第11話 栞――押し花の栞と彼女の愛情
「っいでででででででででで」
不意に頬を抓られ目覚めたハナは、飛び起きようとして胴体の上に載った障害物に動きを阻害され、結果としていつもより少し長めに頬を抓られ続けることになった。
「起きた、もう起きたよ、ムニン!」
悲鳴のような声を上げて相棒のカラスを顔面から撤退させると、ハナは、レースのカーテン越しに夜明けの薄い明かりを頼りに、自分の身になにが起こっているのか、冷静に検分を始める。
自由の利く片方の手で上体から掛け布団を剥ぐと、布団の下で白くしなやかな腕がハナの胴体に絡み付いていた。その腕の出所を探り、隣に眠る麗しい少女のキャミソール姿に行き着く。つやつやと光沢を持つサテン地とそこから伸びる白く長い手足の組み合わせが、妙に色っぽい。ハナは見てはいけないものを見たような気がして、慌てて目を逸らした。
先ほどハナが大声を上げたにも拘わらず、少女――シュネーは無防備な寝顔を晒して、よだれを垂らしながら寝ていた。
ハナは起こさないよう慎重に(これだけ騒いでも起きないのだから無用な心配だろうが)、シュネーの腕の下から脱出し、ベッドから床に降りる。ふと、ベッド脇の床からがさりと音がして、籐編みのバスケットに敷いた毛布の上で、白くふさふさした物体が動いた。三角の耳がピンと立ち、美しいガラスのような青い目が胡乱な目つきでハナを見上げる。
シュネーの使い魔、白猫のユキだ。
「ユキはさすがに起きたか。ごめんね、起こしちゃって。今から日課のパトロールなんだ。ご主人が起きたらよろしく伝えてね」
ハナはそう言って立ち上がり、手早く身支度を調えると、ムニンを呼んで外へ出た。いつもは朝食を先に食べるのだが、今日はシュネーと食べると決めている。
外へ出て、ハナは「ふぅ」とひと息ついた。
ハナの家は狭く、客人用の寝床もない。普段なら誰も泊めたりしないのだが、昨日、シュネーが一泊していくつもりだといきなり言い出したのでびっくりした。断ろうとしたのだが、一度その気になったシュネーの意思を覆すのはそう容易くはない。結果、ハナが折れて一台のベッドを分け合うことになった。一人で寝るにはそこそこ広いベッドだが、さすがに二人寝するには狭く、互いに気を遣わなければならない。シュネーが同衾に乗り気だったことにも、ハナは驚いた。
「昔は『幽霊船』で雑魚寝なんてざらだったじゃない。ハナも、あたしとなら構わないでしょ?」
シュネーもハナと同じで、どこか寂しさを抱えているのかもしれないと思った。昔のことを思い出すのなら、なおさらだろう。
それにしても――。
「おっきかったなぁ……」
ハナは自分の胸元に手を当て、シュネーのキャミソールから覗いた胸元を想像する。はぁ、と溜め息が漏れた。
別にこの歳になって異性と恋愛するわけでもないのだし、自分の体にコンプレックスなど持っても意味がないのだが、親しく、歳も近いシュネーと自分のことは、どうしても比べてしまう。
「わたしも、魔女になるのがあと一年でも遅ければ……」
ちょうど成長期だったのだ、十六歳当時は貧弱だったが一年もすれば変わったのではないか。そう考えていたら、二つに結った髪の片方をムニンに引っ張られた。真面目に仕事をしろということらしい。
「わかってるって、冗談だよ」
そうは言いながらも、いつもよりテンションの上がらないハナであった。
今日は短めに、二時間ばかりのパトロールから帰宅すると、シュネーは既に起きて白いドレスに着替えていた。メイクはまだしていないようだ。
彼女は本棚の前で、本を開いている。――違う、あれは本型をした道具入れだ。
「おかえり、ハナ」
シュネーは顔を上げてハナを振り返って言った。
「ただいま、おはよう、シュネー」
ハナも応じる。
ハナは首元のマントの紐を解いて、椅子の背もたれにぞんざいに投げると、シュネーの傍へ近寄った。
「なに見てたの?」
「あなたの趣味」
そう言って、シュネーは道具入れをハナのほうへ差し出す。なかには、手漉きの紙に押し花を押して作ったたくさんの栞が入っていた。押し花の種類と紙の劣化具合から、ハナはこの栞が十八年前のものだと察する。
ハナは毎年、たくさんの押し花の栞を作る。季節ごとの草花を摘んで乾かし、自分で漉いた紙に押して保管する。紙の漉き方が下手で、保管が利くのはせいぜい五十年といったところだが、その五十年分が、この本棚に収められている。
「植生の研究をしてるの?」
「それもあるかなぁ」
栞を見れば、その年の植物の状況がわかるし、それを手がかりにその年にあったいろいろなことを思い出すこともできる。けれど、ハナは日記もつけているから、その年にあった出来事を知りたければ過去の日記を紐解けば良い。栞にして残す利点は、視覚的にわかりやすいくらいの意味しかない。
ただ、ハナは半ば義務的に、無意識に押し花を続けている。
「よくわからないんだ。なんとなく、その花を見せてあげたい人がいるのかなぁ、って思うんだけどね。いつか会えたら、わたしはこんなところに住んでいるんだよ、って、押し花を見せて、いろんな話をしたいような……。でも、それがどこの、どんな人なのかがまったくわからない……」
きっとその答えは、降り積もった記憶の底のほうにあるのだろう。昔の記憶はもうまだら模様のようになって、覚えていないことも多い。
「それはつらい出来事を思い出さないよう、体が無意識下で蓋をしているんだろう」と、随分前に魔女仲間に言われたことがあった。その「つらい出来事」のなかに、ハナが待っている誰かがいるのだろうか。
「ふぅん」
と相槌を打って、シュネーは道具入れの蓋をぱたんと閉めた。突然興味を失ったように、さっさとそれを本棚に戻してしまう。
「ねえハナ、お腹空かない?」
「うん、空いた。一緒に朝ごはん作ろうよ」
「いいよ」
シュネーは頷きながらハナに一歩近付いて、ハナの頭から被ったままだったとんがり帽子を取り上げた。その手を下ろして、空いているほうの腕をハナの体に回して抱擁する。シュネーは何も言わない。彼女からは、相変わらず薔薇の良い香りがする。
優しい親友の、こういう不器用な優しさが、ハナは大好きだ。
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