第9話 助け手

 何度歯を磨いたかわからない。

 お風呂にも入り、肌が真っ赤になるまで体中を洗った。


 いつきにとってはあれが、ファーストキスだったのだ。


 抵抗できなかった自分が情けなくて、ふがいなくて、涙が出てくる。


 今日のことはさすがに、鈴にも言えなかった。

 パイドパイパーを阻止するためには情報共有が大事だから、彼が現れたことは伝えた。しかし、「どうして追いかけなかったの」「居場所とかの手がかりは」と訊かれても黙り込むしかなかった。


 また何かされたらという恐怖にいつきは腰が抜けてしまい、ただ泣きながら男が去るのを見ているしかできなかったのだ。


 まだ頭が混乱して、まともに考えることができない。アヤナの件で二週間という期限を切られたからには、すぐにでも打つ手を考えなくてはならないというのに。


 あの男が脳裏に浮かぶと、何もできなかったことが悔しくて、自分が汚れてしまったような気がして、部屋に閉じこもり声を殺して床を転がり回るしかなかった。


「あの男! 馬鹿にして!」


 思わず吐きそうになった「死ねばいいのに」という言葉は、すんでのところで呑み込んだ。

 言霊ことだまを扱う神主が、境内でそんなことを言ってはいけない。けれども、言語化できない鬱勃としたものが膨れ上がり、体を破ってしまいそうだ。


 妹には言えない。

 でも、誰かに聞いて欲しい。話すことでこの重荷を引き受けてもらいたい。


 いつきは携帯電話を手に取った。友人といって思い浮かぶのは、大学時代の同期である神杉由良ゆらしかいない。


 中途半端に霊感があったせいでいつきは、子供時代は気味悪がられるばかりで、友達ができなかった。

 しかし、実家の神社を継ぐため大学の神道学科に入学してきた由良は、かなり強い霊力を持っていたため、いつきのことを奇異の目で見ることもないばかりか、他人には言えないような話も包み隠さずできる相手となったのだ。


 黒髪で整った顔立ちの由良は、他学部の学生からは神秘的だとアイドル扱いされていたが、神道学科の同期からはおそれられていた。霊力はなくとも神事に携わろうとする人間には、由良の何もかも見透かしているような、ある種の怖さが伝わるのだ。


 まずはLINEでメッセージを送る。


『久しぶり! ちょっと相談というか愚痴、いいかな?』


 神職は朝が早い分、夜は自由時間になっているはずだ。返事を待たずに、そのまま書き込みをする。


『 パイドパイパーを名乗る不審な男が、ネットで悪さをしているみたい。で、今日そいつにファーストキスを奪われた……』


 重くならないよう、かわいい熊が泣いているスタンプを送る。しばらくすると、返信があった。


『ちょっと待て。今、電話いい?』


 OKのスタンプを送信すると同時に、着信があった。由良だ。


「もしもし、由良?」

「あー、もう、何これ。電話つながったとたん黒い靄がこっち来たんだけど」


 電波は気の波動に似ている。電話で二つの場所をつなげることにより、相手側の気や、場合によっては霊と接触することができる。いつきには無理だが、由良にとってはお手のものだ。


「いつき、混乱してるね。気の流れが乱れてる。くだ送るから、そいつに託してよ」


 言うが早いが、いつきの目の前に、銀色の狐が現れた。


 大きさは手のひらに乗るくらい。ほっそりとしていて、目が糸のように細い。稲荷神社の跡継ぎに指名された由良の「おつかい」だ。


 後ろ足で立ち上がった銀狐が、いつきの手に前足をかける。


 心の中を覗かれる感覚がした。


 といっても、いつきの方がくだよりも霊力が強い。本当に見られたくない部分は隠すことができる。由良に伝わるよう、こみ上げる吐き気を我慢して、いつきはあの男とのことを脳裏に浮かべた。


 くだが前足を離す。揃えた足をしっぽでくるんで、銀狐が見上げてくる。

 いつきがスマートフォンの画面を向けると、くだは軽くおしりを振って机を蹴り、画面へと飛び込んだ。


 しっぽの先まで画面の中に入ると、静寂が訪れた。


「オッケー、受け取った」


 由良の声がする。いつきは再び携帯電話を耳にあて、「まあそういうわけで」と口ごもった。


 いつきが経験したことをくだが丸ごと記憶し、言葉に変換することなく由良に伝える。もちろん、彼女は相手の許可を得た場合にしか、こんなことはしない。


「えーと、やたら色素の薄い痩せ型の男、ってので合ってる?」

「そう、そいつ」


「一見、品が良さそうに見えるね。瞳とかまつげの色が薄いから、マイルドな印象に擬態してる。……あー、こいつ、やばいね。人を人と思ってない奴のにおいがするわ」


 パイドパイパーから感じた恐怖の理由を、ようやく言語化できた。

 奴は、人間を物のように扱い、平気で傷つけてしかも罪悪感のかけらすら持たない雰囲気を全身から放っていたからだ。


 無理矢理キスされたときにわかった。奴には性欲や女性に対する興味はまったくない。あるのは、他人を支配したいという征服欲だけだ。


「こいつの言動に理由を探しても無駄っぽいね。いつきにキスしたのも、ただのゲームくらいにしか思ってない」


 こちらにとってはファーストキスだったのに、冗談じゃない!

 いつきは、やり場のない怒りで太ももをひっかいた。


「ただ、……あんた気づいてないから取り除いておいたけど、奴の気の塊が入ってたよ。そのままにしといたら、情報抜き取られるかマインドコントロールされるかだね。相手の力量にもよるけど」


 霊力のある人の中には、自分の気の一部を相手に入り込ませ、自分自身に同調させることができる能力者がいる。


 といっても、そんなに特別なことではない。たとえば恋人や夫婦は体の関係を持つことで、お互いの気の一部を相手の体に入り込ませる。


 気の交換をしているから、相手のことを理解しやすいし、別れた場合は離れた自らの気を恋しがって、自分の一部がなくなったかのように苦しむ。誰もが無意識にしていることを、意図的にできるか否かなのだ。


「……ありがと、助かった」


 心なしか胸のつかえが下りたように思ったのは、話して気が楽になったのもあるが、パイドパイパーの気を取ってもらったからのようだ。


「てことは、こいつ、ある程度力が使えるんだね。……パソコンでTwitter検索するわ。パイドパイパーっと」


 キーボードを叩く音が聞こえる。しばらくの沈黙の後、低い声で由良が言った。


「いつき、あんたこいつと戦うの?」

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