第13話 こんなのひどすぎるのだ

「ただいまなのだ」

「……お邪魔します」

 リビングに繋がる扉を開け、佳代はソファに座る影に声をかける。その背後から恐る恐る声をかけるきざしに、しゅんは一瞬だけ目を見開いた。カラスの羽根のような表情と、佳代の引き結ばれた唇を見つめ、ノートPCを閉じる。

「お帰り、佳代。そしていらっしゃい、兆くん。俺は撤退した方がいいか?」

「そうしてほしいのだ。おやすみなさいなのだ」

「ああ、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 淡々とノートPCやクリアファイルを片付け、自室へと去ってゆく舜。佳代はそんな彼を見送り、どこか所在なさげな兆を振り返る。

「とりあえず、座れなのだ。コーヒーか何か飲むのだ?」

「……いや、いいよ。俺コーヒー飲めねえし、だいいち申し訳ねえし。そういうのいいから、お前も座れよ……」

「了解なのだ」

 あっさりと頷き、子供のようにソファに飛び乗る佳代。半分を占領してあぐらをかくと、座れとばかりに隣をぽんぽんと叩いた。無邪気なアーモンド形の瞳に肩をすくめつつ、兆はおずおずと隣に腰を下ろす。ベージュ色をしたカーペットを見つめて黙り込む兆の横で、佳代は天井を仰ぐ。

「……それで、何なのだ? その事情っていうのは」

「……っ」

 思わず口元を引きつらせ、兆は小さく息を呑んだ。言葉を求めるように口を開き、また閉じる。何かを考えるように目を瞑り、両手で顔を覆った。佳代は何も言わず、ただ彼の言葉を待っている。

「……まぁ、話すって言ったのは俺だし、な」

 呟き、兆はゆっくりと顔から手をどけた。おもむろに顔を上げ、三白眼で佳代の横顔を見つめる。言葉を探すように口を開き、想いを諦めた青年のように声を零す。


「……両親が離婚したって話、したか?」

 予想外の言葉に、佳代は兆の方に視線を向けた。深海のような光を宿す彼の瞳を見つめ、ふるりと瞳を震わせる。

「……聞いてないのだ。いつの話なのだ?」

「中3の時だ。佳代とは疎遠になった後だし、知らなくても無理はないだろ」

 だから悪くない、とでも言いたげに兆は佳代の瞳を見つめた。ふわふわの髪と同じアイボリーブラックが揺れている。それを止めるように一つ瞬きをして、事務作業のように淡々と口を開く。まるで事実と自身を切り離して、平静を保とうとしているかのように。

「それで、俺はクソ親父……父親に引き取られた。けど、そいつは自分のことしか考えてない真正のクズ野郎で……最低限の学費と食費、それに小遣いだけ出して、あとは放っておくような奴なんだ。俺なんかいないように振る舞って、仕事と遊びのことしか頭にない奴で……家に、居場所なんてなくてさ」

「……それで『Rising Dragon』に入った、というわけなのだ?」

 問いかける声は、ひどく震えていて。それはまるで、恋人の隠し事を知ってしまったかのように。思わず顔を隠すように視線を伏せ、兆は口を開く。塾をさぼってしまった子供が、言い訳をするように。


「……居場所が、欲しかったんだよ。安心して帰れる場所が、欲しかったんだよッ」

 ぽつりと零した言葉を起爆剤に、兆の胸の中で感情が爆発した。ダムが決壊するかのように溢れ出す感情が、声となってとめどなく零れていく。隣で佳代が息を呑む音が聞こえたけれど、止められる気がしなくて。

「なんで、何で俺なんだよ……誰も俺のことなんて見てくれなかった。誰も手を伸ばしてくれなかったッ! 渇きを抱えてずっと生きてきた。心の中で、小せぇ子供がずっと泣いてるような毎日だった……手を伸ばすことすらできなくて、許されなくて、ただただ助けを待ってた。なんで誰も助けてくれなかったんだよッ!」

「きざ、し……」

 佳代の声はひどく震えていて。事故で伴侶を喪った男のように。だけど、それを気にかける余裕など兆にはない。苦痛に耐えるように髪を掻きむしり、砂漠の旅人のように声を上げる。

「いや……助けなんて、求めてたかどうかもわかんねえ。ただ、ぬくもりが欲しかった……誰かの情を感じたかった……ひとりぼっちは嫌だった、誰かにそばにいてほしかったッ! なのに……!」

 震える声にはかすかに涙が滲んでいて、まるで親に捨てられた子供のようで。ひたすらに慟哭する彼を、佳代は細かく震える瞳で見つめた。……その瞳から、大粒の雨のような涙が零れだす。


「……僕は今まで、何をやっていたのだッ」

 ひどく震えた声に、兆は思わず顔を上げた。佳代の頬に大粒の涙が伝って、まるで友達がいじめられてしまった子供のようで。あまりにも無垢で、あまりにも無邪気な横顔に、兆は目を見開く。

「……なんでお前が、泣いてんだよ……」

「だってだって、不甲斐ないのだッ! 幼馴染がこんなに苦しんでたのに、うっ、何も気づいてやれなかった……幼馴染失格なのだッ! えぐっ、こんなのひどすぎるのだ……うぅっ……」

 子供のように大粒の涙を流す佳代を、兆は三白眼を見開いてただ見つめた。透明な涙が頬から零れて、白いソファに灰色の染みをつくっていく。潤んだ瞳は、雲間から差し込む光の梯子はしごのような光を宿していて、兆は彼の頬をそっと拭う。泣き疲れた子供のように彼を見上げ、佳代はひときわ大きくせぐりあげた。

「……本当は、ずっと気にしてたのだ。最近連絡よこさないけど、どうしているのかって。だけど、まさかこんなことになるとは思っていなかったのだ……何も気づけなかった僕は馬鹿なのだ。本当に、申し訳なさでいっぱいなのだ……っ」

「……佳代……」

 彼の涙は真珠のように綺麗で、零れた言葉は子供のように無垢で。兆は見開いた瞳で彼を見つめ、言葉を探すように薄い唇を開いた。心臓の鼓動が徐々に大きくなっていく。まるで、大切な人と再会した少年のように。

(いたよ……俺のことを大切に思ってくれる人は。俺のことを想って、ここまで心を動かしてくれる奴は……いたよ、すごく近くに。見ようとしてなかっただけで……)


 佳代の頬をぐしぐしと拭い、兆は彼のアーモンド形の瞳を見つめる。そこに宿る光は柔らかくも濡れていて、まるで春の雨のようで。そんな光がひどく尊く思えて、兆は彼の小さな手を握る。

「……ありがとな、佳代。変わらずにいてくれて。……わかってくれる奴がいるってだけでも、楽になるもんなんだな。ありがとな、佳代」

「ふん……このくらい当然なのだ……」

 佳代の手は少女のようにぷにぷにと柔らかくて、燃えるようなぬくもりがあって。憮然としたようにもう片方の手で涙を拭う彼に、兆は空に架かる大きな虹のように笑いかけるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る