短編集
クロバショウ
魔女とジジイ
赤。ひたすらの赤。それが目の前に広がる光景だった。その中には、知った男女だった赤もあり、見知った子どもの赤もあった。その赤の中に、元は誰かを構成していた白も混じるが、しかしほとんどは赤だった。その様を呆然と眺めていた。その時、なぜ自分だけ赤ではなかったのかはわからない。
ただ、それも時間の問題だった。その赤を作る獣は既に目の前にいたのだ。
それも赤だった。真っ赤な毛皮、真っ赤な目、口も赤い。生臭いにおいもする。いずれ、自分もそれの一部になり、周りと同じく赤になるのだろう。
呆然としていると、誰かが水たまりを踏む音が聞こえた。目の前の獣のものではない。それよりも軽い何かだ。鳥だろうかと思っていると、すずやかな声が聞こえた。
「獣よ、人を食べた獣よ。掟を踏み越えたものよ。私はお前を殺す。魔女として、お前を魔物にするために」
その声が聞こえたと思った途端、金色が目の前に現れる。金色の線が、赤い獣を覆う。赤い獣が振り払おうと身を震わせ、足を上げ、爪を振り上げるが、獣が動けば動くほど、金色の線は増え、獣の動きを封じる。
「口上はこれくらいだっけか。この世界は面倒だなあ。獣殺しにこんな口上を言わないといけないなんて」
そんな声も聞こえる。それは先程の声と同じようで少し違っていた。
「では、獣よ、私が通りかかった不運を呪え。嘆け。そして焼き尽くされろ」
その声と共に、金色の線は徐々に黒に変わっていく。黒に変わったところからは細い黒が浮き上がる。
「コクエンサンカイ、ジョウエンフツエ。燃え上がれ、そして死ね!」
直後、赤が黒に塗り潰されていく。獣は黒く塗られる度にのたうち回り、おぞましい音を発する。獣のにおいも充満し、それで初めて、獣が焼かれているのだとわかった。
獣は黒いそれに焼かれ、徐々に崩れていく。尾が崩れ、足が崩れ、首が落ちる。落ちたものは更に崩れていき、ボロボロと崩れ、サラサラと流れていく。
どれほどそれを眺めていたか、獣は砂になり、気付けば周囲の赤もすっかり黒に塗りつぶされていた。
そしてその中に、浮かび上がる黒がいた。
長い黒が揺らめき、そこに白が混ざる。いや、白というには少し黄色がかっているようにも見える。細長い白と、丸い白、それが黒の中に混ざっている。
「あれ、生き残りがいる」
黒からそんな声が聞こえる。サクサクと、何か軽いものを踏み砕くような音をさせつつ、黒はこちらに近付いてきた。
「お、ほんとに生きてる。ちょっと目が死んでるけど、ま、息してればセーフだよね」
そんな言葉と共に視界が揺れる。温かい何かに包まれた気もした。
「もう大丈夫。君を食うものはいない。君を害するものはいない。ま、君を守るものもいないけど、それはこれから私が見つけてあげよう」
見上げると、黒は黒い何かではなく、人だった。女だ。長く黒い髪、穏やかな微笑みを浮かべ、こちらを見ている。その目も黒く、目元には化粧の一種だろうか、黒い模様が入っている。炎のような模様だ。
「まずは眠りなさい。そして次に目覚めた時、まだ燃やせる命があることに歓喜しなさい」
視界が何かに覆われる。柔らかなそれは決して嫌なものではなかった。背中をぽんぽんと叩く何かの暖かさに、次第に意識も溶けていった。
目を開き、トーマは舌打ちした。
最初の忌々しい記憶を夢に見てしまった。
「あんたー! ユミさんが来てるよー!」
下から呼ぶ声が聞こえ、トーマは立ち上がる。
「適当に待たせとけ!」
叫び、ひとまず軽く身支度をして階下に行く。そこにはトーマの妻マリュと、もう一人、夢の中にも出てきた女、ユミがいた。黒い髪、黒い目。黄色人種らしい肌色を包むのも黒い衣服だ。今日は遠出をするのか、ライダースーツなんて着ている。金髪碧眼、黄色が基調の花柄のワンピースを着ているマリュと並ぶと、かなり異様だ。
「ババア、また若作りして」
「見た目若いからいいでしょ。っていうか、正真正銘ジジイになったあんたにババアって言われたくない」
「ババアはババアだろ。俺がガキの頃から生きてる上、今もピンピンしてんだ。ババアだろ」
「あんたはもう、ユミさんにそんなこと言って」
「失礼だよねえ。あーあ、あんなに可愛かったトーマが、今やこんなハゲジジイとは」
「うるせえ。で、今日は何の用だ?」
本題を訊ねると、彼女はふふと笑う。夢で見たものと同じ、穏やかな微笑みだ。
「昨日孫生まれたでしょ。だから、お祝いに魔除けでも作ろうかと思ってるんだけど」
「あら、嬉しい! ユミさんの魔除け、効果てきめんだから、きっとハルちゃんも喜ぶわあ」
マリュが本当に嬉しそうにそう言いながら、ユミに茶を出す。
「魔除けはいいが、それでなんでうちに来てんだ。ハルとは顔見知りなんだし、直接行けばいいだろ」
「言ったでしょ。作ろうと思ってるって。まだ作ってないの。材料が足りないからね」
その一言に、どういう用件でこの女がやってきたのか理解した。
「つまり、材料取るの手伝えと?」
途端、ユミはにまりと笑う。そうすると、魔女らしい邪悪な人相だ。
「その通り。丁度ニレミ山脈で火採竜が暴れてるらしいから、魔除けの材料取るついでに倒しに行こうと思って。あんた、この前新しい鎧の材料に竜の革がいるって言ってたし、丁度いいでしょ」
「まあ、そうだな。おい、マリュ、行ってくるがいいか?」
訊ねると、マリュは勿論と頷く。
「行ってきな。私はその間、ハルのとこに行って手伝いしてくるから」
「なら丁度いいな。終わったら迎えに行くわ」
「待ってるから、無事帰ってきてね。あ、お弁当作るから、出発はちょっと待ってもらっていいかしら」
マリュがユミに訊ねると、彼女は勿論と頷く。
「火採竜相手だと、装備の準備もいるから、出発は昼過ぎになるかな。なんなら、ここでマリュのご飯食べてから出てもいいくらいだ」
「ふふ、そう? じゃあ、折角だし、久しぶりにユミさんにお昼とお夕飯振る舞おうかしら」
「それはいいな。よし、じゃあマリュの昼飯食べて、今日はマリュのお弁当が晩御飯だ。トーマ、それまでゆっくり支度してていいぞ」
「へいへい」
それでは、火採竜用の鎧の用意と、竜の革を剥ぎ取るためのナイフの手入れをする時間もありそうだなと思いつつ、トーマは食卓につく。
「マリュ、ひとまず粥一杯くれ」
「はいはい。ちょっと待っててね」
「なんだ、飯まだだったのか」
「今起きたからな」
「ジジイのくせに寝坊助だなあ。そんなところばかり変わらないんだから」
「うるせえ。っていうかババアが早起きすぎんだよ。今何時だと思ってんだ」
「朝七時。ちゃんとマリュが起きて一仕事終わった時間には来たぞ」
「せめて九時とかにしろ!」
最も古い記憶にあるものとは別の赤が目の前に広がっている。赤、あの時は血だったが、今目の前にいるトカゲは炎をまとっていた。火をまとい、火山の火を食べるもの、火採竜と呼ばれているそれは、かつては神として崇められていたらしいが、今では人の生活圏を脅かす化け物として厄介者扱いされている。
「獣よ、人を殺した獣よ。掟を踏み越えたものよ。私はお前を殺す。魔女として、お前を魔物にするために」
凛とした声での口上は昔と何も変わらない。人がただ殺す時ならば、この口上は必要ないのだという。ただ、魔女が殺す時だけはこの口上が必要だと、いつかユミが話していた。理由は未だに教えてくれないが、トーマとしてはそれが当たり前で過ごしてきたので、そういうものなのだと思っていた。
「さて、口上は終わったし、さくさくっといきますか」
ユミはそう言うと、地面に突き刺していた斧を手に取る。真っ黒なそれは金属製に見えるが、実際はユミの使う魔法によって構築された斧で、他人が触れるとただの炎になってしまう。
「トーマは正面お願い。私は尻尾を狙う」
「おう。しくじんなよ」
「誰に向かって言ってんだ小僧」
にたりと笑い、ユミは斧を片手に駆け出す。それを横目に火採竜の正面に立つと、火採竜がこちらに向かってくる。
「こんな時に小僧っていうんじゃねえよ。ったく」
舌打ちしつつ、トーマは持ってきた大剣を振り上げた。
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