16話:恋を知らない貴女に教えてあげたいこと
初めて恋をした相手は同性だった。
何かの間違いだと自分に言い聞かせているうちに、彼女に異性の恋人が出来た。わたしはそれを素直に祝福出来ず、彼女に冷たい態度を取ってしまい、彼女とはそのまま仲直り出来ずに仲違いをした。
二度目の恋も同性だった。一つ上の部活の先輩だった。ある日、彼女の方から私に好きだと告白してきた。最初は戸惑い、否定の言葉を投げかけたが彼女は怯まなかった。真っ直ぐに私の目を見て『今はもう同性同士の恋はおかしいって時代じゃないでしょ』と言い放った。謝罪はしたものの、わたしも同性に惹かれる
周りの目を気にしながらの交際で、それが窮屈だと感じたこともあったが、それ以上に幸せが勝った。
だけどある日、彼女との交際が母親にバレた。彼女はわたしを誑かした不良だと母に責められた。違うと必死に説得したが母は聞き入れてくれず、彼女も一緒になって説得してくれていたが、母に何かを囁かれると、わたしを誑かした罪を認めてわたしの前から姿を消した。後から知ったが、彼女の父親はわたしの父の会社のグループ会社に勤めていたらしい。別れないと父親をクビにすると脅されたのかもしれない。役員でもなんでもない、ただの会長婦人の母にはそんな権限はないが、おそらく彼女はそんなことは知らない。
彼女と別れた後母はわたしに、恋愛は男女でするものだと説いた。憧れを恋と勘違いしてはいけないと。しかしわたしはどうしても男性に魅力を感じることが出来なかった。自分が同性愛者である事実をどうしたって覆せなかった。だからせめてその事実を隠す努力をしてきた。なのに…
「私、男の人好きになれないから」
鈴木さんという、バンド仲間の空美の従姉妹の女の子が、何気ない会話の中でサラッとそうカミングアウトをした。それに対して首を傾げたのはその場で一人だけで、同性愛者であることをカミングアウトしたにも関わらず、空気が気まずくなることはなかった。バンド仲間のきららは、彼女があまりにも堂々としすぎていてそれがカミングアウトいうこと自体に気づかなかった。
「だって、こういうのってもっとこう…深刻な空気になるもんだと思ってたから…」
「…そうね。普通は言いづらいと思う」
すると彼女はこう言った。
「私も初めて人に打ち明けた時は凄く緊張しましたけど…初めてカミングアウトした人が『それは大したことじゃないよ』って、気付かせてくれたので。そもそも恋愛観って人それぞれで、他人が口出しするものじゃないですし。未成年に手を出したとなると犯罪になってしまいますけど…」
人に恵まれているからそんな綺麗事を言えるのだ。わたしと同じように否定され、唯一の味方は双子の兄の柚樹だけで、愛した人にさえ見捨てられていたらそんな綺麗事言えるわけがない。
「…そう。…人に恵まれてるのね、貴女」
「『私が私を否定したら私を愛してくれる人が悲しんでしまう』と思えるくらいには恵まれまくってますよ」
嫌味に対してへらへらと笑いながら応える彼女に激しい苛立ちと嫉妬を覚えた。わたしみたいに苦しめば良いと思った。
少し観察すれば、彼女が小桜さんというクラスメイトに惚れていることはすぐにわかった。本人に確認するとあっさりと認めた。
「いずれ私の彼女になるんで、手出しちゃ駄目ですよ。先輩」
鈴木さんにはそう釘を刺されたが、わたしは小桜さんを呼び出して彼女にキスをした。彼女の知り合いがその場面を目撃するようにタイミングを見計らって。その知り合いが誤解をして噂にでもしてくれることを期待したのだが、彼女はあまり動じなかった。
「ユリエル、返してもらいますね。この子、うみちゃんのなんで」
「…あら、付き合ってないって聞いたのだけど」
「まぁ…今は付き合ってないって言ってますけど、ほとんど付き合ってるようなもんですよ。だから、あんまちょっかいかけないでやってくださいね」
ここでやけになり、彼女を引き止めて小桜さんにちょっかいをかけない代わりに貴女が相手をしてくれと脅かしたのが間違いだった。彼女はしれっとした顔で「別に構いませんよ」と答えたのだ。呆れてため息が溢れた。意味が分かっていないと思ったが、分かっていて言っていると彼女は答える。動揺してしまうと、彼女はふっと笑って私の耳元でこう囁いた。
「私もちょうど、寂しさを紛らわせる相手が欲しかったんです」
それはただ、わたしの言葉を冗談だと判断して揶揄い返しただけだと解釈した。
昼休みに彼女を呼び出して、今朝のあれは冗談ではなく本気だったんだという雰囲気を出すが、彼女はやはり動じない。
「…動じないわね」
「言ったじゃん。別にセフレになってあげて良いって。けどさ、学校でするってリスク高くね?見つかったら退学っすよ」
どこまでが冗談なのか分からなかった。
「…それでもしてる人は居るわ。自主練をするからって言って部室の鍵を借りて」
「ふぅん?それってあんたのこと?」
「…えぇ。そうよ」
わたしに怯える彼女が見たい。それだけだった。別に本気で彼女をここで抱くつもりはなかった。しかし彼女は誘うように、わたしの頰に手を触れてきた。そしてそのまま顔を近づけてくる。思わず離れようとするがぐっと頭を引き寄せられる。顔を逸らして彼女の身体を押して抵抗の意を示すが、びくともしない。わたしより小さなその身体のどこにそんな力があるのだろうか。
「…私のこと、抱いてくれんじゃないの?先輩」
吐息を交えた声で、彼女はわたしの耳元でそう囁く。そして揶揄うようにこう続けた。
「抱かれる方が好きですか?私は別にどっちでも良いですよ」
自分から仕掛けたことを後悔した。ただ、怯える彼女が見たかっただけなのに反撃されるなんて思わなかった。悔しさと情けなさで涙が溢れた。すると、わたしの腕を拘束していた力が弱まる。
「…冗談っすよ。別に嫌がる女を無理矢理犯す趣味とかないんで安心してください。何もしません」
そしてわたしにハンカチを渡して少し離れて座り「怖がらせてごめんね。先輩」と苦笑いしながら謝る。その代わり様に戸惑う。どっちが演技なんだ。分からない。
「…なんなんですか…貴女」
「今朝も言った通り、あんたのファンです。…あ、名乗りましたっけ。月島満っていいます」
「…一条実よ」
「知ってます。改めて、わざわざ音源の抽出ありがとうございました。あれって、外で撮ったの?」
なんなんだ。何故普通に会話が出来るんだ。
「…」
「…」
黙って返事を待つ彼女。やがてわたしが折れ、入り口近くの机の上に置いた弁当を持ってきて彼女に弁当を渡し、少し離れて座る。
「学校の中庭で。…たまたま通りかかった鈴木さんの好きな彼女に頼んで撮ってもらった」
「へぇ。…自然の音とあんたのヴァイオリンの相性最高でしたよ。…めちゃくちゃ良かったっす」
何故わたしも普通に会話しているんだ。犯されそうになったというのに。いや、違う。あれは本気じゃなかった。ただ、わたしがしたように脅かそうとしただけだろう。仕返しにしてはやり過ぎだと思ったが。
「…貴女、見た目のわりにヤンキーみたいな喋り方するのね」
「よく言われます。見た目と中身のギャップが激しいって」
「タバコ吸ってそう」
「よく言われるけど、吸ってねぇっすよ。酒も飲んでない。少なくとも、部室に女連れ込んで鍵かけて如何わしいことしてるあんたよりは真面目っすよ」
「…してないわ。冗談よあれは」
「…分かってます。私さ、あんたと話がしてみたかったんだ。あんたのヴァイオリンを聴いた日からずっと、あんたが気になってた」
だからホイホイとついて来たと言うのだろうか。なんなんだほんとに。何を企んでいるんだ。急に優しくしたのはわたしを落とすためか?
「…なんですか?告白ならお断りします。わたしは貴女のような人嫌いです」
「別に、あんたを私のものにしたいなんて言いませんよ。…私ね、恋が分からないんです。誰かを独り占めしたいとか、自分だけを見てほしいとか、一緒に居るとドキドキするとか…そういうの、私にはないんすよ」
寂しそうに語る彼女。その顔は演技ではない気がした。兄の柚樹もよく同じことを言っている。彼に恋人は居ないが遊び相手は何人も居る。割り切った関係しか築けないらしい。一人の人間だけを愛する人の気持ちが理解できないそうだ。とはいえ、遊び相手の女性達を物のようにぞんざいに扱う訳ではなく、友人と同じように大切に扱う。だから惚れられてしまうことも多いが、彼にはその気持ちが理解出来ない。応えられないと断るとクズだと罵られることに対して『理不尽だよね』とよくわたしやメンバーに愚痴を言ってくる。今目の前にいる彼女も彼と同じ人種なのだろうか。
「…わたしからしたら羨ましい限りです。…恋なんて感情は煩わしいだけですから…麻薬に例えられる通り、危険な感情ですよ。…恋をすると人は冷静な判断が出来なくなる」
恋心なんて、人間にとって不必要だ。それを持たない兄や彼女が酷く羨ましい。恋はしたくないと思っていてもある日突然向こうからやってくる。抗えない。そして相手は選べない。こんなの呪いだ。
「…あげられるものならあげたいですよこんな感情」
羨ましいのなら渡してやりたい。恋の苦しみを味わえば恋を知りたいと思ったことを後悔するだろう。あの痛みはわたしはもう二度と味わいたくはない。
「…似たようなことを友人に言われたことがあります。…今のあんたはあの時の彼女と同じ顔をしている」
わたしを可哀想だという目で見る彼女。
「…そうですか。私をその友人と重ねて、同情してるんですね」
その顔が、あの時の母と重なる。不快極まりない。
「…多分そうですね。…不快ですか?」
「えぇ。…この上なく不快です」
「なら、私は教室に戻ります」
そう言って彼女は立ち上がろうとする。わたしの手は、わたしの意思と反して彼女を引き止めた。何故止めたのだろう。
わたしも彼女に同情しているのだろうか。
彼女は戻ってきてわたしの隣に距離を詰めて座った。
「…おかず交換します?」
「…結構です」
「庶民の食べるものなんて口にできませんわ!って?」
「…どうせほとんど冷凍食品でしょう」
「多少は手作りしてますよ。卵焼きとか」
彼女の弁当箱の卵焼きを見る。焼き目が綺麗だ。ガサツそうなのに。焦がしそうなのに。上手く巻けなくて諦めてスクランブルエッグにしそうなのに。いや、彼女が焼いたわけではないかもしれない。そう思ったが、彼女はわたしのその思考を否定した。
「ちなみに、私が焼いてます。あんたはお嬢様だから料理とか一切しなさそうっすね」
それは嫌味か?…まぁ、事実だが。
「…そうね。お弁当は使用人が作ってくれます」
「ははっ。贅沢な暮らししてんなぁ。包丁握ったことあります?てか、台所入ったことある?」
「…包丁は危ないので持たせてもらえません」
冗談のつもりだったのにと目を丸くする彼女。そう。驚くほど過保護なのだ。わたしの母は。逆に兄の柚樹は放任されている。わたしに注がれる過剰な愛を半分兄に分けてやりたい。
「マジか…あ、指怪我するといけないから?」
「…貴女は毎日どこかしら怪我してそうね」
「流石に毎日はねぇよ。あー…でも小学生ぐらいの頃はよく骨折ってましたね。木登りして落ちたりして」
「…木登りって…貴女、猿みたいね」
「あははっ。実さんは木登ったこと無さそう」
嫌味が通じない。空美みたいだ。そういえば従姉妹の鈴木さんもこんな感じだった。やはり類は友を呼ぶのだろうか。
「…ある方が珍しいと思いますが」
鈴木さんは一緒になって木登りしてそうだ。空美は…見た目からは想像付かないが意外とやんちゃだ。登っているかもしれない。
「今度一緒に登ります?」
「結構です。遠慮します」
そんなはしたないことは出来ない。
「大丈夫っすよ。私が背負って登るんで」
「…貴女、本当に人間ですか?」
別に傷付ける意図は無かったが、その言葉は地雷だったのか彼女はどこか辛そうに笑う。
「人間ですよ。…普通の人間です。あんたと同じ」
「…そうね」
兄の柚樹は恋愛をせずに遊び歩いていることに対して周りから"人の心が無い"だとかよく言われている。彼女もそうなのだろうか。
「…失礼なこと言ったわ」
そんなつもりはなかった。だけど、傷ついたかもしれないなら謝罪すべきだと思う。素直に謝罪すると、彼女は一緒驚いたように目を丸くして、そして柔らかく笑った。優しい表情に、不覚にも胸が高鳴った。
「…実さんは誰かに恋したことあるんすよね?」
「…中学生の頃、付き合っている女の子が居たわ」
「へぇ」
「…貴女は私の兄に似ているわね。恋をしない。だけど寂しがり屋で、寂しさを紛らわすためだけに女性を抱く。女性であれば誰でもいい。…貴女もそうなのでしょう。…だから私に優しくするのかしら」
そうだと言ってほしい。ただ、下心があるから優しくしているだけだと。最低だと罵らせてほしい。
「…別にヤりたいから優しくしてるわけじゃないっすよ。むしろ、誰でもいいからこそそんな面倒なことしない。だって、惚れられた女に手出して執着されたら面倒じゃないっすか」
あぁ、やはりこの子は兄と同じだ。誰でもいいけど—いや、むしろ誰でもいいからこそ—人の恋心を利用しない。
「…そう。やっぱり貴女、兄と考え方が似てるわ。気が合いそうね」
「…そうっすよ。私は誰でも良いんすよ。だから嫌がる人にわざわざ迫ったりはしません。トラブルを起こすのは面倒なんで。…私があんたに付いてきたのはあんたと話をしてみたかったからです。あんたに対する感情の正体を知りたかったから」
「…そう。…それで、何か分かったの?」
何を聞いているんだわたしは。何を期待しているのだ。
「…ドキドキするのは、あんたの演奏に対してであって、あんた個人じゃないってのは分かりました。でも…あんたのこともっと知りたいって気持ちはあります」
わたしのことを知りたい。その言葉に心臓が高鳴る。
「…貴女、恥ずかしい人ね」
「…空美さんとどっちがキザですか?」
「…変わんないわよそんなに」
「ふぅん。ということは私のことはそんなに嫌いじゃないんだ」
「…どうしてそういう発想になるのかしら。おめでたい人ね」
わたしはもう誰も好きにならない。なりたくない。なのに恋は向こうから突然やってくる。なんの前触れもなく、ある日突然。抗えない。
「…等価交換よ」
自分の弁当箱の卵焼きと彼女の弁当箱の卵焼きを交換する。
「…
「…キャビアよ」
「…マジか。人生初キャビアだわ」
「…食べたことないの?キャビア」
「逆に、卵焼きにキャビア入れる家庭ってなかなかないと思います。高級食材だろ?キャビアって」
「…そうだったわね」
「そうだったわねって」
気に入らない。その優しい笑顔が気に入らない。その顔にときめく自分の心臓が。だったらいっそ…
「…付き合っていた女の子とは、親に別れさせられたの」
自身の過去を全て彼女に打ち明け、自ら心を開いてみせる。
「…知りたかったんでしょう。わたしのこと。お望み通り教えてあげたわよ」
「…ありがとうございます」
「…貴女のことも教えなさい」
「私のことっすか?私のことはもう大体話しましたけど…」
わたしが心を開いてみせると、彼女は喜んで距離を詰めてきた。
「…ねぇ、実さん。明日暇?デートしません?」
「…貴女、恋はしないとか言いながらぐいぐい来るのね」
連絡先の交換にも、デートの約束にも応じる。
「実さんやっぱ私のこと嫌いじゃないでしょ」
「…第一印象よりはマシになったわね」
「あ、認めるんだ」
マシになっただけだ。好きになったわけではない。
恋は麻薬だ。恋をすると冷静な判断が出来なくなる。それ以外のことを考えられなくなる。人間にとって、不必要な感情だと私は思う。だから私は二度と恋をしないと決めた。
だけど無駄だ。恋はするものではなく落ちるものだから。誰かに恋をしたって無駄だと、辛いだけだと分かっても、ある日突然向こうからやってくる。なんの前触れもなく。相手は選べない。そして抗えない。
「…わたしは教室戻るから。…鍵、職員室に戻しておいてください」
気に入らない。こんな感情気に入らない。わたしは抗ってやる。そして恋の苦しみを知らない貴女も気に入らない。
だから、教えてあげよう。恋という感情がどれほど苦しいものかを。そのためにわたしは敢えて距離を詰める。そうして、貴女がわたしにどうしようもないくらい惚れてしまったら、耳元でこう囁いてやるんだ。わたしは最初から、貴女が嫌いだったと。貴女を苦しめるために近づいただけだと。貴女をとことんわたしに惚れさせて、そして捨ててやる。
貴女も恋に苦しめば良い。わたしのように。
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