第7話 名波とかなた
都心のビルが遠くに見える。
3月も半ばで、夏は去ったものではなく、来るものとして待っていてもいい季節になった。
レモネードやアイスクリームにはまだ早いけれど。
かなたには、3か月ほど会っていない。いつも書いてくれる魔法の呪文を、前回は何故か書いてはくれなかった。気まぐれなのか、ただ薄く笑うだけだった。
魔法が切れてしまったような気がして、それでもかなたに無性に会いたくなると水族館やプラネタリウム、喫茶店へ行ったが、かなたは居なかった。
彼女の笑顔が脳裏に現れる度、白昼夢を見ていたような気がした。
――今までが“当たり前”じゃなかったんだ。
ただ、日常に戻っただけなのだと自分に言い聞かせている。
仕事帰り、帰宅途中の夜の公園。
昼間あったはずの喧騒は帰ってしまった。
猫が横切る。
電灯に照らされた寂しいベンチに座っていたのはかなただった。白いパジャマを着ている。
青だった髪が黒髪に押し出されて、深い海の底のようなグラデーションになっていた。
やっと会えた、そう言って笑みを浮かべるには、かなたの顔は今まで会った時とは少し違って見えた。いつも上を向いた夢心地な表情から、俯いて遠くを見るようにぼんやりとしていた。
「そんな恰好で、風邪ひくよ」
急いで名波は自分のコートを渡した。
名波に気づいたかなたはばつがわるそうにはにかんだ。まるでいたずらがバレた子供のように。
どうしてこんなところに?
その恰好は?
何かあったの?
その質問は彼女を遠ざけてしまう。彼女を知れば知ろうとするほど、彼女はきっと逃げてしまう。この非現実さが二人を留めているのだ。
今名波が買ってきたばかりの、熱いミルクティーの缶を受け取ると疲れているのか、いつものように上気した頬ではなかったが、微笑んでかなたはお礼を言った。
なんとなく、お互いについて深く知りすぎないことが、二人の暗黙の諒解だった。恒星のように近づきも、遠ざかりもしない距離が、二人の世界を保っていることを名波は感じていた。
「東京は、あんまり星が見れないね」そう言った名波に
「あるじゃない、星は何処にでも」
「君の言うのはプラネタリウムだろう? あれじゃ本物の星とは言えないよ」
「……名波は、本物かどうかに、価値があると思う?」
当たり前だ。偽札は使えないし、まがい物の宝石はその値段が価値を示している。――音楽だって、二人目の誰かはいらない。
名波は当り障りなくかなたにそう言った。
かなたは少し悲しそうな顔をした。
「偽物には、偽物の役割があるのよ。ガラスが指輪に填められてたって、その人にとってガラスが宝石より美しいなら、それが本物になることだってあると思う。そもそも本物と偽物と区切ってしまうことが変よ」
かなたは、少し必死に見えた。まるで名波を正したいように。
「ごめん。僕は、……引きずってるんだ、昔のこと。もう終わったことを」
音楽をすることで自分の存在価値を見出していた。
それがなくなって、何をするべきか分からなくなった。
答えを明確にしてきたわけじゃない。それだけの事なのに、頭が、心が時間についていけない。
「あのとき音楽が嫌いだっていったけど、そんなことない、救われているんだ、だけど苦しめられてもいる」笑って濁すつもりだった。
「……聞いてもいい?」
「――ある人に言われた言葉が、どうしても受け入れられなかったんだ。僕の先生の……」
『――お前は人に届けたいと思ったことはあるか』。
「そのとき、僕はただ今までうまくなりたい、歌いたいって気持ちだけで、音楽をやって来たって分かった。誰かに届かないと、意味ないんだ。存在していないのと同じ。僕はただ僕のための音楽しか必要じゃなかった。人のために何かをできるほど、僕は器用じゃない」
それで満足なはずなのに、幸せを感じるべきなのに。
残ったのは抜け殻のような自分。
「評価されたい、認められたいなんて、思っちゃったんだ。それから、僕にとって音楽は音楽じゃなくなった」
かなたは考え込むように、足元をみながら、ぽつぽつと彼女の言葉を紡ごうとした。
「……このさき何を選んでも、それはついてくるよ。『戦う』『一緒に生きる』『受け止める』『あきらめる』。色んな言い方があるけれど、みんなそれぞれのやり方で、正解を信じて、あるいは探して、生きている。
教えてくれるものがあるとしたらそれは、――‘時間’ね。
――考える時間一人の時間、最期の時間。これで良かったって思っても、後悔しても終わるときは終わる。あとは塵に還るだけ。シンプルなのよ」
「かっこいいなあ、君は」
「こう見えても、色々考えているの。知らないことは、タイムワープの方法だけ」
いたずらっぽく笑う。
「……君について聞きたいこと、たくさんあるんだ。僕は君のこと何も知らないから」
「私はね、実は……宇宙人なの!」。
「僕今、けっこう勇気出したんだけど」
「あはは。ごめんごめん……」
「いいよ。君は君だ。それに君が宇宙人なら僕だって宇宙人だ」
その時、かなたが座ったまま名波を見上げた顔は、水彩絵の具が溶け合うように一つの言葉では表せなかった。
――戸惑いにひきつったような表情と、幸福が染み入ることへの抵抗、潤んだ眼差し。
「今日は魔法の呪文、書かないの?」
「……もう魔法が残っていないのよ」
スケッチブックを名波から受け取ったまま、魔法の呪文は紡がれない。
「……じゃあ、今度は僕が魔法をかける。僕は毎日、此処に来る。一つの儀式みたいなもんさ。だから、今度は君が魔法を叶えるんだ」
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