第29話 白昼夢――滅びのうつつと再生の幻
森はまるで、目前に迫る冬の気配にじっと身を固くしているようだった。
霜の降りた森を歩きながら、ハナはその静けさに懐かしさを覚える。季節の変わり目にいつも生じるこの感情はなんだろう。見慣れていたものが昨日までと様相を変えた姿を見たとき、新鮮さよりも既視感を先に覚えてしまう。
動物たちも今日は一匹も姿が見えなかった。時折、梢を揺らす鳥の気配がするが、影は見えない。皆で一斉にかくれんぼでも初めてしまったようだ。
日課の朝の見回りを昼を前に終える頃には、中天の太陽が霜をあらかた消していた。
ハナは一度家に帰って軽い昼食を取ると、箒に跨がって『浮き島』へ飛んだ。かつては植物が豊かに繁茂した小さな島は、いまは爆風で平らげられてしまい無惨なあり様だった。
湖を渡り浮き島の上空へ辿り着いたとき、ハナはその光景のあまりの痛々しさに顔を顰めた。木々はすべて半ばから折れて、重なり合って倒れている。爆発を間近に浴びて炭化しているものもあった。かつてはハナの背丈を越えるほどだった水草も、べったりと地面に寝てしまっている。
そしてなにより、古木の翁――。
いったい幾星霜、この森を見守り続けたのか、その立派な幹と枝振りを誇った森の長老は、爆心地からもっとも近い場所にあった。幹は半分より上が消し飛び、残った下半分には縦に亀裂が入り、その後、割れて倒れたようだった。ハナが幾度も駆け込んだ翁の樹洞のあったと思しき場所には、焼け焦げた木っ端が降り積もっていた。
木々や土が水分を豊富に含んでいたから良かったものの、空気の乾燥するいまの時期、火災が起こらなかったのは不幸中の幸いだった。
ハナはゆるゆると地上に降り、倒れた古木の翁の前に立つ。
「長老……」
弱々しく呼びかけたが、返事がない。こんな凄惨な姿になって、生きていると思うほうがおかしいのかもしれない。けれど、樹木が死ぬのはどの時点なのだろう。彼らは人間よりもよっぽど強靱で、息の長い生命力を持っている。
「長老、ハナが来ました」
ハナはもう一度呼びかけて、それから待った。彼らは、心臓を一突きされれば代謝が止まってしまう人間とは違うのだ。骸のような姿からでも、彼らは再生することができる。無辺の荒野に落ちた一粒の種が、いつしか豊かな森になるように。
風も凪いだ静寂のなかでハナが待っていると、やがてその声は聞こえてきた。
『……おお? 魔女の子よ……来ておったのか』
「長老!」
ハナは歩み寄って、折れた古木の樹皮に触れた。
『いやぁ、こうも寒くなると起きているのもつらくてのう。冬は来たのかね?』
「いいえ。けれど、じきに」
『そうじゃろう、そうじゃろう』
包み込むような優しい低音で、翁は「ほほほ」と朗らかに笑う。ハナは泣いてしまいそうだった。
「浮き島を……せっかく育ったこの場所を、こんなにしてしまいました……申し訳ありません」
『おぬしのせいではあるまい。それよりも見たかね、あの宇宙の子の輝きを。あれほど大きな力を内に秘めておるのじゃ、必ずや、為すべきことを遂げて還るじゃろう』
翁の声は珍しく興奮気味だった。浮き島の小さな森を吹き飛ばし、自らの体を折った相手に対して、ここまで興味深く語ることでができるものだろうか。
『悲しむことはない』と古木の翁は言った。
『生命とは喜ばしきもの。生きて、笑うが良い。春になればこの老いた死骸を揺籃にして、新たな新芽が芽吹いてくる。やがて朽ちて土に還り、わたしはどこまでもこの森として生きていくのだから』
「長老……」
ハナの目に、かつて青々と豊かだった頃の『浮き島』の景色が映り込む。しかしそれは、ハナが過去に見たものとは少しだけ差違があった。古木の翁の幹には洞が穿たれておらず、まっすぐに伸びる木は微妙に形が違う。さらにその足元には、半ば地面に馴染んで、老いた樹木が横たわっていた。その亡骸の上から、立派な木が立っているのだ。
鳥が頭上で囀っている。湖に囲まれ、肉食動物に狙われる危険のないこの場所は、弱い小鳥たちの楽園となっている。いったいどれだけの数がいるのか、囀りは合唱となってハナの耳に響く。このまま小鳥ばかりが数が増えても問題だな、とハナは思った。
それはきっと、何百年と先の風景だ。さすがに長生きのハナでも、そんな未来をこの目で見ることはないだろう。だが、古木の翁はここで、それを見ることができる。死してなお、森となって生き続けることができる。
ハナが瞬きをすると、目の前には再び、折れた古木の翁があった。小鳥の合唱は聞こえず、空気は冴え冴えと冷たい。
「この森は、偉大ですね」
「左様」
ハナの言葉に、古木の翁は満足そうに返した。ようやくわかったか、とでも言いたげな声音に、ハナはふっと噴き出す。こんな場所でも笑うことができるなんて。
ハナは姿勢を正し、古木の翁の、折れた幹の中心に視線を定めた。
「冬の門を開けて参ります、長老」
「行くが良い。また春に会おう、魔女の子よ」
ゆっくりと、とびきりのカーテシーをして、ハナは古木の翁のもとを辞した。
箒に跨がり、北へ進路を取る。
冬の門は森の最北端にある。その在処は、上空から見れば一目瞭然だ。
眼下に樹木の海が広がる果てに、一本の朽ちた塔が、白い壁を青天白日に晒して建っていた。
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