第百八十二話 すれ違った二人+オマケ

 そこまで言ってレイは堪えていた涙が浮かんでくるのを感じて、慌てて空を見上げた。こうすれば涙は零れないだろうから。泣いてはいけない。自分は泣ける立場ではない。


「でも違ったのね。私のした事は、あなたのプライドに傷しかつけなかった……。あなたが私を嫌いでもいい。もう二度と顔も見せるなって言うなら……我慢する。でも、消しゴムだけは協力させて欲しいの。あれは、きっと誰にとっても役立つ物だと思うから……。それから……今まで、本当にごめんなさい」


 レイは最後までちゃんと涙を堪えて話す事が出来た。


 ゴシゴシと服の袖で涙を拭ったレイの髪にジャスパーがそっと触れてくる。それに驚いたレイが慌てて顔を上下げると、ジャスパーの青い目と間近でかち合った。


「⁉」

「葉っぱついてる。どこ通ったの。それよりも、君はこんなにも小さかったかな?」


 ジャスパーはそう言ってレイのあちこちについた枯葉を一枚一枚取りながら呟いた。


 レイの頭はジャスパーの首の辺りまでしかない。昔はもっと大きかったような気がするのに。


「それに、こんなにも華奢だったっけ?」


 肩なんてびっくりする程薄いし、腕だって足だって折れそうな程華奢だ。


 そんなジャスパーの言葉にメルは顔を真っ赤にして拳を握りしめる。


「そ、そりゃ私だってもっと豊満な体になりたいけど! お母さまもスペアリブみたいだし、しょうがないじゃない! 遺伝よ!」


 力強く叫んだレイに、ジャスパーは堪えきれなくて噴き出した。


「スペアリブだなんて、酷い娘だな。いいじゃないか、僕はスペアリブ大好きだよ」

「え⁉」


 多分そういう意味じゃない。ジャスパーは純粋にスペアリブが好きだと言っているだけだ。


 けれど何故か頬を染めたレイを見て、ジャスパーは慌てたように言う。


「ち、違う! スペアリブが好きなだけで、君の事じゃないから!」

「わ、分かってる! 言われなくても分かってるわよ! でも、私はずっとちっちゃい頃からあんたの事が好きなのよ! はっ!」


 完全に売り言葉に買い言葉である。


 思わず本心を叫んでしまったレイは慌てて口を押えたが、もう遅い。ジャスパーの後ろではウィルが嬉しそうにこちらを見守っているし、屋敷の扉の奥からは騒ぎを聞きつけた職人達やその妻たちがニヤニヤしてこちらを見ている。


 ただ一人、目の前のジャスパーだけはまだメルの言った事が理解出来ないようにポカンと口を開いたままだ。


「う、嘘! 今の嘘だから!」


 急いで否定しよとしたレイの後ろから、からかいを含むようなカインの声が聞こえてきた。


「嘘じゃないでしょ~? ていうか、いつ俺達の事追い抜いたの?」

「レイ様、馬を走らせすぎだよ。凄い汗かいてるじゃない、可哀相に」


 オスカーはそう言って汗でぐしょぐしょの馬をハンカチで拭いてやっている。


「ヒューヒュー! いいね~いいよ~! こういう展開、大好物だよ~~」


 そんな中、アリスは二人を見上げてニヤニヤしながら笑いを噛み殺し、親父のようなからかい方をした。自他共に認めるカップリング厨である。何ならこの後抱きしめ合ってキスの一つでもしてほしいぐらいだ。


「お嬢様、趣味が悪いですよ。さあ、屋敷に入りましょうね」


 野次馬を決め込もうとしているアリスの首根っこを掴んでキリが引きずるように屋敷に戻って行く。最後にノアがレイに近寄って一言。


「レイさん、書類ちょうだい?」

「え? あ、はい」


 突然のノアの言葉に冷静さを取り戻したレイは、胸ポケットからサインをした書類をノアに渡した。すると、ノアは中身を確認してそのままカインを連れて屋敷の中に消えていく。


 すれ違いざま、続きは二人だけでどうぞ、という言葉を残して――。




オマケ『幼馴染からその先へ』



 ジャスパーにはノアの言葉はまるで聞こえていなかった。そんな事よりも、レイの口から発せられたセリフの方が重大だったからだ。


 ずっと小さな頃からレイに虐められてきた。もちろん忘れた訳じゃない。傷ついた事も沢山あった。それを全て無かった事には出来ない。


 けれど、心のどこかでレイの言葉を嬉しく思う自分も居る訳で……。


「あ……えっと……嘘? いつもの意地悪、かな?」


 まるで何かを確認するかのようなジャスパーにレイは躊躇いがちに俯いて首を横に振った。


「い、意地悪をしてたつもりはないの。でも、あなたが持ってる物、何でも私も欲しかったの。あと、嫌味とかも全部、その……恥ずかしくて素直に言えなくて……だって、私、フルッタの果物大好きだもの。そ、それとね、もう一個謝らないといけなくて……」


 レイは下唇を噛んで、また拳を握りしめて自分に言い聞かせる。


 勇気を出せ、レイ。素直になれ、レイ。


「よ、余計な事かもしれないって思ったんだけど、その、フルッタを出た職人達、じ、実は皆、その、今もイフェスティオでガラス工房をね、や、やってるの」

「はぁ⁉」


 予想もしていなかったレイの言葉にジャスパーは思わず声を上げた。


 昨日の夜、出て行った者達を呼び戻そうとウィルと職人達に相談したのだが、出て行ってしまった者達の行方を誰も知らなかったのだ。だからジャスパーは余計に凹んでいた。皆、また必ず戻ると言ってくれていたけれど、あれはやっぱり社交辞令だったのだなと思っていたのだ。 


 それをレイは今何て言った? 全員イフェスティオに居る? 今もガラス工房をしている?


 あまりの事に言葉を失ったジャスパーはレイを凝視した。それを責められていると受け取ったレイは、すっかりしょげ返って俯いて、さらにポツリポツリと話し出す。


「皆、一時イフェスティオに籍を置いている状態でね、いつでもフルッタに戻れるようにしてあるの。それに、腕も訛ったら困るでしょ? だからね、ガラス工房をうちにも建てたのよ。あの……ごめんなさい、余計な事し――きゃっ!」


 言い終わらない内に、レイの体が宙に浮いた。何事かと驚いた時には、両足はきちんと地面についていて、気付けばジャスパーに正面から抱きしめられていて、ようやく自分がジャスパーに抱き上げられたのだと理解した。


「ジャ、ジャスパー? お、怒ってないの?」

「怒るもんか! どうして君はいつもいつも大事な事を言わないんだ!」


 ジャスパーはこれでもかと言う程レイを強く抱きしめた。懐かしいレイの香りに、ずっと忘れていた事を沢山思い出す。


 火山の噴火を二人で興奮しながら見た事、秘密の花畑で暗くなるまで花冠を作った事、露店で売っていたガラスで出来た小さな指輪を、お互いの目の色の物を買って交換した事、雷が苦手なレイと共に眠った事、両親が亡くなった時、誰よりも大声を上げて泣いてくれた事。


 レイはいつもジャスパーに嫌味を言う時、耳まで真っ赤にしていたじゃないか。そっぽを向いて、顔を覗き込もうとすると怒られたじゃないか。あれは、全部レイが言うように、ただ照れていたのだとしたら……。


 何よりも、ジャスパーもそんなレイをずっと可愛いと思っていたじゃないか。


 何故、ずっと忘れていたんだろう? 


「あの指輪、まだ持ってる?」


 ジャスパーが尋ねると、腕の中でレイが頷いた。


「ずっと持ってる」


 そう言って胸元から鎖に繋がれた青い指輪をジャスパーに見せると、ジャスパーは嬉しそうに微笑んだ。


「あなたは?」

「どうだったかな? もしかしたら捨ててしまったかも」


 そんな事を言うジャスパーにレイは一瞬傷ついたような顔をしてすぐに俯いてしまう。


「嘘だよ。ちゃんと引き出しに仕舞ってる」

「酷い!」

「仕返しだよ。これぐらい、許してよ」


 ジャスパーは目を吊り上げたレイをもう一度抱きしめると、そっと頬に唇を寄せた。子供の頃以来の可愛らしいキスに、レイはまた驚いている。


「こ、これも仕返し?」

「ううん。これは仲直りのキス」


 笑ったジャスパーに、レイも恥ずかしそうに笑った。何となくお互いに気恥ずかしくて、でもまだ離れたくなくて。


 どちらともなく頬を寄せ合って、今までの事なんてまるで遠い昔の事だったように笑いあった。


「消しゴム、協力してくれるの?」

「もちろん! あなたの夢が、いつだって私の夢だったから」

「……ありがとう、レイ」

「うん!」


 子供みたいに笑ったレイの唇に、ジャスパーはそっと軽いキスを落とした。それを受けてレイもまたゆっくり目を閉じる。


 きっと何年後かに、フルッタとイフェスティオは統合するだろう、そんな事を考えながらジャスパーはもう一度、レイにキスをした――。




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