蒼星のイストリア ~ヒュドラルギュロス~

Noacht

序章

001 蒼の夜

 薄蒼はくそうに煌めいた〈宵月ニュクス・セレーネ〉が見下ろす、暗く明るい夜だった。


 慈愛に満ちた月光の下、煉獄の蒼焔が揺らめく。焼ける人型に潰れた人型、そして斬り裂かれた人型。そんな冥府さながらの荒地に響くのは、うつ伏せに倒れ伏す青年の喘鳴だ。


 各所が血にまみれた銀縁の黒コートに、半ばが融解したブーツ。蒼を映す銀髪は土埃に汚れ、その下にある精悍な顔立ちは苦痛に歪む。立ち昇る熱気に晒されて、噴き出す汗は瞬く間に乾きゆく。


 青の視界に入るのは、大地に突き立つ白銀の剣と、蒼銀そうぎんに輝く――巨大な爬虫類の片腕。


 相討ちだった。敵の爪を受けると同時に、銀の剣閃が敵の腕を斬り落としたのだ。怯んだ相手は撤退し、力尽きた青年のみが残り火に苛まれている。


 全身の裂傷や火傷に加え、辛うじて繋がっているのみの手足。傷口からなく生命の雫が溢れ、ゆっくりと大地に広がってゆく。


 明らかな致命傷だ。


 少し前まで感じていた、神経に直接焼きごてを押しつけるような激痛こそ今はない。代わりに感じるのは、果てのない寒さ。底知れぬ熱量に包まれているはずなのに、体の芯が凍えるように寒かった。


「……死、ね……ない………」


 不意に青年の口が開き、喘鳴の合間に掠れた言葉が紡がれる。熱で口内は渇ききり、短い言葉だけで痛みが伴う。


「オレ、には……まだ……」


 そして、その呟きが限界だった。微かに上を向いていた視線はもはや地に落ち、暗色に染まる。吐息すらも弱まり、命が燃え尽きようとして――



 立ち上る焔の一画が、突如として鎮火した。



 コツ、コツ――と、硬い軍靴の音が耳に届く。


 緩慢な動作で顔を上げた先、黒い軍服姿の女が歩み寄ってきた。辺りに立ち込める熱をものともせず、青年の近くで足音は止まる。生気が失われつつある瞳に、蒼焔に照らされた金糸の長髪が翻った。


 女性――こちらより年下らしい少女は、あどけなさの残る面差しに沈痛な表情を浮かべ、


「……間に、合わなかった」

「……〈蒼銀竜ヒュドラ〉」


 うつろな瞳で見上げた青年はポツリと言葉を漏らす。


 青年が生きていると気付いた少女が近寄ってきて膝を突き、紺碧と青の視線が交錯する。少女は返事の代わりと軍服の左袖を捲り、ナイフを取り出して己の手首を斬り裂いた。流れ出る少女の赤い血は、周囲を漂う〈元素エーテル〉に反応して蒼く輝き出す。


 伝承に伝えられる霊薬にも似たそれは、〈蒼銀竜の血ヒュドラ・ハイマ〉。青年が先程まで対峙していた敵と同色の、人ならざる輝きだった。流れ出る血をそのままに、少女は大きな紺碧の瞳で青年を見据え、


「生きたいですか?」


 凛とした声が、青年の鼓膜を震わせた。


「わたしなら貴方を助けることができるかもしれません。ですがそれは茨の道。運良く生き残ったとしても、その先で死んだ方が良かったと後悔することもあるでしょう」


 少女はそこで一度言葉を切り、


「……それでも貴方は、生きることを望みますか?」


 それは天からもたらされた救いの糸か――はたまた、悪魔との魂の契約か。二択を突きつけられた青年が想起したのは、幼少のみぎりに交わしたとある約束。いまだ果たせていない約定を果たすために、こんなところで死ぬ訳にはいかない。


「生き……たい」


 みじかなれど、故にこそ真に迫った言の葉は、ほとんど吐息だった。


 だがその声は、確かに届いたのだろう。


「――わかりました。今は何も心配せず、ゆっくり休んでいてください……」


 傷だらけの体躯を慎重に仰向けへと返し、少女は己が膝に青年の頭を乗せる。そのまま己の傷口を青年の口元へと寄せるも、蒼銀の雫は零れるのみ。何事かを思案した少女は可憐な唇を開き、己が口にそれを含む。その美麗な面差しが近づいたところで意識が薄れてゆき――

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