第8話 パイドパイパー
(この人、どうして私の名前を知ってるの?)
目を見開くいつきをからかうように、男はわざとらしく眉間に皺を寄せて目を細めた。
「アヤナに近寄ってくる奴がいるから、ちょっと嫉妬しちゃったよ、僕」
アヤナの知り合いだったのか。
この口振りからすると、いつきが送ったDMを読んだのだろう。
もしかして、束縛の強いカレシだろうか。携帯の中身も全部チェックして、毎日の行動もすべて報告させるような。それにしては、高校生のアヤナとは年齢が釣り合わない気がするが。
いつきがめまぐるしく考えていると、男がわずかに上半身をかがめて顔を近づけてきた。
「悪い奴から助けてあげる、みたいなメッセージを送ってくるからどんなマッチョな男かと思ったら、これはまた」
反射的に後ずさる。が、引いてはいけないと思い直し、いつきは男をにらみつけた。
「女だから軽く見てるってわけじゃないよ。ただ、あなた自身が、弱くて、芯がなくて、揺れているからさぁ」
男のトレンチコートの肩にまとわり付く黒い靄が、笑っているかのように細かく振動する。
「『パイドパイパーはよくないことに荷担しているようです』……じゃあ、よい悪いの基準って、何でしょう?」
自分が送った文面を言われて、手足の先から血の気が引き、かすかに震え出す。
(じゃあ、目の前のこの男が、パイドパイパー!)
ネット上の実体のない存在だったパイドパイパーが、急速に現実の重みをまとっていく。
「まあ、善悪なんて主観的な部分があるからね。じゃあ、偽善と善の違いって何でしょう?」
黒い瞳孔がくっきりと浮かび上がる薄茶色の瞳は、まるで野生動物の目のようで、いつきは声すら出せずに視線をそらた。
「真榊いつきさんは、パイドパイパーが悪で、自分が善だと思ってる。でも、それは本当なのかな? パイドパイパーがアヤナに与えている救いに替わるものを、提供することができるのかな?」
男の問いに対する答えを言語化することを、いつきは無意識に拒んだ。しかし、そんないつきの声を代弁するかのように、男が続ける。
「できないよね。それって、飼えないのに野良猫に餌をあげるのと同じなんじゃない? 餌をもらった野良猫は、これからもご飯にありつけると期待する。人間の一時の気まぐれだったのに。野良猫は、自分で餌を得るために努力する術を忘れ、いつまでも来ない人間を待って飢える。でも人間は、かわいそうな猫にご飯をあげたやさしい自分、なんて悦に入っている。偽善と言わずに何て言うのかな?」
完全に男のペースに巻き込まれている。何とかしなくては。
「では、あなたは、アヤナさんを救えるのですか?」
いつきの問いに、男がかすかに笑う。
「質問に質問で返すのは失礼だって、学校で習わなかったのかい?」
男のまとう黒い靄が、だんだんといつきに近づいてくる。白衣が薄墨に染まり、肌が粟立つ。呑まれてはいけない。
「アヤナさんを救いたいと思っています。できる限りのことをします。少なくとも、パイドパイパーよりは」
全身に力を入れ、声を絞り出す。
いつきの声にはじかれたように、靄が押し戻される。
男が背を反り気味にして、いつきを見下ろしてくる。
「宣戦布告、確かに受け取りましたよ。真榊いつきさん」
負けじと、いつきも拳を握り、男を見返す。
「僕は偽善者が大嫌いでね。完膚なきまでに叩きのめしたくなる。僕からも、宣戦布告をしましょう」
ポケットから手を出した男が、威圧的に腕を組む。
「あなたの予想通り、僕がパイドパイパーだ」
二人の間に、冷たい風が吹く。
「僕より先にアヤナを救えれば、あなたの勝ち。できなければ僕の勝ちだ。期限は二週間」
まずい、相手のペースに乗せられている。
こんなのは勝負でもなんでもない。第一、いつきにはアヤナの情報がまったくない。不公平もいいところだ。
「待って。そんな勝負には乗らないし、人ひとりの人生を賭けるなんて、勝負にしていいことじゃない」
「まあ、そちらが乗らなくても、乗らざるを得なくなるけど」
男がきびすを返した。背を向けたまま片手をあげて、そのまま立ち去ろうとする。
「待って!」
いつきは彼の前に回り込んで立ちはだかった。
沈みかけた夕暮れの赤い光が、パイドパイパーの白い肌を照らし、頬の隆起や眼下のくぼみに陰影をつける。
にらみ合ったまま、時間が止まる。
目をそらした方が負ける。
そう思ったのに、いつきのほんの少しの心の揺らぎを見て取ったように、男がすばやく動いた。
両頬をつかまれたかと思うと、男の顔が近づく。
何のためらいもなく口づけをされて、いつきには防ぐ暇もなかった。
頭に血がのぼる。
カッとなって何も考えられないながらも、両手の拳で男の胸を必死で叩き、体を離そうとする。しかし、頭を固定する骨ばった男の手は存外力が強く、びくともしない。
引き結んだ唇を割って、舌が入ってくる。食いしばった歯に阻まれてこれ以上の進入はなかったが、舌と一緒に男がまとう黒い靄が体内に入るのがわかった。
頭を激しく振り、ようやく男の手を振りほどいて唇を離す。
が、今度は抱きすくめられて、両手の自由を奪われた。
「ちょ、何するんですか!」
本気で身の危険を感じる。
痴漢にあっても必死に抵抗すれば何とかなると思っていたが、力ではかなわない。全力を出しても、振りほどくことすらできない。
自分自身の無力さを、嫌というほど感じる。
「僕の腕ひとつ振り払えないで、誰かを助けることなんてできるんですかね?」
いつきの耳元で、笑いながら男が言う。
「あなたは弱い。自分自身すら守れない、無力でちっぽけな存在なんですよ」
悔しさで涙がにじんでくる。
「ねえ、ストックホルム症候群って知ってる? 人質が強盗犯のことを好きになってしまう現象なんだって。人間っておかしなものだよね。正しいことよりも、整合性を保つための理由付けを優先させたりする」
暴れ回るいつきの体を、動物でも捕獲するかのように後ろから抱きついて動きを封じてくる。
「真面目な女性ってさ、無理矢理キスなんかされちゃったら、好きでもない人とそんなことをした自分が許せなくて、相手のことを好きになるんだってね。好きでもない人とキスをしてしまった状態よりは、この人のことが好きだからキスをしたんだって言い訳がある方が、自分の中では整合性が取れるから」
耳元で、男がささやく。
「僕のこと、好きになってよ」
渾身の力で男の手を振りほどく。
勢い余って砂利に倒れ込んだいつきは、そのまま仰向けで後ずさった。腰が抜けて、立ち上がることができない。
男が見下ろしてくる。
わずかな夕日が逆光になっていて、表情は見えない。その声は不気味なほどやさしい。きっと、子供たちを連れ去った
「それですべてうまくいくじゃない。
ふふ、とわざとらしく笑って、男は去っていった。
「僕のこと、早く好きになってね」と言い残して。
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