香りの王国

 ふわっと香りが鼻をかすめた。


 一瞬の暗転。


 パラパラとページがめくれるような、奇妙な感覚。


 ――!


 あ、また来れた。香りの王国。


 ? これは砂の、香り……?


 羽をきらきらと輝やかせて、妖精が私に囁く。


「灼熱の太陽にさらされた砂は夜には驚くほど――」


 あ、冷たい……!


 !?


 虹色の果実が落ちてくる。くるくると回るその果実は紫に見えたり、橙に見えたり、なんとも不思議だ。


「渇きを潤すのは甘くて冷たい果実酒」


 求めていた味を舌に感じると、なんだか酸っぱいような、キュンと口が窄まる感じがする。実際には酸味は弱くて、とても甘くてとろりとしているのに。疲れが和らぐような甘さ。まったりと甘いのにしつこくない。なんとも丁度いい甘さだ。この甘さにぴったりな芳しい甘い香りが口から鼻にぬけていく。ああ、甘い香りにこんなに酔えるのは久しぶり。


 !?


 甘さが変わった。


 何? これは、何の色なの? 大きな花びらの大きな花。極彩色? いや、違う。香りが強いから鮮やかな色かと思ったけれど、これは眩いばかりの白色の花。肉厚な花びらの中心からまったりとした甘さと少し重みのある渋さが香ってくる。甘さだけでは物足りない。この渋さが甘さをより強調して、滑らかさも出している。一度嗅いだら忘れられないような独特な香りの花。砂の香りにマッチする不思議な花。


「少しの水でも育つ生命力があるのよ。ここで迎えてくれる花なの」


 風にあおられて香ってくる花に混じって樹の香りがしてきた。乾いた少し鼻につんとするような香り。それでいて樹らしい重さはちゃんとある。ほの甘さもある。安心する香り。葉の香りもする。乾いた樹に対して、瑞々しさを感じる爽やかな香りが、ほんの少しだけ。


「この樹も水が少なくても育つの。樹が細いのは養分が足りないから仕方ないわね。葉に少しでも水を蓄えようとするのよ。若い芽のときは、食べることもできるの」


 あ、少し苦味のある、でもスーッとするような爽やかさが口に広がる。そうか。これが感じた爽やかさ。


「さあ、肌にのせてみて!」


 そうだよね。のせてみなきゃ、これは。


 ――!!


 先ほどと同じように底のない井戸に落ちるような感覚。意識を失いそうになる。


 どくんと心臓がはねた。


 ――丸い月。冷たい白銀が空を遠くまで照らす。ラクダがゆっくりと冷めた砂の上を歩く。ラクダにくくりつけた果実酒の香りが砂の香に混じって漂ってくる。月の光に濡れた青い砂丘はなんとも妖艶で、誘うようで、それでいて優しくはない。


 香りが漂ってくる。すぐ近くにオアシスがあるのだ。白い花が月下で幻のように輝いている。ひょろりと背の高い木々が風にゆっくり揺れている。


 そうか、そういうことだったのか。







「ほのか? ほのか? ちょっと、大丈夫? またトリップしてるよ、この子。戻っておいで!」

「……」

「ほのか!」


 がくがくと揺らされて、私ははっと我に返る。


 香水のボトルが目の前には並んでいて、隣には友人たちがいた。どちらが現実か分からない妙な錯覚を覚えるのはまだ香りが試しにつけた手首から香っているから。


「新しいお気に入り、また見つけたんだ?」

「うん」


 ぼんやりする意識のまま返事をする。


「どんな世界だった?」


 慣れっこになった友人が訊いてくる。


「うん。夜の砂漠。満月に、オアシス」


 私の言葉に友人が怪訝そうな顔をする。


「……砂漠? 香水だよね、それ」

「うん。うっとりするほど、幻想的で官能的だよ?」


 私はその友人の手首にもシュッとテイスター用の香水をかけた。


「……。うーん、そういわれればそんな感じかなあ……」


 何度か香りをかぐ仕草をして、友人がうなっている。


「でも、うん。素敵な香りだね。

よかったね。またお気に入りが増えて」


 友人が笑った。


「うん!」


 私も満面の笑みで答える。



 自分好みの香りに出会うと、香りの王国の扉が開く。


 どの香水でもではない。これは貴重な出会い。


 次はどんな香水がどんな世界に連れて行ってくれるのだろう?


 それも楽しみだけれど、まずは。


「それ、どうするの?」

「うん、買う! 久しぶりのヒットだもの」  


 今日はこの香水で夜の砂漠を散歩することにしよう。


                                     了

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