テイマーおじさん

南豊畝農

プロローグ・チョビ

 居間の座椅子に姿勢悪く溶けながらスマホを見ていた飼い主は、宙に突然何か見えたかのような様子で小さく叫ぶと崩れるようにして倒れ、畳に寝転がったまま馬鹿げた独り言を溢した。


「ジョブ?……俺のジョブがテイマー……?」


 飼い主の頭がおかしくなった。いや、おかしくなったというと語弊があろう。

 前から残念だったのが、遂に末期になったのだ。


 私の朝ごはんを忘れて昼過ぎまで惰眠を貪っていた飼い主が起き出してきてから三十分も経つ。パパさんとママさんが娘夫婦――つまり飼い主の妹夫婦――と旅行で今朝はやくから不在なのをこれ幸いと、飼い主はポテトチップスの大袋にコーラという朝食だ。

 食事がジャンクなのは良いとして、頭の中までジャンクになられては困る。


 可哀想なこの男を正気に戻してやろうという優しい犬心でもってわふんと吠えれば、男の目は私を映した。


「テイマーっつーたら……犬とかモンスターとかそういうのを率いるやつやんな」


 飼い主の頭は大丈夫だろうか。この世にはトリマーはいてもテイマーなどという名前の職業などないし、飼い主は先日バイトを辞めている。あえて言うなら自宅警備員ではなかろうか。


「チョビ、お手!」


 飼い主はコロンとボールのように転がって体を起こすと私の前にしゃがみ込み、そんな指示をしてきた。仕方なく右前足を右手に乗せてやれば満面の笑みを浮かべる飼い主――なんだか腹の立つ顔だ。

 飼い主は私の頭をグシャグシャと撫で、「なんか繋がりっぽいの感じた気がする」とまた独り言。まだそんな妄言を繰り返すつもりなのかと呆れている私の内心など知らず、飼い主は立ち上がるや家の戸締まりをし始め、私の散歩用リードやオモチャの袋を持った。


「チョビ、河川敷行くぞ!」


 そして引き摺られるようにして向かった河川敷は徒歩十分ほどの距離にあり、平日の昼過ぎという微妙な時間ゆえか私たち以外に人の姿も犬の姿もない。人の目がないことに気を良くした飼い主は私にあれこれと命じ、お陰で私は飼い主の好き勝手な指示に付き合わされることになった。

 やれガードの下を潜れ川で泳げコースを全速力で走れ等々……一時間もそれに付き合い疲労困憊になった私が舌を出してゼエハアと荒い息をしているというのに、河川敷に来たときのまま斜面に座っている飼い主は私に飲み水を出すこともなく自分の考えに没頭している。


「一時間程度じゃレベルアップなんて無理ってことか? あと三十分して上がらなんだら別の方法考えんと……」


 鬼か貴様は。さっきから必死に駆け回っている私をまた更に酷使するつもりと言うのか。飼い主が好んでプレイしている、リピート機能を使えば勝手にレベルアップしているスマホゲームと現実をごっちゃにするな。生きている私には体力の限界があり、喉が渇けば腹も減る。私の努力をやって当たり前のことだと思わないで頂きたい。

 あまりに腹が立ったので、まだ息が苦しく心臓も痛む中、飼い主に向かってばうわうと吼える。人でなし、糞ニート、デブ、その無駄な贅肉をどうにかしろ。犬語で言ったところで通じないとは分かっているが、言ってやらねば私の気が済まない。


「なんなんやチョビ、うっさいなぁ」


 うるさいとはなんだぶっ殺すぞと吼えた、その瞬間だった。心臓がどくんと破裂しそうな強さで脈打ち始め、四肢の爪先、耳の先端、尾の先っぽに至るまでびりびりと電流のような衝撃が走った。悪いものを食べたときのように胃腸が重くなり、全身は硬直して四肢が棒のように突っ張る。

 まだ私は二歳、若い犬だ。心臓に持病があったりもしない健康優良犬なのに……何が起きたというのか。


「チョビ!? どうしたチョビ!」


 どうと横に倒れた私へ、飼い主はスマホを放り出し青い顔で駆け寄ってくる。

 飼い主は決して悪いやつではない。ただ他人の気持ちに無頓着で運動不足でゲーム脳なだけで、悪いやつではない。でなければ二年前、バイト先のコンビニで押し付け合いになった捨て犬を家に連れ帰ったりしない。


 四肢の突っ張りや内臓の重さ、激しい動悸。なるほど私は死ぬのだろう。たった二歳で死ぬなんて信じたくないが、死ぬのは間違いない。こんなにも苦しいのだ。


「今すぐ病院に連れてったるからな!」


 成体のゴールデンレトリバーの体重は三十キロほどある。運動不足で、散歩を両親にほぼ任せていて、普段スマホより重いものを持たない生活を送っているデブが私を抱えて動物病院になど行けるはずがない。なのに、飼い主は必死に私を抱き上げようとしている。

 重いだろうに、濡れるのに、腕力などないのに、私を助けようとしている。


 ――飼い主とお別れしたくない、もっと一緒にいたい。ぶっ殺すぞなど嘘だ。死にたくない。そう願った私の体は、私の意思と関係なく大きく波打ち、何故か光り輝いた。


「目がっ!!」


 光ったのは本当に短い時間だ。三秒も光っていないはずだ。だが私の体はその『たった三秒』で全く違うものに変わっていた。体格はさほど変わらないが少し大きくなったようだ。四肢は太く筋肉質になり、視力は向上、耳と鼻もなんだか良くなった気がする。


「チョビ……か……?」


 わふんと吠えた。飼い主の顔が今までよりはっきりと見える。


「レベルアップしたんか……これが、レベルアップ! えらい! よーやったなチョビ!」


 私の首に腕を回しぎゅうぎゅうと抱き締めてきた飼い主の頬をぺろりと舐めてやる。

 飼い主は、テイマーなるジョブに目覚めた。これから何が起きるのかは分からないけれど、何か楽しいことが始まるに違いない。


 そう思ったのだが、現実というものはままならないから『現実』なのだった。


 その日の夕方だ。夜間は家の中に入れてもらえる――板の間の玄関までだが――ので、頭を居間に突っ込めばテレビを見られる。テレビでは、さいたま市で特別養護老人ホームから脱走した八十代男性が「私は風魔法使いだ」やら「ジョブに目覚めたのだ」と繰り返し叫びながら住宅街を徘徊し、不可視の砲撃を周囲に乱射するという事件が発生した、とニュースキャスターが繰り返している。見えない砲撃の威力は強く、垣根や住宅の外壁などが破壊される事態になったという。


「ちょ、嘘やろ……」


 飼い主は自分だけが選ばれたと思い込んでいたようだが、どうやら昼間からSNS、掲示板、ブログその他様々なメディアで『ジョブに目覚めた』『人類やめた』という報告が相次いでいたらしい。海外でも『天啓を得た』とか『天命を知った』といった頭の沸いたことを呟いている者が何人もいるそうだ。

 明くる朝のニュースは、昨晩と同じ壁破壊老人の話題に、全国でほぼ同時に起きた何件かの火事。それを見る飼い主の表情は苦い。


「ネットじゃ自称火魔法使いってのもおるし……原因それやろ。知らんけど」


 飼い主は洋梨の体を持ち上げ、「レベル上げに行くぞ」と私に言う。


「今日こそ俺もレベルアップせな」


 それから三時間ほど河川敷にいたが飼い主がレベルアップすることはなく、私がまたレベルアップしただけで午前が終わった。二度レベルアップをした私の体格はゴールデンレトリバーの枠を超え、体格はふた回り大きくなり体重はほぼ倍増。玄関の姿見に映る私はもはやゴールデンレトリバーではなく、ゴールデンレトリバー改または真・ゴールデンレトリバーとでも呼ぶべき凛々しい姿になっている。

 ここまで姿が変わると玄関先の犬小屋が用を為さなくなり、また目立つことを嫌った飼い主は私を庭に繋がなくなった。


 お昼に見たニュースは昨晩の風魔法使い爺さんに件数が増えた火事、そして高校生が教師を溺死させかけたという傷害事件。飼い主は「世の中ほんま馬鹿ばっかやな」と言ってテレビを消した。


 昼食後もまた三時間ほど河川敷で訓練をしたところレベルアップをまた一回、翌日は四回目のレベルアップをした。しかし飼い主がレベルアップする様子はない。


「なんで俺はレベルアップせんのや……」


 悩む飼い主に私は心の中で突っ込みを入れる。私に指示するばかりで自分は全く動かないからではないのか、と。飼い主は動けるデブではなく弛みきったデブで、自分も私と一緒に運動しようかという気概はない。動けデブと吠えたが飼い主は犬語が分からないので無駄吠えに終わり、夕方の訓練でも、飼い主は声を出す置物でしかなかった。

 置物の真似でレベルが上がるなら世界はレベルカンスト者で溢れているだろう。


 その晩に帰って来たパパさんとママさんは、居間の隣にある台所にいる私を見て悲鳴を上げた。うろたえる二人に飼い主は「チョビはレベルが上がってデカなった」と適当な説明をしただけで部屋に引っ込んでしまい、居間に残されたパパさんとママさんは荷解きもできず頭を抱えている。


「テイマーだなんて……あの子パソコンのやりすぎなんじゃないの? テレビで言ってるじゃない、ゲーム脳だとか、スマホ依存症だとか……本物のチョビをどこにやったんだか……」


 二泊三日の短期間でふた回り大きくなった私がチョビと信じてもらえるわけがなく、ママさんは溜め息を吐き、疲れた目を奥の部屋に向ける。飼い主の部屋だ。


「そう言うけどな、僕はこの……でかい犬。これはうちのチョビだと思うよ」

「なんでそう思うのよ」


 私をまっすぐ見るパパさんに対し、ママさんは怖々とした様子で私をチラ見してくる。


「まず、賢治はこういったドッキリをしない質やし」

「まあ……そうね。あの子、ドッキリ番組とか嫌いだし」


 飼い主がニュースやドキュメンタリーを好んでいるのは知っていたが、ドッキリが嫌いだと言うのは初めて知った。


「そしてこの大きな犬やけどね、落ち着きすぎなんやわ。もし賢治が僕たちを驚かせるために本物のチョビをどっかに預けてこの犬を我が家に連れてきたんやとしたら、この犬は我が家に来てからたった二日かそこらやろ。もっと態度が萎縮していたりするんちゃうかな」


 チョビと呼ばれた名前に反応して耳を動かせば、パパさんは優しい目になった。


「ほら、名前に反応してるやろ? チョビって単語が名前って分かってるんやわ。それで、この犬がよそのトコの子なんやとしたら……慣れない場所で初対面の人間と同じ空間に放り出されて、こんなに落ち着いてる犬なんて滅多におらんやろし。確かに僕は犬のことなんて毎日散歩せなならんってことくらいしか知らんけど、まあ、僕がこの犬やったらきっとビクビクして部屋の端に逃げてるやろし」


 おいでチョビと呼ばれて足元にすり寄れば、パパさんは私の頭から背中を撫でながら「大きゅうなったなぁ」と感嘆の声を上げた。


「そうだけど……でも本当なのかしら。賢治がドッキリを仕掛けてきたって方が信じられるんだけど。テレビゲームのやりすぎで妄想が酷くなったとかじゃないの?」

「宿でもテレビで変なニュースは見たろ。自称風魔法使いやら水魔法使いやら……賢治一人がおかしくなったんならまだしも、賢治以外にもたくさんの人がおかしくなってるんやし。同じ日に似たようなことを繰り返し主張する人が現れてるってことは、きっと何かあるんやろ」


 初日に「飼い主の頭が遂に末期に!」などと思った私に対して、パパさんは柔軟で理性的で家族愛に溢れた結論を出した。これが人徳の差というものだろう、見習いたいものだ。


 それから日が過ぎること十日。ほぼ毎日のように河川敷へ連れ出されて訓練を重ね、更に六回レベルアップした。これで、始めのレベルを0とすれば現在レベル10になる。

 私の体は飼い主が乗れるほどに大きくなったが、レベル5になった時に体の大きさを自在に変えられるようになったため、今は一般的なゴールデンレトリバーの大きさで過ごしている。


「レベルアップに必要な訓練の時間は、レベルが1上がるごとに約1.5倍。この程度の訓練でさくさく上がるということは、逆に考えれば短時間の積み重ねで他の奴らとレベルを引き離すことができるってことや……」


 ぶつぶつとスマホを見ながら呟く飼い主の横でがぶがぶ水を飲む。

 歩いていける距離ではないが無料で綺麗なドッグランがあるため平日昼間の河川敷は私一匹で独占している状態で、シルバーのランナーも三時間のうちに何人か見かける程度。つまり、出不精で人付き合いが苦手で独り言が多い飼い主にとってこの河川敷は良い環境だ。


「訓練時間増やすか。午前と午後にそれぞれ半時間と一時間増やしゃええやろ」


 ふざけるな悪魔か貴様は。走り回り柵を飛び越え川に飛び込み……と真面目にやっている私をこれ以上酷使しようというのか。私がこの訓練に黙って付き合っているのは単に私が親切だからだ。他人の親切心に胡座をかいたデブが気軽に訓練時間延長やらなんやら言うな。


「ちょ、そんな恨めしそうな目すなや。冗談に決まっとるやろ?」


 冗談を言う時の表情や匂いではなかった。私の視力は今やトンビ並みだし、嗅覚はアフリカゾウをも越える。もはや私に嘘は通じないと思っていただきたい。


「でもなチョビ、俺やその他たくさんがジョブに目覚めてからもう二週間近く経つ。ここらへんでドカンと何か面倒なことが起きそな気がするんや」


 なんかな、急がなならん気がすんねや……。


 そう呟いた飼い主の表情は普段の弛んだそれではなく、危機感に満ちた真剣なものだった。

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