夏休み編

第36話 お気楽だね、勘解由小路君は

「おはよ!」

「久しぶりだな、勘解由小路かでのこうじ。元気にしてたか?」

 灰色のカーペットが敷かれた、学習塾の教室。その扉を開けると、見覚えのある影がこちらを振り向いた。紺色に白いラインの学ラン。それ自体は昇龍二高の制服と変わらないけれど、襟元の校章が違う。昇り龍に「壱」の漢字があしらわれたそれは、佳代が元々在籍していた高校――昇龍一高のもの。佳代はひらりと片手を振り、二人の後ろの席に腰を下ろす。

「久しぶりなのだ、広末ひろすえくん、原口はらぐちくん。僕は元気なのだっ。君たちは夏休み、楽しんでいるのだ?」

「夏休みっていっても、まだ1日目じゃん。楽しむも何もないよぉ」

「それよかどうよ、昇龍二高? やっぱヤンキーばっかり?」

「そうなのだよな……」

 恐らく好奇心で問うてきたのだろう。そんな二人に軽く微笑みかけながら、佳代は鞄から模試の対策シートを取り出す。

「校則違反常習犯の量が尋常じゃないのだ。結構皆髪染めたり色々してるのだ」

「目が痛くなりそうだな」

「学校そのものを二分する抗争が発生したこともあるのだし……」

「なにそれヤバっ!?」

「その割にノリがいい陽キャが多くて、テンションが上がればチームの垣根超えて楽しんだりもできるのだ。やればできる子なのだ」

「誰がYDKだって?」

 ――と、隣の席に紺色の影が腰を下ろした。顔を上げると、銀縁の眼鏡が蛍光灯の光に輝く。見覚えのある七三分けがふっと微笑みを浮かべ、佳代を見やる。

「我が昇龍二高を馬鹿にしてくれることはいただけないな、勘解由小路君。学校間留学生とはいえ、君とて今はここの生徒だろう?」

「馬鹿にするような意図はなかったのだ。気分を害したようなら謝罪するのだ。というか東堂くん、何故ここにいるのだ?」

「え、勘解由小路、知り合いか?」

 対策シートから顔を上げ、原口が東堂を見やる。対し、東堂は片手を胸に当て、堂々と口を開いた。

「初めまして、昇龍一高の諸君。昇龍二高2年6組、東堂春弘はるひろだ。以後お見知りおきを」

 浅く礼をし、不敵に微笑む東堂。眼鏡の奥の瞳がニヒルな光を宿す。そんな彼を見つめ、広末と原口は顔を見合わせ……同時に口を開いた。

「……二高にもこういうのいるんだ」

「二高を何だと思っていたんだ、君たちは」

 言い放ち、東堂は数学の参考書を取り出した。それは偏差値低めの二高で取り扱っているものではなく、書店で売られている上級者向けのもの。

「さて、勘解由小路君。この間の体育祭では敗北してしまったが、ボクは簡単には折れない。今日の模試、君には勝たせてもらうからな?」

「……もしかして、また君が勝ったら風紀委員の活動を制限とか、あるのだ?」

「いいや、今回は戯れだ」

 薄く微笑みを浮かべ、東堂は参考書のページをめくる。その横顔を呆然としたように眺め、広末と原口は顔を見合わせた。そのまま、佳代に呆れたような視線を向ける。

「勘解由小路……変なのに絡まれたな。お疲れさん」

「っていうか相変わらずだねー……面倒ごとに好き好んで首突っ込んでくスタイルなの、佳代だけじゃない? むしろ二高デビューして拍車かかってない?」

「僕はいつだって僕なのだ。困っている人は放っておけないのだ」

 あっさりと肯定し、佳代は再び対策シートに視線を落とす。アーモンド形の瞳がシートに記された文字を追いかける。愚直ともいえるその瞳を呆れたように眺め、広末と原口は肩をすくめるのだった。



「ふぁー、終わったぁ!」

「まだ2年生だし、まぁ普通に午前で終わるよな。ってわけで広末、ゲーセン行こうぜ」

「いいねー! そんじゃ佳代、またねー!」

 連れ立って塾の教室を出ていく二人を見送り、佳代は先程の模試の問題冊子を改めて見つめる。穴でも開けそうなほどそれを眺め、そして東堂に視線を移した。

「それじゃあ。自己採点、始めようなのだ」

「ああ」

 二人の席の中間に模範解答を配置し、それぞれ問題冊子に書き写した回答を答え合わせしてゆく。まずは英語から。淡々と、単純作業でもするかのように赤ペンを動かしてゆく。


「……それにしても、東堂くんがこの塾にいるとは思っていなかったのだ」

「随分と今更だね?」

 問題冊子から顔を上げぬまま、二人は言葉を交わす。皮肉げな響きをもつ東堂の声を、佳代は軽くスルーしつつ、言葉を続ける。

「……東堂くんは、将来の目標とか、あるのだ?」

「目標、か」

 呟き、東堂は軽く赤ペンを指先で回した。そのペンの持ち手には、愛らしい少女の萌え系イラストが描かれていた。再び問題冊子に向かいながら、彼はぽつぽつと語りだす。

「どうして君に言わなければならないんだ。先に君が言いたまえ」

「ああ」

 マル、マル、バツ、部分点、マル。淡々と答え合わせを続けながらも、佳代は静かに口を開いた。その横顔はまるで、地図をしっかりと握りしめた旅人のような。

「司法関係の仕事がしたい、のだ。裁判官なり、検察官なり、弁護士なり」

「真面目な風紀委員らしいな。それで、その仕事に就いてどうしたいんだ?」

「そうだな……」

 一瞬だけ天井に視線を向け、再び問題冊子に視線を落とす。一つページをめくりながら、ゆっくりと口を開いた。

「理不尽な目に遭って苦しんでいる人の、力になりたいのだ。あるいは、やむにやまれぬ事情で道を間違えた人の、道標みちしるべになりたいのだ」

「高尚だな」

 軽く息を吐き、東堂はひときわ大きく問題冊子にマルをつけた。ぱたり、と英語の問題冊子を閉じ、数学の問題冊子を改めて開く。淡々と答え合わせを続けていく彼のもとに、声が降ってくる。

「それで、東堂くんの目標は何なのだ?」

「キミに語る義理はないね」

「そうなのだ? 無理には聞かないのだ」

 あっさりと言い放ち、佳代は問題冊子に赤ペンを走らせてゆく。部分点、バツ、バツ、部分点、マル。淡々と答え合わせを続けながら、佳代はぼんやりと思考を巡らせる。ただ、ボールペンが走る音だけが淡々と響いた。数学の応え合わせも終わる頃、ふと口を開いた。

「……持ってはいけない夢なんて、どこにもないのだ。夢を持つ者も持たない者も、皆が胸を張ってよいと、僕は思うのだ」

「……」

 模範解答のページをめくりつつ、東堂は視線を伏せる。その瞳に、流れてゆく冬の雲のような色がよぎった。胸の中のもやつきを吐き出すように息を吐き、東堂は言い放った。

「全く……お気楽だね、勘解由小路君は」



「……のだ」

「なんだい?」

 全ての答え合わせを終え、東堂は勝ち誇ったように佳代を見つめていた。眼鏡越しの視界に映るのは、細かく震えるアイボリーブラックの髪。小さく呟かれた声を、王座にでも座るように足を組んで問い返す。と――バッ、と顔を上げた。アーモンド形の瞳と目が合って、東堂は思わず息を呑んだ。その瞳に悔しそうな色はなくはなかったけれど、それをはるかに上回るほどの輝きが星のように散っていて。

「やるではないか、東堂くん!」

「……はい?」

「ここまでの点数を、ほぼ独学でとることができるだなんて!」

「いや、君と同じ塾に通っていたんだけどね」

 言い放つけれど、佳代の瞳の輝きは流れ星を投げつけるかのように止まなくて。七三分けにした髪を困ったように掻きつつ、彼の声に耳を傾ける。

「見直したのだ! 東堂くんはすごいやつなのだ!」

「待て、なんか君に褒められると居心地が悪いんだが……」

「やるではないかなのだ! 僕は君を称賛するのだっ!」

「なんなんだこの人は……ボクはもう帰るからな!」

 東堂は狼狽したように問題冊子をかき集め、鞄に放り込んでさっさと背負う。佳代がようやく我に返ったのは、東堂の姿が教室の外に消えていったあとだった。

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