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 就職と共に上京して五年働き、大阪に戻りしばらくしてからはコンビニでアルバイトを三年……しかし先日アルバイトを辞めた。賢治が今もし犯罪者になれば、実家暮らしの無職(31)とニュースで読み上げられるに違いない。


 むろん、罪を犯そうと言う積極的な意思などない賢治がニュースで取り上げられることなど、彼が犯罪被害者にでもならない限りありえないのだが。

 両親が牛頭畷に住む娘夫婦――賢治にとっては妹夫婦――と車で鳥取の温泉に行っているのを良いことに昼過ぎまで惰眠を貪った賢治は、物言いたげな目で自分を見上げる飼い犬のチョビに「こういう日もある」と言い訳をしながらカリカリを与え、ニュースのみを繰り返す番組をつけて適当な昼食を摂った。


 テレビを消してしまえば、賢治以外に誰もいない家は静かだ。宿が空いているからと平日に妹夫婦が旅行を計画したこと、昼過ぎで子供の登下校の時間ではないこと、近くに工場や事務所などが全くない住宅街であること――この三点から、屋外から聞こえる声もない。

 テーブルに広げたポテチの袋を折りたたみ、空のペットボトルと二つ、コンビニのビニール袋に入れて口を縛れば、それだけでテーブルの上が片付いたように見える。よっこらせと重い体を持ち上げビニール袋を台所のゴミ箱に捨てに行き、また居間に戻り座椅子に腰を下ろす。

 スマホにZを描いてアンロックすれば、メールやらゲームの通知やらが溜まっていた。賢治は昨晩両親に合わせて早仕舞いしたため、そういえば今日の分のログインボーナスを受け取っていない。


 賢治がスマホを操作しているのを、板敷きの玄関から、チョビが口の周りを大きな舌でベロンベロンと舐めながら見ている。遅すぎる朝食は終わったが散歩がまだだ、そう言いたいのだろう。賢治はチョビの訴えかける目を無視して座椅子に深く背中を預ける。手元のスマホ画面はループ機能によりキャラクターが自動で敵を倒し始め、テレビは三十分前に聞いたものと同じ内容のニュースを読み上げる。自堕落の極みと言うべき光景だ。


 ゆったりとした時間は突然破られた。賢治の脳内に響き渡ったのは大音声の警告音と電子的な機械音声――力を蓄えよ。お前のジョブはテイマー。

 衝撃で座椅子から転がり落ちるようにして床に崩れた賢治は、先ほどの言葉を繰り返す。


「ジョブ?……俺のジョブがテイマー……?」


 現実とゲームの区別がついていない若者がどうの、という報道がままある。賢治もその一人なのか――しかし賢治はゲーマーを名乗ることができるほどゲームを極めているわけではないし、アニメも気まぐれに流し見る程度。映画やドラマはどうかと言えばラブシーンに恥ずかしさを覚え、純愛には縁がなく、過激な抗争は好みではない。

 現実はもちろんゲームとの縁も薄いため、ロ―ファンタジーとも縁がない。そんな男がある日いきなり「俺はジョブに目覚めた。テイマーだ」などと言い出せば、常識的に考えて、周囲の者達から頭の心配をされるだろう。

 だが賢治は今独りだった。チョビがいるが、犬は人語を操らない。賢治を止める言葉を持つ者はいなかった。


 頭の中を満たした声、自分がテイマーであることの証明をしたい、と賢治が向かったのは家から徒歩十分ほどの距離にある穂希川だ。家を出てから右手の方角へほぼ道なりに進めば着くその穂希川は、川沿いにサイクルラインが整備されている。川に沿って細長い河川敷の広場は百メートルダッシュができる広さだ。

 賢治にとって有難いことに、真昼間に犬連れでここへ来る者はいないようで、川を挟んだ向かい側に犬連れの散歩が数人いた程度だ。そしてスマホで時間を測りメモを取りながらチョビに指示を繰り返すこと一時間強、遂にチョビが非現実的なエフェクトと共に進化をした。


「レベルアップしたんか……これが、レベルアップ! えらい! よーやったなチョビ!」


 レベルアップした喜びによりその場では流してしまったが、白目を剥いて四肢を棒のように突っ張るチョビの姿は賢治にかなりの衝撃を与えた。力を蓄えろと言うが、毒で苦しんでいるがごとき飼い犬の姿など好んで見たいものではない。賢治なりにチョビを家族の一員として愛しているのだ。家族が苦しむ様子など見たくはない。そして自分もそのような苦しみを経験したくない。

 不思議な経験をした。興味深いが二度目は御免被る。もうレベルアップは止そう。そう考えながら帰宅した賢治がニュース番組で見たのは、不思議な力を手に入れた痴呆老人による器物損壊事件や、賢治と同じくジョブに目覚めたというSNSの声の山。力を手に入れたのは賢治一人ではなかったばかりか、間接的な力しか持たない賢治とは違う直接的な力を手に入れた者がたくさんいる。


 賢治が感じたのは恐怖だった。ネットには「火魔法に目覚めた」というものもあり、その危険性に唾を飲み込んだ。この発言の主は「自分はいつでもどこででも放火できます!」と言っているに等しい。風魔法も危険だ。老人が風魔法でコンクリの塀を破壊したというニュースがあった。他にもたくさんある。剣士、槍術士、拳闘士、エトセトラ。

 いつその火魔法の「うっかり」や「魔が差した」に巻き込まれるか分からない。家が燃やされた後では遅いのだ。


 賢治の家は大阪府牧丘市の中心部から離れた住宅街にある。都市部近郊の住宅街らしく住宅が密に並んだ町並みだ、壁を不燃材料にせよ等々の決まりがある。賢治の家もモルタルを壁材にした築四十数年の二階建てプレハブ住宅だ。玄関に台所、風呂場など水回りの以外は畳敷きで、道路に面した長細い庭と車が入らない幅の駐輪スペースがある。

 とはいえだ。不燃材料のモルタル壁にしたところで、内からの火は防げない。火種を窓から家の中に放り込むなど放火の方法はいくらでもある。

 しかし一般人が放火しようとする場合、火を大きくするためにガソリンやら灯油やらを運び、油の臭いを体に浴びながらそれを撒き、自らの安全を確保してから火を着けねばならない。思いついてから実行に起こすまでに時間を要するため、犯行を思い直す機会がある。火魔法はどうか。――燃料など必要なく、思い立ったら即その場で火を着けられる。事前の準備など必要なく、思い直すための一呼吸がない。


 賢治は出不精で他人とのコミュニケーションにさほど積極的ではない男だが、一般常識は身に着けている。

 人を傷つけてはならない。放火は人の命やその他の財産を損なう。身近な火事は恐怖だ。――これらのような、常識や理性によるストッパーが働く者が魔法を得たならまだ良い。しかしニュースで報道された風魔法の老人はどうだ。施設から逃亡するだけならまだしも、「私は風魔法使いだ」と騒ぎながら器物損壊だ。

 ストッパーが働いていない人間は数多くいる。


 最寄り駅である牧野駅前には小さなゲームセンターを併設したボーリング場やカラオケ屋など、遊興施設がある。駅前に大きなスーパーが三軒、十年近く前にロータリーが整備された駅には普通と準急しか停まらないが、大阪市内まで電車で三十分足らずで行ける。

 過分に恵まれた生活環境だ。住民の数も多く、牧丘市全体で人口が四十万人という大きな市だ。

 大きな市だから年寄りの数は多い。ただ面白そうだからというだけの理由で犯罪をする者も少なくない。夜は遠くから暴走するバイクのエンジン音が聞こえる。危険な力を他者に向ける者が現れる確率は人口密度に比例して高くなる。


 彼らによる危険から逃げるためには――今のままでは駄目だろう。賢治はデブで、腕力や脚力、体力がない。持久力もないためすぐバテる。

 だが、チョビが今日レベルアップをした。「テイマー」のジョブ持ちらしくチョビに指示をし続ければ、チョビはまたレベルアップするだろう。そのうち賢治もレベルアップするに違いない。


 レベルアップしたチョビは体格が良くなっていた。見た目からでは分からない変化も起きただろう。

 賢治も、レベルアップすれば体格が良くなるかもしれない。筋肉量が増えて持久力なども増大するだろう。


 レベルアップは必須だ。力を蓄えなければならない。目覚めた力を悪用する犯罪者と対抗できるように。


 ――翌日の朝、SNSのトレンドにとある動画が上がっていた。動画に添えられたコメントは「ムカつく担任に正義執行(笑)」。高校のそれだろう教室で、水球に頭を封じられた中年の男がもがき苦しんでいる……という三十秒の動画だ。動画の音声にはゲラゲラという喧しい笑い声の他に「止めろイダ!」「イダくん何してるの!? やめて!」「先生、先生!」などの怒鳴り声や叫び声も混ざっている。投稿の日付は昨日の放課後、つまりこのイダなる馬鹿はジョブに目覚めてすぐ問題行動を起こしたということだ。

 賢治は布団の中で頭を抱えた。眠気覚ましとして見るに相応しい動画ではない。たしかに眠気は吹き飛んだのだが、こんな不快な目覚めなどごめんだ。朝から気分が悪い。


 火魔法は放火が怖い。風魔法は歩く器物損壊だ。水魔法はどこでも溺死マシーン。ファンタジーやメルヘンは夢と希望に満ちたものであるはずなのに現状には夢も希望もなく、賢治は「くそが」と拳を握りしめる。菓子パンの朝食を牛乳で流し込み、午前中のレベル上げに三時間。チョビは再びレベルを上げたが賢治のレベルが上がる様子はない。

 昼食の豚骨醤油ラーメンの具はウインナー二本と半熟卵、たっぷりの乾燥ネギ。賢治は母が「野菜! 食物繊維! 野菜!」とうるさいことを思い出してラーメンの後に紙パックの野菜ジュースを飲み、丸い腹を撫でながらニュース番組をつけた。今朝SNSで炎上していた動画の話題がトップニュースとして報道されている……某県のナントカ高等学校で生徒による教員傷害事件が云々。まったく食欲が失せる話だ。ニュースを見たのが食後で良かった。


 午後も賢治はチョビを連れて河川敷へ向かった。チョビに泳がせてしまうと、夜のあいだ玄関の中に上げるには洗ってやらねばならない。ただでさえ犬を洗うのは大仕事なのに、レベルアップしたことで秋田犬ほどに大きくなったチョビを毎日洗うのはとても面倒臭い……ということで、泳がせるのは止める。

 ガードレールを潜らせ、百メートルダッシュをさせ、フリスビーをジャンプでキャッチさせ、と、様々な指示を出す。チョビは元々頭が良い子で、何度か教えただけで「お手」も「おかわり」も「おすわり」も覚えた。その躾をしたのは賢治ではなく賢治の母だが。


 その晩に帰宅した両親にどう説明すれば良いのか。自分はテイマーで、使役獣になったチョビはレベルアップしました。上手く説明できる自信がなかった賢治は詳しく説明する責任を放棄し、唖然として立ち尽くす両親を放って自室に逃げ込んだ。


 賢治の家の一階は板張りのダイニングキッチンと畳敷きの三部屋そして風呂場にトイレ、二階に畳敷きの二部屋とベランダという間取りだ。賢治の部屋は一階の北側にあり、玄関から一番遠い部屋だ。昭和らしい飾りガラスの窓が二ヶ所あるが、駐輪スペースと隣家の境に向いているため部屋は日中も暗く、どこかじっとりと湿ったような雰囲気がする。

 スマート家電とは無縁な蛍光灯のスイッチをつければ、焦げ茶色のタンスと金属製の本棚、ノート型パソコンや漫画やその他で雑然としたローテーブル、居間にあるものと同じ型の座椅子、床に平積みされた漫画やライトノベルが浮かび上がる。ベッドはない。寝室は家族揃って二階で寝る。


 平積みされた本には最新の流行のものはない。賢治の中高時代に流行った漫画や名作の愛蔵版などで、時々山を崩して読んでは山の上に戻しているため巻もシリーズも滅茶苦茶だ。

 部屋を入ってすぐ左手には押し入れがあるため収納には困らず、本が散乱していることを除けば広々とした部屋だ。


 畳の上に落ちていた磁気ネックレスを拾い上げて首につける。デスクワークや運動不足による肩こりと賢治の付き合いはもう五年近い。

 座椅子に腰かけ、居間の声に聞き耳を立てる。父親が肯定的なことを言ってくれていることに賢治は安堵のため息を吐いた。そう、そうなんだよ、と一人で頷きながら二十分を待ち、両親が荷解きを始めたところに小走りで部屋を出た。二階への階段は居間にあり、小声で「おやすみ」と放るように言って急な階段を四つ足で上る。


 明日もまたレベルを上げなければならない。

 だがそれから一週間が過ぎてもレベルが上がるのはチョビばかりで、頭を抱えていた賢治のスマホが鈍く振動する。


 電話の発信者は――妹。

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