カスタードを炊く

砂山一座

第1話 カスタードを炊く

 ここの冬は、東北の冬よりも寒い。

 蛇口は破裂するし、隙間風も入る。

 学生時代の盛岡の冬は良かった。

 気密性の高い寮の部屋は、暖房の効きもすこぶる良く、外でしんしんと雪は積もるが、二重の窓は部屋の空気を繭のように温めてくれる。


 とはいえ、今の安いアパートでの暮らしに、何ら不満は無かった。

 自由こそが宝だったから。

 そこには不満はないが、この寒さといったら。

 空気が乾燥しているはずなのに、分厚い靴下は湿り気を帯び、いつもより重く感じられる。

 窓から見える車のフロントガラスにはうっすらと霜が降り、その見た目からもどんどん体温を奪われる。

 キッチンへと続く昭和の名残のガラスの引き戸は、機嫌がいい時は音も無く開くのに、今日に限ってイイイ……とふざけたような音を立てる。

 こんな夜は、ラム酒でも温めて飲むに限る。

 何だったらスパイスを煮立ててチャイにたっぷり洋酒をいれてやろうか。

 いやいや、すきっ腹にそれば拙い。


 小さな小さな一人用の冷蔵庫を開ければ、ちくわに豆腐、卵と牛乳。

 野菜もあるにはあるが、今から水を使うのは億劫だ。

 腹の足しにはならない、調味料ばかりは何種類も入っている。

 絵にかいたような単身者の冷蔵庫ぶりに少し落胆しつつ、片足でもう片足のつま先を擦りながらしばしメニューを考える。

 考えつかないから鍋の入った引き出しを開けたり閉めたりしていると、昭和な絵付きのミルクパンが目に入る。

 どうでもいいような理由で買った割に、琺瑯が丈夫で捨てるに捨てられずにいたミルクパン。


(そうだ、カスタードを炊こう)


 カスタードを「炊く」とはこれ如何に?

 作るでも、煮るでも、火を通すでもなく、炊く。

 他国でもそういう表現をするのだろうか?

 調べてみたが、makeかcookの表現しか見つからなかった。

 そもそも英語ではカスタードだけでは不完全なのだ。

 カスタードのクリームなのか、ソースなのか、ケーキなのか、プリンなのかはっきりさせなければならない。

 日本の卵豆腐だってカスタードの一種だと知り驚いた。

 カスタードを炊く……。

 暗にカスタードクリームを差し、豆や米の様に炊くという表現を採用したとは、なかなか美しい日本語ではないか。

 ……等と、文豪気取りの独白をしながら、卵と砂糖を混ぜていく。

 グラニュー糖は無いから、三温糖でも構わない。

 白い鶏のひよこのような炊きあがりにはならないが、チャボのひよこ色だって愛らしいじゃないか。

 独身者に丁寧に卵白と卵黄を分ける選択はない。

 全卵にたっぷり砂糖を入れて、無心で攪拌する。

 夜着の上から纏った雑貨屋で買ったモダンな柄の半纏は、予想を裏切る寒さだ。

 どうしてあの時の私は、これの代わりにダウンコートを買わなかったのだろうか。

 思わず体を温めるために箸を握る力が増す。

 小麦粉は混ぜ過ぎない、小麦粉は混ぜ過ぎない……呪文のように唱えて箸を止める。

 レンジで牛乳を温め、注ぎ入れる間際でマグカップを手で包みしばし暖を取る。

 ホットケーキの生地のようなそれに、牛乳を加えようとしたが、どうやら私の手に温度を取られて、牛乳がぬるくなってしまったようで、もう一度レンジにかけなければならない。


 さて、いよいよ火にかける。

 独り暮らしを始めたばかりで、家財道具は色々なものが寄せ集めだったが、木べらばかりは、新品の一張羅で、まるでカスタードを炊くためだけに存在しているように見えて誇らしかった。

 底を焦げ付かせないように丁寧に混ぜていくと、どんどん木べらが重みを増していく。

 これがカスタードの醍醐味であろう。

 ぐるぐると混ぜると急に重さが軽くなる。

 この重さの変化こそがカスタードもどきがカスタードになる瞬間だ。

 電気代もケチって手元の灯りだけしかつけていないので、暗闇に白い湯気が立ち上がるのがよく映える。

 自分の息も白いのかと、ふぅっと息を吐けば、薄白く霧になる。

 しまった、バニラエッセンスがあっただろうか?

 冷蔵庫を探せば、いつ使ったのかも覚えていないバニラエッセンスを発掘した。

 

 部屋に満ちる甘い香り。

 ふつふつと、沸き立つカスタード。

 湯気の塊の一つ一つから甘い香りが広がる。

 冷たく冷えた部屋の空気に散りゆく甘い香りを、できるだけ肺を膨らませて吸いこむ。

 甘いなぁ。

 味わうことなく甘みが脳にひろがる。

 きっとこの脳が作り出す幻覚の甘みこそが、カスタードのイデアだ。


 などと馬鹿なことを考えることに時間を使っていないで、出来立ての少し硬めのカスタードをはふはふと頬張る。

 顎の上の皮膚がやけどしそうだが、かまうものか。

 いや、さすがに熱すぎたので、少し冷ますことにする。

 たっぷりのラム酒をかけて。



 **********



 さてさて、今日はだいぶ寒くなってきたし、久しぶりに子どもたちにカスタードを炊いてやろう。

 憂鬱な月曜日で泣いて学校に行った娘も、きっともうすぐ腹を空かせて元気に帰ってくるだろう。

 新しく入った保育園でやっと友達が出来た息子は、とんでもない甘党なのでメニューに文句は言うまい。

 家族用に大きくなった冷蔵庫には、夫の実家から送られてきた卵がずらっと並んでいる。

 単身者ではなくなったとはいえ、卵黄だけより分けてカスタードを炊くなんて、一罰百戒じゃなくて、僭賞濫罰でもなくって、なんだっけ?

 とにかく、そんな勿体ないことはできないのだ。

 卵を琺瑯の鍋のふちにぶつけると、バチンと重い音がする。

 ……あ……これ、茹で卵だ。

 生卵だとばかり思っていたのは、卵パックのなかに詰め戻された自家製の塩卵だったのだ。


 謀られた!!!!


 私はキャッシュカード一枚と買い物袋だけを持ち、マスクで武装し大股で近所のスーパーに向かう。

「おかあさん、どこいくの?」

 丁度帰ってきた娘とすれ違う。

「卵とラム酒を買ってくる」

「ええ? おやつは?!」

「おばあちゃんの塩卵が冷蔵庫に入ってるから! シャワーを浴びてから食べてて」


 今日の夜食はカスタードを炊く。

 ラム酒をたっぷりと振りかけて。

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