本当は強いコだから大丈夫

秋色

前編

――「11月のアップルタルト」――


 それが花蓮の前に置かれた一冊の古びた少女漫画の本のタイトルだった。

花蓮は一時間前から眼に涙を浮かべて、自分の部屋の学習机の前にいた。涙が少し黄ばんだ本のページの上に今にも落ちそうで背を伸ばす。窓の外の西の空は夕焼けの最後の黄金色に染まっていた。


――これをずっと読まないから、由岐からあきれられたんだ。私ってだめなやつ。今からだったら夕食までには最後まで読めるはず――


 花蓮はいつも親友の由岐と、学校からそれぞれの家に向かう交差点の分かれ道まで一緒に帰っていた。

 花蓮は箱入り娘の内気な女子高生。部活には入っていない。

 一方、由岐は不良少女風で部活には入っていない。不良少女風というのは見た目、昭和の不良少女だから。実際は明るいスイーツ好きの女の子だった。花蓮にとっては由岐と二人の帰り道が一日のうちでいちばん楽しくて胸のはずむ時間だった。夕食のテーブルでも

「由岐の家のプードルが近所のフレンチブルと散歩中に仲良しになったんだって」

とか、

「由岐がクラスマッチのバスケで活躍したんだよ」

と、事あるごとに由岐の話題を口にする。だから両親や兄貴からは

「花蓮はホントに由岐ちゃんの事が好きなんだな」

とからかわれていた。



 中三の春、転校してきた花蓮は初めのうち、クラスの雰囲気になかなか馴染めなかった。しかも体育の時間、バレーボールのミニ試合でミスをしてみんなの足を引っ張ってしまった。

 その日の放課後、同じクラスのバレーボール部の女子連中からロッカールームで責められてしまった。バレーボール部の女子達にとっては小さな試合でも負ける事はプライドが許さないのだった。

「ねえ、湯本さん、さっきのバレーボールの試合の事だけど、あなたってヤル気全然なかったわよね」

 バレーボール部キャプテンの香里が言うと、別なバレーボール部の部員が言った。

「本当、いい加減な気持ちでやって足を引っ張るのなら、今度から一緒にプレーしないでくれる? 湯本さんが前にいたお嬢様学校とここは違うのよ」



 その時だった。その前からロッカールームにいたと思われる由岐が颯爽さっそうと現れ、言い放ったのは。

「あんたら、寄ってたかって一人の女の子、ターゲットにするなんてよっぽど退屈してんだね。みんながみんな、あんたらみてーにバレーに命かけてねーんだよ」 

 そして花蓮に話しかけた。

「気にしなくていいよ。そいつら、おかしーんだよ」



 その衝撃的な出会いから二人は仲良くなった。

 帰りは毎日、一緒の通学路を歩いた。ちなみに朝は、由岐は朝礼ギリギリに登校するため、一緒に来る事はなかった。

 花蓮にとって由岐の話は、知らないゲームの話でも家族で飼っているペットの話でもなぜかとても楽しかった。

 二人は土曜日に近くのショッピングモールでクレープを食べたり、おそろいのキャラクターの文房具を買ったりした。

 そして高校も同じ県立高校を目指し、合格した。出会って二年半、二人はいつも周りがうらやむ位、仲良しだった。実際、一年生の中にはきりりとした美形の由岐に憧れ、ショートの髪型を真似る女子もいて、花蓮はさんざ羨ましがられた。周りがどうとかは関係なく、見かけコワモテでも心優しい由岐は、花蓮が誇れる親友だった。







 でも昨日、由岐は花蓮に宣言をした。



「明日からしばらくは一緒に帰れないよ。ウチ、クラスで陸上大会の選手に選ばれて練習しなくちゃならなくなったんだ」


「じゃ、私も由岐の練習するとこ、見てていいかな。放課後、暇だし」


「練習見てるためだけに残るのなんてやめときなよ。前から言おうと思ってたんだけど……」


「何?」


「いい加減さー、んー、あの漫画を読みなよ」


「漫画って?」


「ほら、いつだったか渡した『11月のアップルタルト』だよ」


「あれ、くれたのかと思ってた」


その本を由岐から受け取る時、知り合いからもらったお下がりの本だけどあげるよ、と言われたのを花蓮は憶えていた。


「でもさ、人があげたのを読まないのって失礼だよ」


 確かにそれは感じていて、いつかは読まなくてはいけないと、花蓮は思っていた。それでもなかなかあるページから先に進めなくなったのは、ヒロインに心臓の病気があって、五年後の二十歳の誕生日まで命が持つかどうかという宣告を医者から受けたからだ。表紙の絵――ヒロインの笑顔のアップの下に小さく彼女がベッドで点滴を受けている姿が描かれてある――を見てもこの先のヒロイン、塔子の受難は確かなようで、それを読むのが辛くて怖かった。


 由岐は言った。

「言っとくけど、たとえ陸上大会が終わっても、あの漫画読むまでウチは花蓮とは一緒に帰らないよ。ラストが悲劇って分かってるから読めないなんて甘っちょろいコなんかとは帰れないからね」


 そんなキツい言葉を由岐が花蓮にかけたのは初めてだった。

 でも花蓮が甘っちょろいのは確かだった。家でドラマや映画を見ていても、主人公が何者かの潜んでいるクローゼットの辺りを探し始めるシーンや犯人が後ろから忍び寄ろうとしているシーンでは速攻チャンネルを変えて、家族から「いいところだったのに!」と度々文句を言われるのだった。


「それにね」と由岐は言った。「いつでもウチが側にいるわけじゃないんだよ。これからは何か言われても、黙ってないで自分で反撃するワザ、身につけておかなきゃダメ! 花蓮は大人しすぎなんだから」


 花蓮はうつむきながらその言葉に耳を傾けていた。キッパリと言われた言葉の一つ一つに思い当たるふしがあり、あらためて自分の未熟さを感じていた。


「私……ゴメンナサイ。いつもこんなで。でも由岐がいなくて独りぼっちの通学路は寂しいよ。今はクラスも違うし」


「だけど朝は一人で来てるんだ。それに転校前の私立中学へは一年の頃から電車で通ってたんだろ? ウチは独りって割かし好きだな。気楽だしさ」


「でもこの辺の学校って風紀も乱れてるし、夕方は怖い気するの」


「人は見かけなんかじゃ分かるわきゃーない。そいつと話してみなきゃ」


そう言って去っていく由岐の後ろ姿を花蓮は見つめるしかなかった。

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