。ノアが全て思い出しているのなら話は早い。


 何せ幽閉されるまでの間もノアはいつも一人ぼっちで、アメリアしか口を利く相手が居なかったのだ。幼い時に植え付けられたトラウマはそう簡単に払拭できるものではない。そこに付けこんでどうにかノアを丸め込めれば、もう勝ったも同然だ。


 どうせノアの記憶が戻った所で、この男はずっと妄想の話をしているだけの男なのだから。


 そんな事を考えながらノアに言うと、ノアはニコっと無邪気な笑みを浮かべた。


「そっか、アメリアってば、おばさんになっても少しも変わって無さそうで安心したよ!」

「‼」


 悪びれる事なく言うノアに、アメリアと仲間たちの顔が引きつった。


「に、兄さま……突然どうしちゃったの……? ちょ、あのおばさんの顔、すっごく怖いんだけど……」


 震えるアリスを見てキリが何かに納得したように言った。


「作戦でしょう。煽ってるんですよ、ノア様は。アメリアの化けの皮が剥がれるのを」

「いやーだからってあんな的確に抉らなくても……」


 引きつるカインにルイスも頷く。


「……おばさん?」


 思わず漏れたアメリアの低い声に、周りに居た兵士たちが不思議そうな顔をしてアメリアを見ている。


「うん。僕から見たらアメリアはどこからどう見てもおばさんじゃない? こっちの聖女様はまだ若いし、すっごく綺麗だから変な感じ! おばさんでも聖女ってなれるんだね!」


 ニコニコしながらそんな事を言うノアは、完全に無垢な子供の様だ。


 だが、的確にアメリアの精神をゴリゴリと削っているのは誰の目にも明らかだった。


「……嫌な攻撃の仕方するわね……相変わらず」

「無垢で素直な感じで言われると余計キツイな、この攻撃は……」


 思わず漏らしたキャロラインにルイスも思わず呟くが、有効と言えば有効である。冷静さを失って暴走してくれれば、そんなアメリアを見て目を覚ます兵たちも居るはずだろうから。


 そこを一気に向こうに送り返す作戦なのだろう。そしてこの情報をノアに与えたのは、間違いなくアーロである。


「上手く使うな、ノアは」

「っすね。アメリア、やっぱあれが一番コンプレックスなんすね」

「ああ。金や地位や名誉は手に入っても、年齢だけはどんなにあがいてもどうにもならないからな。あの女は異常なほど若さに執着してた。つまり、そういう事だろ」


 淡々と言うアーロにオリバーはコクリと頷いた。


「っすね。でもコンプレックス揺さぶるだけじゃあっちを崩すのは難しくないっすか?」


 誰だって、どんなに冷静な人間だって、コンプレックスを他人に指摘されるのは嫌なものである。それはもう、今のアメリアを見れば一目瞭然だ。


 けれど、それだけ短絡的な人間に果たしてこんな人数の兵が従うだろうか?


 首を傾げたオリバーに、アーロが薄く笑った。それを見て気付く。ノアは、他にも何か切り札を持っているのだという事に。


「ノアってば、あなたも同じ歳なのに。じゃああなたはおじさんなの?」

「そうだね。年齢的にはそうかも。でも、見た目がね、僕と君では……ねぇ?」


 嫌味っぽくアメリアを上から下まで見て鼻で笑ったノアを見て、アメリアはとうとう笑顔を消した。

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