第三百六十五話 初めての人間界

 やっぱり窓から離れようとしないアリスにキャロラインが困ったように笑みを浮かべると、ルイスも同じように苦笑いを浮かべている。


「もういっそ、しばらく部屋を代わってやろうか?」


 呆れたようなルイスの言葉にトーマスは驚いたような顔をしたが、次の瞬間には噴き出した。


「ルイス様がそんな事を仰るなんて思ってもみませんでした。アリス様、良かったら私の部屋を提供しましょうか? 私の部屋からでも森は見えるので」

「……うん」


 生返事をしながらもアリスは窓の外を凝視していた。


 と、その時、木の陰に隠れて何かがこちらに向かってくるのが見えた。そんな事は知らないノアが、さらに窓に齧りつくアリスの首根っこを捕まえるて説得しようとしたその時、


「皆ありがとう。ほらアリス! いい加減にしないと皆に迷惑がかかるから――あ! ちょ、こら! アリス⁉ アリス~~!」


 アリスはスルリとノアの手を擦りぬけ、はめ殺しの窓を突き破って窓から飛び出して行ってしまった。皆は呆然として窓の外に視線を移す。


「……相変わらず早いな」

「あの子……とうとう頭で窓を突き破ったわよ」 

「……ごめん、弁償するね」

「いや、構わん。それは構わんが……」


 そう言ってルイスはチラリと窓を見てゴクリと息を飲んだ。


 森が見える唯一の窓は、はめ殺しの上に普通の窓よりも数倍分厚く出来ていて、殴ったぐらいでは割れないようになっている。


「もしもねぇ~今度ループしたらさぁ~パワーの部分はもう少し控えめにってシャルル様に言っておこうよぉ……」


 はめ殺しの分厚い窓ガラスを突き破る頭なんて、一体どうなっているのか。


「……見なかった事にしておいてあげてくれると嬉しいな」


 ポツリと言ったノアの言葉に、皆は無言で頷いた。

  

 部屋を飛び出したアリスは、一目散に駆けていた。月明かりに照らされて、二人の人物と一匹の大きな狼がこちらに向かって笑いながら歩いて来る。レスターだ。


 レスターは、アリスを見つけるなりピタリと足を止めた。そして、一瞬の間の後、嬉しそうに駆けて来る。


「アリス! 迎えに来てくれたの⁉ 僕が帰ってくるってよく分かったね!」

「レスター! 心配したよ! どこで何してたの⁉ スマホは⁉」


 お互いに走り寄ってがっしり抱き合うと、次の瞬間レスターはアリスのおでこから流れる血を見てギョッとした。


 それを遠目に見ていたカライスも慌てて走り寄ってきて、やっぱりアリスのおでこを見てギョッとしている。


「お、おい、でこから血が出てるが……」


 思わず呟いたカライスの言葉に、アリスはきょとんとして袖でおでこを拭ってニカっと笑った。


「大丈夫大丈夫! 舐めときゃ治るから! 君がエントマハンター?」

「そ、そうだけど……舐められないだろ、そんなとこ」


 そこまで言ってカライスはさっきのレスターの言葉を思い出した。レスターはこの少女をアリスと呼んでいた。そうか、これがアリスか。


「思ってたより緑じゃない! ツヤツヤじゃん! 宝石みたいにピカピカじゃん! これじゃあ擬態できないよ!」

「いや、俺達別に擬態する為にこの色って訳じゃないんだけど……レスター、治療しなくていいのか?」

「は! そうだった! アリス、おでこまだ血が出てるからちょっと薬塗っとこ? いや、その前に止血が先⁉」


 ドクドクとおでこから血を流すアリスの傷口をとりあえずレスターはハンカチで抑えた。そもそもどうしてこんな事になっているのか。レスターとカライスが顔を見合わせて首を傾げていた所に、校舎からゾロゾロと見慣れた仲間たちが走って来た。


「レスター! よく戻ったな!」

「ルイス様!」


 レスターは嬉しくてルイスに駆け寄ろうとしたが、やはりどう考えてもアリスの治療が先である。そこにノアとキリが駆け寄って来た。


「レスター王子、ごめんね、ありがとう。アリス! ダメでしょ⁉」

「お嬢様、本当にいい加減にしてくださいよ?」

「ごめんなふぁい……」


 ノアに両頬を引っ張られ、キリからゲンコツを食らったアリスはレスターからハンカチを受け取ってしおしおと集まった皆の後ろに隠れた。あちらでもアリスは懇々とキャロラインに叱られている。


 そんな様子がおかしかったのか、ふとカライスが噴き出した。


「面白いな、レスターの仲間は。はじめまして。エントマハンターのカライスだ。俺達の力が必要だと聞いてやってきた。訳あって仲間たちは後から来るが、その時はよろしくお願いしたい」


 そう言って手を差し出したカライスの手を、ルイスがしっかりと握った。


「こちらこそすまなかったな、迎えも出さずに失礼した。ルーデリア王子、ルイス・キングストンだ。わざわざ妖精界からこちらに来るのは大変だっただろう? 疲れていないか? レスターもヴァイスも、カライスの胸元に居る小さな友人も、温泉にゆっくり浸かってくるといい。着替えと部屋と食事はすぐに用意させよう。今日はゆっくり休んでくれ。話は明日、ゆっくり聞こう。本当にありがとう」


 にっこりと微笑んだルイスにカライスは無言で頷く。


 肌の色の事など何も言われないどころか、まさかこんなにも手厚く歓迎されるとは思っても居なかったカライスだ。何だか妖精界で起こっていた事と同じ事が起こっている。それを実感したカライスは、さっきから怯えたようにカライスの胸に下げられているペンダントに捕まって動かないロトの羽根を軽く引っ張った。ロトは人間に捕らえられていた期間が長い、やはり怖いのだろう。


「ロト、この人達はレスターの仲間だ。怯えなくても大丈夫だ」

「ほ、ほんとか? 何かすげー強い生命力感じるんだけど」


 羽根がビリビリする程の強い力を感じたロトは、カライスの胸から下げたペンダントにしがみついて顔を上げようとしない。


「あ、多分それ、アリスだと思う。大丈夫だよ、ロト。アリスは妖精達にはちょっと怖がられるけど、凄く優しくて強いんだ。ロトもすぐに仲良くなれると思うな」

「ほ、ほんとか? 捕まえない? 羽根もがない?」

「ちょっと~! そんな事しないよ! どっかの誰かさん達と同じにしないでよね~」


 アリスはそう言って怯えるロトを覗き込んだ。ロトはアリスの声に安心したようにゆっくりと顔を上げ、アリスの顔を見るなりヒッと息を飲み、次の瞬間。


「ぎゃーーーーー! お、おばけーーーーー!」


 ポトリ。


 ロトはアリスの血濡れた顔面を見るなり、意識を失って地面に落ちてしまった。そんなロトをレスターが慌てて拾ってあわあわしている。


「た、大変だ! と、とりあえず至急部屋を用意させよう! レスター、ついてこい」

「は、はい! カライスも行くよ!」

「お、おう」


 何だかよく分からないが走り出したレスターにカライスはついて行く。背後ではアリスがまた、仲間たちにこっぴどく叱られていた。噂通りの変な女だ。


 でも、思っていたよりもずっと、楽しそうだ。

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