リバウンド

クロバショウ

第1話

 その女に出会ったのは、忘れもしない七夕の日だった。小山田誠治は買い物帰りで、右手に川を眺めながら、ぼんやりと歩いていた。この時に何か考えながら歩いていたのだが、何を考えていたのかは忘れた。ただぼんやりと川を歩いていると、突然大きな水音がした。見ると、一人の女が川の中で暴れている。橋から落ちたのかもしれない。しかし誠治は慌てることもなく、暴れている女の近くまで行き、声をかけた。

「その川、浅いぞ」

 すると女は動きを止め、一度沈んだ後、勢いよく水面から顔を出した。そして立てることをしっかり確認したのか、女はざぶざぶと水をかき分けて川からあがった。その右手には茶色い鞄がある。

「助けるとかしてくれてもいいじゃんか!」

 服をある程度絞ってから、女は誠治を睨みつけ、吠えた。

「そこまでする義理はないし、そもそもあの程度の深さじゃ死なないだろ」

「人間はくるぶしくらいの高さの水があれば溺れ死ぬんだよ」

「女ってのは軟弱だな」

「全人類共通事項だよ!」

 吠えながら、女は青みがかった黒髪を乱暴に掻く。

「あんた、こっから家近い?」

「は」

「ちょっと拭くもの貸してよ」

「そんな義理はないと」

「ちょっとくらいいいじゃん。こんなびしょ濡れで電車乗れないし」

「ここから家は遠いのか」

「あそこの駅から各駅で三十分」

 あそこと指したのは、川上にある駅だ。生憎各駅停車の電車しか止まらない。

「結構遠いんだな」

「ほんとはチャリで来ようと思ったんだけどね。たまには可愛らしい服でもと思ったのがあだになったねえ」

 舌打ちしつつ、女は白いロングスカートを絞る。

「だからちょっと拭くもの貸してよ。あらかた水気が取れたら帰るからさ」

「断る」

 変なのに関わってしまったと、誠治は家に向かっていく。すると、背後からざりっと足音が聞こえる。

「ついてくるな」

「ずぶ濡れの女の子を置いてくなんて酷いじゃん」

「自殺に失敗したような女の世話なんてみてられるか」

「入水しようとしたわけじゃないよ。カレシに突き落とされたの」

「は?」

 どういうことだと振り返ると、女は裸足でついてきていた。右手には相変わらず茶色い鞄が、左手には黒いサンダルがある。

「なんで裸足なんだ」

「だってこれ、水吸って歩きにくいし」

「っていうか、さっき突き落とされたと言ったな」

「言ったねえ」

「喧嘩か」

「そう。痴話喧嘩の末、別れるって喚いたら突き落とされた」

 あっけらかんと言う様に未練のようなものはない。

「腹立つとかないのか」

「んー、まあ、怒ってたけど、突き落とされた時にあいつの顔見たら真っ青でさあ。で、やばいと思ったのか逃げてくの見たら、どうでもよくなっちゃった」

 それでいいのかと誠治は驚いた。

「それで、その男の名は?」

「言う必要ある?」

「突き落とされたなら、警察に被害届でも出した方がいいんじゃないか?」

 すると、女は笑う。

「診断書もなけりゃろくに取り合ってくれない輩に何を任せるって言うのさ。それに、もう関わりたくないから、思い出したくもないよ、あんなやつ」

「そうか」

「で」

「なんだ」

「身の上話も聞いたんだし、タオルくらい貸してくれてもよくない?」

 逡巡した後、誠治は好きにしろと言い、自宅に向かう。

「ありがとう」

「用が済んだらとっとと帰れよ」

「はいはい」

 女は何が楽しいのか、よくわからない歌を口ずさみながらついてくる。先程恋人と別れたというのに、切り替えの早いものだ。そう思いつつ、誠治はちらりと後ろを見る。

「なんだその歌は」

「知らなーい。子どもの頃、よく聞いた歌ってことしか覚えてないよ」

 女はまた歌い出す。何度も似たような旋律を繰り返すその歌は、得体の知れない気持ち悪さをこちらに感じさせる。

「その歌やめろ」

「あ、やっぱり気持ち悪い?」

「わかってて歌ってたのか」

「いや、私はそんなこと思わないんだけど、みんな気持ち悪い歌だって言うからさあ」

「なら人前で歌うなよ」

「そうだね、そうしようか」

 途端、女はぴたりと黙り、ただざりっざりっと足音だけが続く。

「靴履かねえのか」

「重くて歩きにくいし」

「足、痛くないのか」

「ぜーんぜん。ここ土だし、アスファルトに比べりゃ全然ですよ」

 とは言うが、周囲から誠治がどう見られるかという話もある。

 誠治は妙なものに関わってしまったと改めて思いつつ、女のところまで行く。

「何?」

 近付いてみると、やはり女はずぶ濡れだ。括ればいいのにと思うほど伸びた髪からは、ぼたぼたと水滴が落ちている。

「不本意だが、近々越す予定もないからな」

「なに?」

 不審そうにこちらを見上げる女の髪をまず絞る。騒ぐかと思ったが、女は意外にも大人しくしている。それから背を向け、かがむ。

「え」

「乗れ」

「あ、じゃあ遠慮なく」

 といってから、また背後でスカートでもしぼったのか、水音が聞こえる。それから、背中にひんやりとした何かがふれる。

「お願いします」

 舌打ちしながら、誠治は立ち上がる。思ったより重くはないが、背中に触れる冷たさはわずらわしい。ふと女の左手を見ると、サンダルは紐が切れていて、履き物としては機能しないのがわかった。

「壊れてるじゃねえか」

「ん? まあそうだろうねえ」

「なら先に言え」

「裸足でも大丈夫かなって思ったんだよ」

 誠治は思わずため息をついた。

「うちに履かなくなったサンダルがあるから、それ履いて帰れ」

「はーい」

 そう言う声は楽しそうだ。

「あんたって優しいねえ」

「今回だけだ」

「いやはや、それでもありがたいよ」

 その言葉に何か脳裏によぎるものがあったが、誠治はよく聞く言葉だと深く考えもしない。

 冷たいままの女を背に、誠治は家に急ぐ。こんな姿を誰かに見られて噂されても困るからだ。

 早足で帰り、誠治は鍵を開け、家に入ったところで女をおろした。

「お邪魔しまーす」

 そのままあがろうとする女の襟首を掴むと、何をするんだと睨まれた。その髪からは、まだ残っていたらしい水滴が落ちる。

「先に拭いてからにしろ。床が濡れる」

「それなら口で言ってよ!」

「口で言うよりこっちの方が早い」

 まだギャンギャン喚く女を置いて先にあがり、普段滅多に使わないバスタオルを持って行ってやると、意外にもきちんと礼を述べてから受け取った。

「ありがと」

「さっさと拭いて帰れ」

「そうします。あんたには迷惑かけたね」

「そう思うなら、二度とこの辺りには現れるなよ」

「はは、そりゃ宇宙に祈ってくれよ」

「なんだって?」

 妙な言い回しをすると女を見ると、女はどうかしたかと首を傾げる。

「変なことでも言った?」

「そこは神に祈れじゃないのか?」

「あ、そうか」

 そう言って笑う女は、実に奇妙な女だった。

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